第五章:影の騎士の訪れ
翌日、シェアナたちは宿を引き払い、街を出た。そして、その夕暮れには、その足で郊外の外れにある小さな林へと訪れた。そこに待っていたのは、神ならぬ者が作りし生けるもの――
「ただいま、シャーフィール……」
彼女の愛馬はおもむろに近付き、彼女の頬に顔を擦り寄せる。
このもの言わぬもう一人の相棒は、谷での一件以来、しばしばその感情表現や自律的な判断を示す事が見られるようになってきていた。それは、シェアナがこの愛馬の心に気付き、それを意識した扱いをしていたからかも知れない。ポルの言を見るに、ファルト老が何か仕掛けたのも一因らしい。
荷馬車から魔鎧を起こし、胸甲を開き、シェアナはその中へ入った。胸甲が締まり、兜が下りる。馴染んだ脈動と灰色ながら鮮明に切り替わる視界、シェアナは軽く指や腕を動かし、機能の具合を確認する。
ポルの目には、シェアナが魔鎧に入ると同時に、胸甲と兜が閉じ、兜の奥の眼窩に紅い輝きが点り、その甲冑の関節部より黒い霧が漂い出すように映った。霧は魔鎧の全身を包み隠す。
そうして、“影の騎士” はポルに向き直り、普段のハスキーな女声ではなく、低い落ち着いた男声で呼び掛けた。
「ポル……では、行ってくる。」
少女は騎士の瞳を見つめ、そして、頷いた。
その姿を見、静かに頷くと、騎士は愛馬を呼び寄せ、騎乗し、林を抜けて夜闇の中を駆けていく。その目的地はかつての自身の館である。
そして、彼の騎士を見送った少女は、暫しの時の後、その翼を拡げて夜風の中に紛れていったのであった。
その日、リュッセルは幾許かの聞き込みなどを経て、この前会った美女の宿が何処か探し当てていた。しかし、夕方にやっと突き止めたのは良いけれど、当の彼女は引き払った後であり、肩透かしを食らってしまっていた。仕方がないので、憂さ晴らしに酒場へと繰り出そうと街の大路に足を運んだ。
その時、夕暮れも押し迫る夕闇の中、その耳に鋼の軋みを伴った馬蹄の音が響いてきた。ふと、直感が音の方へと首を捻らす。
そこには一度目にしたことのある、怪異な姿があった。紅く輝く瞳、闇に溶け込むその総身……リュッセルはただただその場に立って、彼の者を凝視するより無かった。
その時、騎馬が彼の前で足を止め、騎士が彼を見下ろす。
「どうやらあれより、無事でいたようだな。」
その一言で彼は確信する。彼は、歓喜か恐怖か判らぬ震えを抑えて言葉を紡ぐ。
「おお、おぉ……、“影の騎士” よ、……あなたは何処に……?」
「領主の館に――」
騎士が微かな声で返した答えに、吟遊詩人は問いを重ねた。
「……で、では、では、貴方様はやはり、シェユラス卿なのですか?」
「…………」
しかし、暫しの沈黙の後、騎士は問いに答えず、視線を逸らした。そして、正面を向いた騎士に呼応するように、騎馬が再び歩みを進めた。
彼は暫し、騎士の視線に潜む迫力に痺れていたが……流石に我に返って、騎士の後を追う。
何と行っても、その行く先は判っているのだから――
この遣り取りに、やや相前後した時、領主の館の上空に変化があった。
夜風に紛れて宙に舞う少女が、密かにその館の屋根に静かに舞い降りた。そして、彼女は屋根の上に立ち、銀髪と黒い羽衣の彼女は妖しく、優雅に、軽やかに、舞を舞い始めた。
その舞いは始めはゆっくりと……徐々に素早く移ろいいく。それに伴い、次第次第に彼女の周りには、闇色の球体が一つ二つと現れ、彼女の周囲に次々と漂い舞う。
闇色の球体が彼女の周囲を埋め尽くすだけの数へと増えていった頃、彼女の舞の動きが微妙に変わる。その時、球体は館全体に広がり落ち、そして爆ぜた。次の瞬間、館の内外の明かりが瞬く間に翳る。
それは呪法舞踊と呼ばれる魔法の一種。舞で森羅万象に潜む精霊に働きかけ、呪文を語らずに精霊の力を顕現させると言う魔法である。彼女の放ったのは闇の精霊、彼の精霊に働きかけ、この場の光を遮ったのだ。
薄暗がりの中、召し使いの半数はただただ狼狽していた。しかし、残り半数はこの事態にあっても整然と、冷静に自らの役目を続けている。
そんな人々の一人、クォルスは蝋燭の明かりを頼りに廊下を歩いていた。その時、玄関のドアを叩く音が聞こえた。
「こんな時に――」
その音を不審に思いながらも、執事である彼は、玄関へと足を運んで行った。
薄闇の中、狼狽える者達を余所目に、クォルスは玄関の扉に歩み寄り、その扉を開いた。
「どなた……」
扉を開けた瞬間、闇色の、影色の霧が彼の前へと流れ込んでくる。それは彼の目を見張らせ、その源へとゆっくりと目を移していく。
そして、彼は再び恐怖に目を見張る。そこにいたのは、紅く輝く瞳で自分を見つめる怪異であった。驚きに言葉を失った彼に向かって、怪異は人ならぬ……されど静かで優しげな声で呼びかけてきた。
「お前は、クォルス――だな。」
「な、何……」
呼ばれた自身の名に、驚きを新たにする彼に、怪異は言葉を続ける。
「怯える事はない……。私だ……と、言っても判るとは思えないがな……」
その言葉に自嘲の色を感じた彼が、その怪異を改めて見直す。
その者は、黒き甲冑に身を包むその姿は、以前の主の面影をどことなく匂わせていた。
「……まさか、まさか……あ、貴方は――貴方様は……」
「それ以上言うな、クォルス。……ボルラは、この奥だな。」
彼の言葉を遮り、騎士はそうつぶやいて、屋敷の奥へと歩みを進めていった。
館を包む闇の術は、この館の主を酷く狼狽させていた。
「おい、どうなっているんだ! ……おい! こらっ! 誰かいないのかっ!!」
その怒鳴り声には平生の生彩もなく、この薄闇の包む廊下の中で、ボルラは酷く怯え、狼狽え彷徨っていた。されど、そこへ駆け付けてくれる程には、彼は館の者たちの人心を得てはいなかった。
その彼の耳に鎧の音が聞こえてきた。その音がする方角へと彼が一度目を巡らし、そこでその目は大きく見開かれ、その脚はその場に縫い止められる。彼の眼前に立っていたのは、紅く輝くその瞳、闇に紛れた漆黒の甲冑……そして、その中で白く煌めく、彼の見覚えのある白刃、それは彼の伝え聞く彼の “影の騎士” の姿――そしてそれは、彼にある人物の名を想起させていた。
「……シェ――シェユ、ラス、様……」
「そうだ……」
呆然とつぶやかれたボルラの言葉に、騎士は静かに肯定のつぶやきを返した。ボルラの顔から急激に血の気が失せていく。
「……!」
そして彼は、恐怖に思わず後ずさる。その顔には、まさに幽鬼に遭ったが如き恐怖に、大きく歪められていた。そして、打ち崩れるように跪く。
「シェユラス様……お許しください、お許しください。どうか……どうか……私はただただ、命ぜられただけなのです…………」
彼は見も世もなく狼狽え、謝罪とも言い逃れとも付かぬ言葉を滔々と述べ続けている。しかし、その言葉は漆黒の騎士の瞳に何の感銘も与えはしなかったように伺える。騎士はただ黙ってボルラを見下ろしていた。
「…………」
「許してください、許してください……」
「……ボルラ」
暫しの後、ボルラの言葉を聞き飽きたように騎士が言葉を発した。
「は、はいぃぃぃ……」
「聞きたい事がある。」
「はい、はい、何でも申します。どうか、どうか――」
「お前に私の暗殺を命じたのは誰なのだ……?」
騎士のその問いかけに、彼の顔色は更に青ざめる。
「…………そ、それは――」
「言えぬか……」
言い澱む彼に、騎士はまさに幽鬼の如き声色で問いを重ねる。その声にボルラは観念したように口を開いた。
「……それは…………じ、実は――グァッ!!」
その先を言う間もなく、ボルラの言葉は途切れた。彼の喉に鋼の薄刃が通ったからだ。騎士の紅き目は、ボルラの背後に音も無く忍び寄り、喉を掻き切った侍女の姿を映していた。
「……!」
“影の騎士” はその侍女を切り捨てるように剣を振るう。
しかし、その者は素早い身のこなしでかわし、脱兎の如く、この薄闇の中を逃げ去っていった。
「……密偵の者、か――」
剣を納めつつ、そうつぶやくシェユラス。その元へクォルスを筆頭とした、ここの者たちが集まって来た。そして、彼等は目の前に倒れる今の主の変り果てた姿を目にすることとなった。
「シェユラス様……こ、これは!?」
「ボルラに聞きたいことがあったのだが、侍女の一人がその首を掻き切った――」
「…………」
騎士の言葉に、一同は絶句する。
その言葉を証するように、薄闇の中、蝋燭の明かりで見ても、それが騎士の剣の負わせたものではないと、判る者には判った。シェユラスは死体を見つめる者たちに向き合うことなく命じる。
「皆、ボルラを手厚く弔って遣ってくれ……あれでも、私には良い副官であったからな……」
「…………」
そう哀れみを微かに浮かべた声で言った後、シェユラスはゆっくりと屋敷を立ち去った。館の者たちはその言葉に、かける言葉も忘れ、そして騎士をただ見送るしかなかった。
暫くして、明かりを遮っていた翳りが晴れ、屋敷に明るさが戻った。
そうして “影の騎士” は、夕闇より訪れ、宵闇へと帰っていった。
“影の騎士”は街を通り過ぎ、郊外に出る。それに合わせるように、ポル・ポリーが舞踊衣装に身を包んだまま、ここに舞い降りていた。
そして、シェアナは郊外で魔鎧を解いた。彼女の眼には光るものが浮かんでいた。
「……ポル、シャーフィール、旅を続けよう。」
…………彼女たちの旅は、未だ終わらない。




