第二章:ファルト老
そこはホルトの谷と呼ばれる渓谷の底。そこを漂うように飛ぶ一人の少女がいた。褐色の肌で、背には蝙蝠に似た翼を羽ばたかせている。顔は尖った耳と牙にも見える八重歯を除けば年若い無邪気な少女に見えなくもない。彼女は首を廻らし、先の戦いにより谷に落ちた機械の残骸を物色していた。
「ぅぅぅ……うぅ?」
その彼女が何かを見つけた。ただ、どうやら彼女は口が利けないようだ。彼女が見つけた物は、黒と朱に彩られた鋼の塊……
「……!?」
その朱の色が血の赤と悟った時、彼女はもと来た道へと、まさに飛んで返した。
「……ん、……っん~ん――」
「うゅ……?」
「……うわっ!?」
シェユラスは顔に懸かる視線を感じて目を覚ます。目覚めて目の当たりにする見知らぬ少女の顔に、彼は思わず悲鳴を漏らした。
「ほぉ……もう目覚めおったか。」
その時、ここから部屋一つは隔てた先かららしい、遠くから聞こえる声がシェユラスに呼びかけた。彼は声の聞こえた方へと首を巡らす。首を廻らした彼の視界に、長い顎髭を蓄えた老人が扉を開けて入ってくるところが見えた。
「あ、貴方は……?」
「儂かね? 儂はただのジジィじゃよ……」
「いえ、そういうことではなくて……」
「ふぁっふぁっふぁっ…………分かっておるがね。まぁ、儂の事はファルトと呼んでくれれば良いよ。今はそれで良かろう?」
「……それは、確かに――」
ファルトと名乗る人物は、老人にしては背がピンと伸び、その瞳には少年にも似た輝きを秘めているようにシェユラスには見えた。そして、彼は目覚める前の出来事をゆっくりと思い出した。
「……私を助けてくださったのですか。有り難うございます。」
「まぁ、無事に目覚めてくれて儂も嬉しいよ。ポルが見付けたときは……酷いもんじゃったからのぅ……」
「えっ?」
その老の言葉に、シェユラスは思わず絶句する。
「このホルトの谷の深い崖底に、ドールホースと共に墜落したんじゃ。息があったのが不思議なぐらいじゃったからのぅ…………それで……な。」
「……そうか、そこから助けていただいたのですね…………え?」
自分の無事を改めて実感し、両の腕を眺めやる。しかし、彼の頭に疑問が過ぎる、自分の腕はこれ程細かっただろうか? 自分の指はこれ程細長かっただろうか……? そう頭に浮かんだ疑問は、急速に肥大して行く。首や肩に掛かるのは何か? 肩や胸に懸かる違和感は何故か?
その彼の狼狽えた様子に、ファルト老は頭をポリポリと掻きながら、言い難そうに言葉を紡いだ。
「それが……の。お前さんの体はバラバラじゃったんで、古代遺跡で見付けておった蘇生の秘薬というやつを使ったんじゃが……な。……その……副作用でな、そのぅ……体が……変わりおったんじゃよ……」
「…………」
彼――いや彼女は、自分の身に起きたこの変化を把握し切れぬまま、ただ呆然としている。そこに、ファルト老の言葉が続く。
「お前さんも気付いておるかもしれんが、女の姿になっておるんじゃよ……」
「…………」
その老の追い打ちの言葉に、彼女の顔の色がゆっくりと白く、蒼く変わって行った。そして、彼女の視界は、次第に霞み、暗く消え去っていった。
暫しの時の後、彼女は再び目を覚ました。
「……大丈夫かの?」
「うにゅ……?」
目覚めた彼女の目に、心配そうに自身を覗き込む先程の少女とファルト老の顔が見えた。
「…………はい……何とか……」
「そうか……それは良かったわい。お前さんはな……」
ファルト老が語るには、この前の戦で、谷に墜ちてきたドール達のパーツを回収に来たポルと呼ばれる少女がシュユラスを発見し、老を急ぎ呼び寄せたのだそうだ。
その時の彼の姿は、大破したドールホースに埋もれるように倒れ、皮骨は裂け骨肉は露わとなる、見るも無惨なものだった。普通に考えれば死んでいるのが当然の状況と言えたが、それでも微かに息があるのに気付いたファルト老は、取り急ぎ自身の工房兼隠れ家であるこの小屋に運び込んだ。
そして、可能な限りの治療を施してみるが快方へ向かう様子もなく、やむを得ず老が遺跡で見付けた秘薬を試してみると、この姿の変化とともに怪我が急速に癒されていったということらしい。
ファルト老の言葉に、彼女は暫し言葉無く俯き、小さく言葉を漏らした。
「…………そうですか……それは、有り難う……ございました。」
「な~に、所詮は儂の物好きにすぎんし、あの秘薬の効能を試す良い機会じゃったしな……」
静かに頭を垂れる彼女に、老は敢えて明るく照れた様子でそう答え、少女は老の言葉に合わせる様に手を振った。二人の様子で微かな微笑みが漏れた彼女に向け、老は一つの問いをかけた。
「ところで、お前さんはどういう身の上なのじゃな? 良ければ教えてもらえんかな?」
「私は――」
シェユラスは自身の身分と、この渓谷に墜ちる羽目となった先の戦への立案から、副官の裏切りによる渓谷への墜落に至るまでの子細を語った。
「ほぉ、あの戦がお前さんの計ったものか……しかし、それは大変な目にあっておったのぅ――」
話を聞いたファルトは、彼女に優しく労りの声を掛けた。その言葉を聞きながら、シェユラスは同じく岸壁から墜ちた相棒のことを思い出した。
「……! あっ、あの、シャーフィール、私のドールホースは!?」
「あぁ……あやつもお前さんに負けず酷い有様じゃったが、こちらは儂の専門分野じゃからな。こっちに来い、今修理をやっておるところじゃ。」
顔に笑みを湛えたままそう言って、ファルト老は扉の方へと歩いていった。女性となったシェユラスは、病み上がりと馴染みのない身体故のおぼつかない足取りでファルト老の後に続いた。その後ろを少女――ポルがついていく。