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最終話・心を動かすもの

「正臣……」


 雫は自分の耳を疑っているのだろうか。


「今日はそのために呼び出したの?」

「だとしたら?」


 挑戦的な言葉とは裏腹の、少し不安げな目。


「……ごめん、帰るよ」


 俺は注文もせずに、席を立つ。

 俺が背中を向けて出口に向かおうとすると、雫が後ろから呼び止めた。


「アンタはこのままでいいの? ずっと怯えて暮らすの? 死んだ人間は戻ってこないのよ」

「分かってるさ!」


 店内だということも忘れて声を荒げる。

 客のいない店内だったのが幸いしてか、店員がおろおろするだけで済んだ。


「俺は雫じゃないんだ! 何もかも簡単に割り切ることは出来ない!」




 ……割り切る。




 口をついた言葉に、俺は心が痛む。


「アンタは、私が過去を綺麗さっぱり割り切ったと思ってるわけ?」


 俺はこれ以上の言葉を交わすのが怖くなって、カウベルを鳴らして喫茶店を出て行く。

 雫も喫茶店を出たようだった。

 数秒送れて、カウベルが耳に飛び込んでくる。


「逃げたいだけなんでしょ? アンタは!」


 早足で歩く俺の背中に打ち付けられる言葉。


「目をそらしたいだけなんでしょ?」


 俺は雫が走れないのを分かっていて、スピードを速めていく。


「ちょっと! 待ちなさいよ!」


 雫がたどたどしい走り方で、何とか俺についてこようとする。

 全速力で走りたいという意思に従ってくれない体に、舌打ちをする音が聞こえた。


「自分で言ったわよね? あの時アンタが言った言葉があるから、私は!」


 地面を蹴った。

 両腕を大きく振って、全速で人ごみの中をすり抜けていく。

 最後に雫を振り返ったとき。



 ……雫は地面に這いつくばっていた。



 酷使した足がもつれて、転んでしまったのだろう。

 かつての強靭な足腰の面影はない。

 まるで翼をもがれた鳥のように、雫は地面に顔をこすり付けて転んでいた。


 不自由な足を使えば、こうなるだろう事は簡単に予測できた。

 だから、俺は振り切るように全速力で走り出した。

 どこへ行くでもなく、何をしたいでもなく、人ごみの中を疾走していく。

 肩をぶつけながら、転びそうになりながら、俺は一心不乱に走り続けていた。

 肺が悲鳴を上げ、足は破裂しそうな感覚に襲われる。

 完治したはずの腹部から血が流れ出しているような錯覚が、俺の思考をかき乱す。



 その時。遠く人ごみの向こうに、見覚えのある人影を見た。




「――香奈!」




 すれ違う人々の真ん中で、俺を見て微笑んでいた。

 変わらない微笑み。

 何度も見た微笑み。

 いつでも、どんなときでも思い出すことの出来た微笑み。

 走り続けた代償か、思うようにスピードが上がらない。

 腕を振り、足を回転させ、肺をフル稼働させる。全身を臨界点まで酷使しても、なかなか香奈の下にたどり着くことは出来ない。



「……香奈!」



 香奈の下に、俺より先にたどり着いた人物がいた。

 その人物は、香奈の肩を軽く叩き、俺を見る香奈の注意を引く。

 香奈は少し嫌そうな顔をしたが、やがてすぐに微笑んで、ふらふらになりながら走る俺に向き直る。

 遅れてきた人物も、そんな俺を見ながら微笑む。

 まるで、待ち合わせに遅れた人間を、微笑ましく見守るように。



「かず……き? ……和輝!」



 和輝は香奈の肩に手を置きながら、俺を見守っている。

 俺の馬鹿な話にも、最後まで付き合ってくれる、ただ一人の親友。

 どんなことでも真剣に受け止めてくれたあの優しい瞳で、俺がたどり着くのを待っている。


 和輝が他の誰かに気がついたようで、手招きをしているのが見えた。


 俺ではない人間に対して、というのは明らかで、香奈もそちらを向いてやはり微笑んだ。

 遅れてきたのは、二人の女性だった。

 一人目の女性は、遅れてきたことを反省するように、頭を深く下げて何度も謝っている。

 もう一人の女性は、遅れて来たのにもかかわらず、少し尊大な態度だ。

 和輝の背中を乱暴に叩くものだから、和輝の顔が痛みにゆがむ。



「夏美! 加藤さん!」



 後から来た二人も、俺が走っていることに気がついたようで、やはり他の皆と同じように、俺を見て笑っている。

 少し背の低い夏美を後ろから抱きしめるように、加藤さんが俺を指差す。

 夏美の耳元で何事かをささやくと、夏美は顔を真っ赤にして小さくなった。

 意を決したように、夏見が真っ赤な顔をあげて、手でメガホンを作る。

 頂上で叫ぶ登山者のように、夏美は大きな声で叫ぶ。



 だが、それは聞こえない。



 夏美の行動を見た和輝も、肺にためた空気を声に変換した。

 香奈も、加藤さんも、つられるように口を大きく開けて叫ぶ。

 俺の耳には全く届くことのないその声は、それでも俺の体に力を与えた。



「香奈!」



 だが、いつまでも俺がたどり着かないことに微笑を崩すと、香奈はあきらめたように背中を向ける。



「和輝!」



 和輝は、仕方がないな、と両腕を広げると、香奈に従うように背中を向けて歩き出す。



「夏美!」



 加藤さんに腕を引かれた夏美は、困惑しているようだった。

 それでも加藤さんが強引に腕を引くものだから、夏美は俺に一礼して、加藤さんの横に並ぶ。

 夏美の腕を離した加藤さんは、背中を向けたまま、頭の上で手のひらを振った。



「加藤さん!」



 四人が人波の中に消えていく。

 人と人が重なり、紛れ、やがて見えなくなる。

 俺がどれだけ走っても、追いつこうとしても、追いつけなかった。

 俺が近づこうとすればするほど、離れていく。



 ――決して追いつけないもの、手に入らないものを追いかけている。



 そう見せ付けられた気がした。

 俺は走る体を急停止させて、その場にたたずむ。


「……幻想だ。幻想に決まってるだろ……なんで本気になってるんだ、俺は……」


 自分の馬鹿さ加減に笑ってしまう。

 次いで訪れた深い悲しみに、俺はその場にくず折れる。

 人の波の真ん中で膝をつく俺に、周囲は冷たい視線を向け、奇人変人を見るような感覚で、俺を避けて通る。

 誰も俺に同情したり、助け起こしたりしない。

 それが当然の行動だ。

 無駄と思えることに、労力を使う人間なんていない。

 人は誰にでも優しくなれるわけではないから。

 正義の味方なんて都合のいい人間は存在しないから。それは偶像でしかないから。




「――やっと追いついた」




 俺の目の前に立ちふさがるように立つ一人の女性。

 疲れているはずの荒い呼吸を、無理に押しとどめているのは、見栄か、プライドか。

 右手を腰に当てて、左手で俺を指差す。


「アンタ言ったわよね。みんなを助けたい。思いやりたいって」


 雫は大量の汗を流れたままにしながら、言葉を続けようとする。

 しかし、押さえ込んでいた呼吸の衝動に耐えられなくなったのか、咳き込んでしまう。


「……いい? アンタがしようとしていることは、怖いこと、苦しいことから逃げ続けること。過去を割り切ろうとしてることなのよ」


 少しの間隔を置くと、雫の肺は落ち着きを取り戻す。


「アンタがみんなの心を変えた。あの極限の状況下で、アンタは私の心を変えて見せた。あの女ですら、最後はアンタのことを想って身をなげうった」


 あの女とは、香奈のことだろう。

 苦々しく代名詞を使いながらも、どこか納得するしかないといった様子だ。


「あんたの優しさが、思いやりが、人の心を動かすのよ」


 雫が手のひらを差し出す。


「何も、力で対抗しようっていうんじゃない。武力や憎しみに頼るような『復讐』がしたいんじゃない。言ったでしょ、私は『逆襲』がしたいだけ。優しさや、思いやりで動かすことも出来るんじゃないかって、そう思えるから……私は、アンタにかけてみたいのよ」


 優しい声だった。


 平静を装った態度だが、雫の右足は震えている。

 おそらく、気を抜けば倒れ込んでしまうだろう。リハビリの途中なのだから、めったなことは出来ない。

 それでも雫は痛みを押し隠して、俺に手を伸ばそうとする。


「過去があるから前に進める。みんなアンタのことが好きで、アンタに生きて欲しいって思ったから、東城正臣という人間は生きていられる。それを忘れて、立ち止まることは許されないはずよ」


 右足の震えはだんだんと大きくなる。

 雫は痛みを表情に出すことなく、俺の鼻先に手を差し伸べ続ける。


「責任を果たさなければいけないのよ。アンタは」


 それは、雫なりの優しさ。雫なりの思いやり。


「そうでしょ? 正臣」


 微笑む。

 俺が忘れていた感情。

 忘れかけていた信念。

 苦しみに押しつぶされていた、正しさ。



 ――俺はそれを思い出す。



 あの学校で起こった惨劇は、確かに大いなる悲しみを生んだ。

 だが、それ以上の大切なことを経験した。

 そのすべてを忘れて生きようとすることは、割り切ることと同義だ。

 俺はそれを否定し、過去を背負いながら生きていくことを決めた。

 誰かを思いやり、手を差し伸べ、優しくすること。

 偽善的なことかもしれないが、俺はそれを決して厭わない。

 そう決めたはずだ。



「ああ、その通りだよ……」



 俺は雫の手をとって立ち上がろうとするが、どうやら雫の右足は限界だったようだ。

 俺を立ち上がらせることすら出来ず、逆に雫が俺に倒れこんでしまう。

 俺に抱きつくように倒れこんだ雫は、笑ったまま起き上がろうとしない。

 それどこらか、倒れこんだのをいいことに、俺を抱きしめたまま起き上がろうとすらしない。


「……もう少しだけ。いいわよね?」

「うん……」


 図書室の光景が思い出された。


「こういうときでもなかったら、殴り飛ばしているんだから。そこのところ、分かってるんでしょうね」

「その台詞を言われるのは、二度目だ」


 周囲の視線も気にならなくなっている雫と俺は、それでも抱き合い続ける。


「これからも、ずっと言ってやるわ。アンタは、だらしない偽善者だから」


 雫に押し倒され、抱きしめられた俺は、空を仰ぐ格好になる。

 雫の髪の毛越しに見える空は、雲ひとつない蒼穹。

 その空をさえぎるように俺たち二人を覗き込む四つの影。


「お手柔らかに頼むよ」


 そう言って笑った二人の声が、覗き込む四人の冷笑を誘ったのは言うまでもない。


 加藤さんは、青筋を立てて唇を引きつらせ。


 夏美は、頬を強ばらせて爪を噛み。


 和輝は、あきれたように肩をすくめ。


 香奈は、見守るように優しく微笑む。


「……本当に馬鹿」


 雫は、嬉しそうに抱きしめる力を強くし。


 俺は――


「偽善者だから」


 香奈の微笑みを真似てみる。


 


【第一部 END】

興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。

評価、感想、本当に栄養になります。


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