第一章:夕暮れの中で
そこは宿場から些か外れた街道筋。時は人の面も見えぬ黄昏時。……そこを歩く人影一つ。
「あ~ぁ、なんと今日はついていないことか……」
人影の男はそう唄うように口ずさむ。この者、吟遊詩人を生業とする優男なれど、今日という日はほとほとついていなかった。旅の途中思わぬ足止めをくい、お陰で宿場の宿は満席だと断られ、街の外にでも野宿するか……と歩いている次第なのだ。
災いというのは一度に訪れるようで、突如として男の周囲から影が現れる。影の一人が白刃を閃かせ、押し殺した声で唸る。
「……おい、身ぐるみ剥いで置いてきなっ。」
「ひっ、ひぇーっ!!」
影たちは、野盗であった。優男は野盗の出現に驚き、腰を抜かしたようにしゃがみ込んだ。彼は心底、今日の運のなさを呪いつつ、如何にしてこの苦境から我が身を助けるべきかを思案していた。
その時、突如として背後より声がかかる。
「……そこの者たち……何をしているのだ――」
「「「……!」」」
その声は低く暗く夕闇に響いた。その場にいた者たちは一斉に声の方に向き……そして思わずとも背に冷たい物が走る。
そこに立っていた者……それは黒き甲冑に黒き騎馬の騎士であった。されど、その騎士が尋常な騎士ではないことは何者の目にも明らかであった。そもそも並の騎士が、こんな時刻にこんな場所にいる筈がない。……それ以前に、並の人間が爛々とその眼窩の奥に比喩でなく紅い光を宿すだろうか? その身が霧霞のようにぼやけて見えるだろうか?
そう、そこに立っている騎士は、まさに「幽霊」と思われるものに見えた。
漆黒の騎士はおもむろにその手を腰に佩いた剣に手をかける。そうして抜かれた剣は、魔力によるものか淡く白く煌めいている。
そして、騎士は無造作に……されど目にも止まらぬ早さと巧みさで魔剣を振り上げる。その一瞬後、騎士の前に立っていた賊の一人は、左脇腹から右肩に逆袈裟に切り裂かれていた。
騎士の太刀捌きをその目に捕らえた者は、その場にはいなかった。ただ、閃きの一瞬後に飛び散った暗き色の液体と断末魔によって、何が起こったのかを知り得たのだった。
「ば、化けもんだああぁ~っ!!」
怪奇を見た恐怖ですくんでいた一党の脚は、白刃の煌めきという新しい恐怖のお陰で再びその役目を思い出した。野盗は散りぢりに逃げ出した。だが、野盗に襲われていた優男の方はそうはいかなかった。目まぐるしく襲った恐怖のあまり本当に腰を抜かしていたのだった。
騎士は騎馬から降り、優男の方に向かってゆっくりと歩を進める。優男は恐怖に声も出せぬまま、微かに動く腕の力のみで騎士から逃れようとする。しかし、そんな事で逃れようはなく、彼は騎士に腕を掴まれる。顔を引き攣らせる男に向かい、騎士は低く小さな笑いを漏らした後、優男に声をかけた。
「……それ程怯える事もなかろう。野盗も去ったようだし、もうそろそろ立てる頃だろう。」
そう言って、騎士は男の手を引いて立たせる。……改めてこの騎士の声を聞くと、思慮深い男性の物に聞こえた。それでもその声は生者の物に思えず、その身からも何処か生気を感じる事が出来ないでいた。
そして、優男は真正面から騎士を見ることとなった。その紅く輝く目とまともに視線が合い、再び優男は息を呑む。しかし、この騎士の気に障るような事は出来まいと、その動きを咄嗟に堪える。それを見た騎士は、再び笑いを漏らす。
「……そなたを斬るつもりなどないのだ、そのように気を使わぬとも良い。……シャーフィール!」
男はこれにまた驚く。騎士はこの星明かりしかない闇の中で、彼の微かな表情の変化を覚ったというのだ。並の人間であれば、こんな闇の中でこの些細な変化に気付く事などないのに――
そんな驚きから醒めると、彼の傍らには、漆黒の体に紅い目をしたドールホースが立っていた。その鋼馬に騎士が声を掛ける。
「シャーフィール、この者を街の郊外まで送ってやれ……」
そうすると、鋼馬は御意と言わぬばかりに頷き、男の襟首を銜えて騎乗するよう促す。騎士の方を見ると、もうその輪郭も分からぬながらも、輝く目の動きから騎乗を勧めているのが判る。
男はここで断るのも何かと不味かろうと思い、騎士の勧めに従うことにした。
そして漆黒の鋼馬に揺られて半刻程も経った。既にあの騎士の姿は見えなくなっていた。
あの場所から騎士に見送られ、今はこのドールホースに乗って独り宿場の明かりに近付いている。そして、街の明かりが届き始める街の門前に、男を下ろした鋼馬は街道をもと来た方へと帰って行った。街道を去る鋼馬を見送りながら、始めて男はある驚くべきことに気が付いた。
ドールホースをはじめとするドールは自立的に動くことなど無い筈である。特に、騎乗用としての目的を持つドールホースが、騎乗者が乗っていないまま、勝手に動いた等という話を、彼は今まで聞いたことがなかった。
「あれは……何だったのだろう……?」
夢だったのだろうか、そんな考えが男の脳裏を過ぎった。だが、それにしては血の匂いや騎士の手甲の冷たさ、そして鋼馬に揺られた騎乗の感覚……これ等はその身体に未だ残っている。
では現実だったのだろうか? それにしては、紅く輝くその瞳や、闇の中に溶け込むが如き漆黒の姿、そしている筈がない闇の中へ去っていった鋼馬……これ等は、彼の理性も事実だとは信じ切れてはいなかった。
しかれども、夢であれ、現実であれ、彼が見たのは確かな事実だ。そして、彼は、夢であれ、現実であれ、人に物語を歌い聞かせる吟遊詩人であった。彼の職業意識は先程の体験した事実を、冷静に詩に仕立て上げる為の推敲を始めていた。
そして、その過程の中で男は、あることに引っ掛かるものを感じる。
「……シャーフィール、何処かで聞いた事のある名前だった――何処だったっけ……」
そうして、彼がその名を何時聞いたのかを思い出したのは、天上を駆けるのが夜の闇から、光をもたらす太陽へと移る、まさにその時だった。
これより以降、闇より訪れる漆黒の騎士の目撃談はフォーサイトの辺境を中心に次第に広まり始めた。そしていつしか、闇より現れ、闇に消えるこの騎士を、人々は “影の騎士” と呼ぶようになっていった。
そして、一人の吟遊詩人の手によって、“影の騎士” の遭遇談は編纂され、一編の詩となり、フォーサイト国内は疎か周辺諸国に広まって行くこととなる。
それに付随して広まって行ったのが、「“影の騎士” の正体は、先の戦で戦死した騎士シェユラス卿の幽霊ではないか……」と言う噂であった。