第五章:一つの不穏なる噂
その日の夕べ、雑踏と喧噪で賑わう場末の酒場の中にシェアナの姿があった。
人の集まるこのような場所には、様々な人々が色々な噂を持ち寄ってきている。それらを酒を片手に聞き取ることで、彼女は自らの望む情報の手掛かりを掴もうとしているのだ。しかし、そこには彼女が望むものばかりがいる訳でもない。
「おぉぉぉ! これは、これは、シェアナさん! こんな所で再び相見えられるとは、まさに感激の至りですね。この再会を天上の神々に感謝を――」
「五月蠅いぞ……」
突然のリュッセルの掛け声を冷淡にあしらったまま、彼女はもう一度酒場の喧噪に耳を傾けた。彼女にしてみれば、吟遊詩人である彼がここにいることに疑問はないし、自分という存在が意外と目立つだろうとも弁えていたのだから、この出来事を半ば予想していたのかも知れない。
そんな素っ気ない彼女に構わず、詩人は彼女に話しかける。
「ところで、シェアナさんは聞いてますか? あの噂――」
「……?」
リュッセルの言葉の意味がつかめず、彼女は黙したまま言葉の続きを待つ。
「ほら、この都市に広まっている “影の騎士” の噂のことですよ。」
その言葉に、シェアナは驚きを隠せぬ様子で声を上げる。
「……何!?」
その声を遮るように、声を顰めてリュッセルは囁く。
「この都市の領主へ “影の騎士” の書状が送られてきたって言うんですよ。」
「な……“影の騎士” だと?」
「ええ、そうなんです。しかも、その書状の内容がかなり剣呑なものだったらしく、今この領主館では腕利きの傭兵を雇い入れているって話ですよ。」
その話を聞き、思わず彼女はつぶやきを漏らす。
「……変な、話だな。」
「本当にそうですね。今まで “影の騎士” がこんなことをやったことなんて、一度もなかったと言うのにねぇ――」
「…………」
リュッセルの言葉に、彼女は絶句したまま頭を垂れた。
“影の騎士” 当人である彼女は、この街に今日来たばかりだ。彼女がこの地の領主に宛てて書状を送ることなど出来はしない。何者かが “影の騎士” の名を騙ったと言うことだ。しかし、何故……
シェアナは、果実酒の杯を微かに傾けつつ、その問いを求めようとした。
翌日の領主館の門前に、シェアナの姿はあった。錆の浮いた古びたドールホースに跨り、マントの内を軽装の皮革鎧で身を包み、その腰には少し細身の長剣を佩いている。彼女は、領主館の門前に立つ門衛に声をかける。
「この館で近頃傭兵を雇い入れていると聞いたが、本当のことか?」
「……女、何用だと言うのだ?」
訝しむ門衛に対して、彼女は答える。
「こう見えても腕に覚えがある。傭兵として雇い入れてもらいたいのだが――」
「確かに、傭兵は雇い入れてはいるがな……少し待っていろ。」
彼女の言葉に訝しげな表情を拭えぬまま、門衛はそう言って、屋敷の中へと入って行った。
暫くして、戻ってきた門衛は、“影の騎士” とことを構える覚悟があるなら、と言う条件で雇い入れる旨を伝えてきた。彼女の答えは当然、「諾」であった。
その館の内部では、打ち拉がれていた領主は、意外な人物の来訪に戸惑いを隠せずにいた。
彼の前に立っているのは、親衛騎士団騎士であり、先の戦の功労者の一人、ショーネル=ヴァルターその人である。領主は先の戦で戦端を開き、無様な醜態を晒した者の一人であっただけに、心中穏やかでいられないところなのだろうが……今の彼にはそんなことにまで心を配っている余裕はなかった……
「……で? 私に何の用だと言うんだ、ショーネル卿。」
「私は親衛騎士団長より “影の騎士” についての調査を命じられています。アルサーム卿、貴方の元に “影の騎士” が訪れる――と言う噂があることを耳にしましたので……」
彼のこの言葉に、不意に領主――アルサームは怯えた表情で、彼に縋り付かんばかりに喋りだした。
「た……助けてくれ、ショーネル殿。私は……私は殺されるんだ、あの “影の騎士” に!」
「……どう言うことです?」
見苦しい程に狼狽えたアルサーム卿の姿に、呆然と問いを漏らしたショーネルは、次の領主の言葉に絶句する。
「殺されるんだ! 奴が、奴が来るというんだ!」
「…………」
信じられない話だが、彼の様子を見ていると、どうも何の根拠もない……と言う訳ではなさそうだった。
ショーネルは、暫しこの屋敷に逗留する事を、ここの主たる領主アルサームに約束した。
シェアナは、偽装を施したシャーフィールを指示された厩舎に繋いだ後、中庭へと赴いた。屋敷の中庭には、数十人に及ぶ荒くれ者たちが屯していた。皆、腕に覚えがあると言わぬばかりの面構えをしている……もっとも、“影の騎士” と一戦交えるかも知れぬ、と脅されて怯まなかった者なのだから、当然と言えば当然だろう。
彼等の間を縫い、シェアナは手近な木陰に腰を下ろした。その時、一人の傭兵が声をかけてきた。周囲の者たちも興味津々の風に注意を向けている。
「よぉ、姐ちゃん――」
彼女が顔を上げると、そこには逞しい筋骨を見せつけた巨漢が立っている。
「……私に何か用か?」
自身を見下ろす巨漢を冷ややかに見上げ、シェアナは素っ気無く答えた。その答えににやけた様子で巨漢は言葉を続けた。
「……何ね、どうも相手は “影の騎士” だって言うじゃないか、あんたは辞めといた方が良いんじゃないかってね。なにも女だてらにこんな所に来なくても、他に仕事口なんて幾らでもあるだろ……例えば、裏通りの街頭にでも立ってるだけでいい金になるだろ、こんな所じゃな。……それとも、俺たち相手に “稼ぐ” 気なんかねぇ~?」
巨漢の言葉に、周囲の何人かが下卑た笑いを漏らす。そんな笑いを漏らす一同を一瞥し、彼女は嘲りを含めたつぶやきを投げかける。
「本気でそう思っているとしたら、貴様は戦場ではすぐ死ぬな。相手の力量も読めずにいるのは、傭兵として未熟な証拠だぞ。」
「なっ!? ……ふ、ふざけるな!」
彼女の言葉に逆上した男は、その手に持つ戦斧を振りかぶる。
「やるのか? 私は構わんが――」
そう言うと、彼女は腰の剣に手を懸け、男を睨み据える。
「……!」
鋭い殺気に射竦められ、男の心中に後悔の念が過ぎる。しかし、ここで怖じ気づく訳にもいかない。男は戦斧を振り下ろす。されど、彼女の身のこなしは素早く、戦斧は空を切る。逆に、次に放たれた彼女の素早い斬撃によって、男は防戦一方の体を晒す羽目に陥った。
両者の私闘は暫し続いた、早さや技の洗練さは彼女が優れていても、男の体力も並の者ではなかった故であろう。周囲の者も最初は面白半分の雰囲気だったが、それは次第に彼女の力量の高さへの感嘆と驚きに変わっていた。
この私闘に関する周囲の驚きが、中庭に一通り浸透した頃、突如として屋敷より声が発せられた。
「何をしているか、貴様等!」
皆が振り向いた先にいたのは、館の客人である若い親衛騎士であった。私闘を囲んでいた者たちも、徐々に輪を解き始める。そして、そこに取り残された者の一人に、彼の目は釘付けになる。
「……シェアナさん?」
「ショーネル……卿――」
二人は暫し呆然とお互いを見詰め合っていた。




