第四十七話・「香奈」
眠ったままの雫は、馬鹿にすることも、憎まれ口をたたくこともなかった。
まさに深い森の奥で永遠に眠っている美女のよう。
写真に性格は写らないと雫が口にした通り、その寝顔からは安らかさしか感じられなかった。
月はもうすぐ光を失い、太陽はその輝きを取り戻す。
それは誰もが知っていて、何者にも犯されざる絶対の真理だ。
明けない夜はない。訪れない朝はない。
一時間もすれば、俺の人生で一番長いであろう一日が終わりを告げ、新たな朝が訪れる。はるか東の山際が、ぼんやりと輝きだしていることからも、それが分かった。
俺は雫を背にしたまま、校庭の中心に立ち、背中を向ける香奈に近寄っていく。
校庭のトラックの中心に香奈はいて、蜘蛛と化け物はトラック外で待機していた。体育館のときと数があまり変わっていないのは、町の住人の数が含まれたからだろう。
周囲の蜘蛛がざわめきだしたことを不審がって、香奈が頭に疑問符を浮かべていた。
「正臣……!」
俺に気がついた香奈が、あからさまに顔を歪める。
「私は割り切りたいのに……!」
グラウンドの中心で歯軋りする香奈に、ある程度近寄ってから、雫を地面に下ろす。
蜘蛛が香奈と距離をとっていることが分かったから、俺に背負われるよりは、その方が安全だと思えた。
雫を地面に下ろす時、眠りを妨げないように優しくするのが大変だった。腹部は俺を死へ引きずり込もうと最後の痛みを発していて、中腰になるのすら気が遠くなる。
俺は、横たえた雫の冷たい頬と、短くなってしまった髪の毛を撫でてから、香奈に向き直る。
「割り切りたいだけなのに!」
微笑の少女は、泣き出しそうな顔で叫ぶ。
両手の拳を握り締め、体を細かく震わせる。主人の苦しみに呼応するように、トラック外の蜘蛛が、俺に飛びかかろうと目を光らせた。
「香奈、割り切ることは駄目なんだ。出来ないんだよ」
自分が持ちえる優しさを、総動員して言葉にする。
「割り切れないことなんてない! 割り切れば、新しい私になれるの! 苦しんでいたいままでの自分がなくなって、新しい自分に生まれ変われるの!」
「俺は香奈に割り切って欲しくない」
香奈に微笑みかける。
香奈が俺に捧げてきた微笑を、今度は俺が香奈に捧げる。
「昨日、宿題出ただろ? 数学のさ。あれ、やってないんだ。学校に着いてから、夏美に見せてもらおうとしたけど、結局遅刻したから、それも出来なかった。先週の課題だって、ほとんどやらないまま、和輝と遊んでた。香奈も一緒にいたから分かるよな。三人で、駅前の銅像前で待ち合わせして、それから電車で新しく出来たテーマパークに行って……」
複雑な表情を浮かべる香奈。
「ジェットコースターはやっぱり苦手だった。俺は目をつぶって下を向くことしか出来なかった……。やっとの思いで隣に座るお前を見れば、俺を見て何事も無いように微笑んでくるし、後ろの席に座ってた和輝は、降りてから、退屈だった、ってあくびを連発するし。小心者の自分が情けなかったよ、あの時は」
夜から朝に変わろうとする空気の波が、俺と香奈の間を通り抜けて行く。
「お化け屋敷に入った時だってそうだ。お前は和輝が一緒に入ろうっていうのを頑なに拒むし、俺は入りたくないって言ってるのに、無理矢理俺を連れて行こうとするし。ジェットコースターの醜態を見れば分かるだろ? 俺が小心者だってことぐらい」
溢れ出した思い出は、止まる気配がない。
俺の頭にある、三人の思い出のページ。
どんなに偉大な文豪の全集でも及ばないぐらい、ページ数も冊数も多くて、一生かかっても読み終えることは出来ない。
三人で過ごした月日はまだそれほど長くはないが、密度にすればきっと百年分ある。
「香奈は相変わらずだよ。驚かそうと出てきたお化けに微笑み返すんだもんな。俺はさっさと出たくて仕方がなかったのに、お前はゆっくり進もうと駄々をこねるし」
痛みで言葉がさえぎられることはない。
話したくて、伝えたくてたまらない思いが口を走らせる。
もっとたくさん話せたらいいのに、簡単に伝えられたらいいのに。
歯がゆい思いを抱きながら、俺はフィルターのかけられていない生の言葉を香奈に届ける。
「あの時は楽しかったな……。香奈は和輝の誘いを最後まで受け付けなかったし、和輝はそのせいですねるし、俺に当たるし。楽しくないな、って思ったけど、俺だって気が付けば笑ってた……」
香奈は顔を変形させて苦しさを表し、耳をふさぐ。
「……割り切ろうとすることは、きっと簡単なことなんだと思う。でも、香奈は本当に割り切れるのか……?」
耳をふさいだまま首を振って、拒否を態度で示す香奈。
「俺たちが作ってきた思い出は、そんなに簡単に割り切れるものなのか……?」
「割り切れるよ。私はそうして生きてきたんだから、割り切れるんだよ!」
蜘蛛の包囲網が縮まってきているのが分かった。
主人である香奈が苦しむ様を、これ以上傍観していることは出来ないのだろう。
赤い炎を三つの瞳の中で燃え上がらせながら、徐々に近づいてくる。
「楽しかった思い出、苦しかった、悲しかった思い出。それがあるから、それがあるからこそ、それがある限り……俺は立ち上がれるんだ。前に進むことが出来るんだ。どんな困難も乗り越えられる力を得られるんだ」
今まで俺が過ごしてきた年月。
正しさを頑なに信じ続けてきた日々。
和輝と香奈、そして俺、三人で笑いあってきた日々。
雫の隣を歩くことを憧れた日々。
夏美に勉強を教えてもらう日々。
クラスメイトとの日々……。
「たくさんのものを失ってここまで来た。耐えられない思いもした。でも、俺はここにいる。香奈のそばにいるんだ」
香奈がずっと微笑んでいた理由。
「だから、割り切るなんて、言わないでくれ」
それは、傷つきたくないから。嫌われたくないから。
「悲しいだろ、そんなこと」
「聞きたくないよ……私から出てってよ! 正臣が私の中にいる限り、私はずっと苦しむんだから!」
誰かに近づくことも、離れることもしないで過ごしてきた香奈の日常。極端に感情移入しないことで、自らの心が揺れるのを防いできた。
「俺たちは何度でもやり直せるんだ」
香奈は恐れていた。
誰かを好きになってしまうこと、近付きすぎてしまうことで伴うリスクを。
香奈なりの精一杯が、俺と和輝と過ごした日々の中で溢れていた。
俺はそれに気がつかず、しつこいとか、うるさいとか、わずらわしいとか、そんな感覚で考えていた。
香奈はその度に苦しかったはずだ。
「一度きりじゃない。当事者がいる限り、何度でもやり直せる。俺はあきらめない。割り切ることが香奈の信念だとしても、俺はそれが正しいとは、どうしても思えないから……あきらめない。思い出があるから立ち上がれる。そして、立ち上がる度に、俺は香奈に呼びかける」
俺は香奈に対しても償わなくてはいけないのだと思う。
「俺は偽善者だから」
俺なりの正しさを伝えなくてはいけないのだと思う。
「客観的とか、合理的とか、割り切るとか……現実にはそんな言葉が、正しいように思えることが、たくさんある。けど、香奈だって、何が正しいのか分かっているはずなんだ。その正しさを、俺は香奈だけではなく、みんなに伝えたい。守って生きたいんだ。だから、俺はたとえ偽善的でも……」
香奈にもっと良く聞いてもらうために。
「何度も、何度でも、香奈があきれるくらい……大声で言うよ」
少しでも心に届くように、俺は香奈に歩み寄っていく。
「俺は香奈を、みんなを助けたい。思いやりたいんだ。感情的でいたいんだ。正しいと思えることを、みんなが幸せになれることをしたいんだ」
手を伸ばせば香奈に触れる距離。
「香奈なら……そばで俺をずっと見てきた香奈なら、俺がそういう人間だって、一番よく知っているはずだろ……?」
耳を引きちぎろうかという力で、香奈は音の進入をふさいでいる。
「割り切らなきゃいけない……割り切りたいの!」
次の瞬間、香奈は耳をふさいでいた手を力なく落としていた。
「――でも、割り切れないよ……正臣のこと、割り切れないよ……」
子供のように、ただ泣くためだけに、顔を歪めて俺を見上げてくる。
「好きなんだよ……。苦しいよ! 胸が痛いよ! 割り切ろうとすればするほど、心が痛いの……。どうしようもないほどに、正臣が恋しい、求めてるってことが分かるの!」
涙がはじける。それはまるで、新緑に落ちる朝露のように。
「正臣のこと割り切りたくないよ! でも苦しいんだよ! もうこんな思いしたくない! だから私は、正臣を割り切ることでその痛みを……」
俺の中からこみ上げてくるものがある。
この感情に出会うのは二度目だ。
雫と職員室で話していたときにも、この感情は俺の動悸を加速させた。
胸が締め付けられて、やるせなくなる。
俺の中に溢れてくる大量の何かを、誰かに注ぎたくなるような、制御の利かない感情。
生まれてからずっと、俺が受け取ってばかりいた気持ち。
温かくて、心が安らいで、思わず泣きたくなるような、液体のようなもの。
絶え間なく、注がれてきた、何か。
その何かが、今俺の中で産声をあげる。
誰もが知っていて、誰もが理解に苦しんでいるもの。
誰もが受け取ったことがあるけれども、誰もが気が付けずにいるもの。
幸い、俺はそれを言葉で表現することが出来る。
「香奈……おいで」
――愛。
「俺たちは間違ったんだ。やり直せるよ、何度でも」
腕を広げて、俺は香奈を受け入れる姿勢をとる。
「正臣……」
香奈は、泣き顔のまま微笑む。
引き寄せられるように一歩を踏み出すと、俺の胸に指を触れさせた。
「私も、正臣と……」
俺は香奈を抱きしめようとするが、瞬きした瞬間、腕の中にいるはずの香奈はいない。
その代わり、俺の視界に映ったのは、血管を破裂させんばかりに浮かび上がらせた生徒会長だった。
「私を助けると、約束しろ。死にたくなかったら!」
レンズが割れ、フレームの曲がった眼鏡をかけた生徒会長の両手には、墓石にでも使うような大きな石が握られていた。
「私をこんな事件に巻き込んでおいて、ただで済むと思っていたのか? 自分だけのうのうと生きて帰れると思うな!」
香奈が頭から血を流して、校庭に倒れこむ。俺は生徒会長の狂気に彩られた瞳を無視して、香奈に駆け寄る。
だが、それがあだとなった。
香奈のまぶたが開かれるのを見て安心する俺の頭上に、石が振り下ろされる。
自分の頭蓋骨から発せられる大音響が聞こえた。
頭蓋骨の中を反響する音と共鳴して、俺の意識をかき乱す。
香奈に寄り添うように倒れた俺。香奈の顔がちょうど正面にある形で、俺は視界を血に染める。
立ち上がることが出来ない。
今までの、俺という人間の限界を超える行動力が、ついに底を尽きたようだった。
指一本すら動かせない。
かろうじて意識を保っていられる程度だ。無理にでも動こうものなら、その瞬間に意識が空に飛んでいってしまうだろう。
視界に映る香奈の顔が、そっと微笑む。
「……ありがとう、正臣。私、正臣のこと忘れない」
俺よりは確実にダメージの少ない香奈が、砂に手をついて立ち上がる。香奈の頬を伝って落ちた血が、砂に吸い込まれていった。
俺は声を出すことも出来ない。
「これが私の、最後の罪」
生徒会長は香奈の宣言にひるむ様子も見せずに、香奈に突進していく。
振り上げられた石と、巨大な怒りが、香奈の頭に襲い掛かった。