第四十六話・「雫」
――雫の悲鳴。
今まで聞いたことがなかった。
耳をつんざくばかりの絶望の叫び。
耳をふさぎたくなる衝動を抑えて、俺は全ての情報に意識を傾けるしかなかった。
「……なんてね……」
雫は下手な笑みを作って見せた。
右手に握られていたマスコットバットを落とし、左手に持ち替える。そして、すぐさまバックスイングを取ると、最後の力で蜘蛛の腹部を突き刺した。
マスコットバットは最後の一太刀らしく、奥まで腹部に入り込んでいく。
大気を爆発させるような蜘蛛の叫びが響き渡った。
窓ガラスが揺れ、バスケットゴールが震える。
ダムが決壊するように、蜘蛛の腹部に亀裂が入った。生徒を飲み込んで、限界まで腹部に蓄えていたから、いくつもの傷を付けられれば、決壊する可能性がある。
硫酸をかぶるような思いをしてまで腹部を突き続けた理由が、そこには存在していた。
蜘蛛の断末魔が体育館を駆け巡り、力を失った蜘蛛はその場にくず折れる。
腹部から溢れ出る溶けた生徒、そして消化液。
「雫……!」
雫は蜘蛛の胴体に乗ったまま、立ち上がることも、這うことも出来ずに横たわっている。
雫が戦い続けてきた軌跡。
それは一番俺が知っている。
廊下で、化学実験室で、図書室で、そして今ここで。
どれほど傷付き、倒れただろう。
その度に何回立ち上がっただろう。
右手、右足を潰されただけではない。
蓄積されてきた疲労が、雫を蝕んでいる。
「さすがの私でも、少し疲れたわね……」
雫が大きく息を吐く。
蜘蛛の胴体で仰向けになって、体育館の天井を見つめている。
右手と右足はすでに血だらけで、目を覆ってしまいそうになる。
巨大な蜘蛛の、赤く輝く目が光を失っていく。
足が丸まっていき、蜘蛛特有の死体と化していく。
消化液が、決壊した腹部から流れ出していた。
足を丸めて死んでいく巨大な蜘蛛の体が傾くと、雫が胴体から落とされてしまう。
雫は小さな悲鳴を上げて、横様になった巨大な蜘蛛の死体に寄りかかる。
小型の蜘蛛は雫を襲うことが出来ない。それは、親である巨大な蜘蛛を倒した雫に対する畏怖ではなく、流れ出し続ける消化液のためだ。
消化液は、周囲を溶かしながら、体育館中に広がっていく。
まるで流れ出した溶岩のように、体育館に巣食う蜘蛛の群れを溶かしていく。生徒の死体はもちろん、化け物、蜘蛛、床……体育館そのものを溶かすが如く、広がっていく。
雫はすでに消化液に囲まれていて、独力で抜け出すことは出来なくなっていた。
連戦連闘で使い果たした体力は、簡単には回復しない。
雫もそれが分かっているのか、消化液が迫ってくるのにも動じてはいなかった。
ただ、ため息をついて、まるで朝の占いで最低の結果でも出たように、つまらなそうに眉根を寄せているばかりだ。
「マ……さ……オミ……」
逃げ遅れたらしい化け物が、和輝の口を借りて俺の名前を呼ぶ。
和輝の体はすでにその半分が溶けてしまっていて、下半身が存在していなかった。
上半身もみるみるうちに溶け出して、肋骨の白さが消化液に溶けていく。
「こんな最期は予期してなかったわね。私ともあろうものが……」
雫が俺と目を合わせる。
雫は鋭い視線で俺を見つめるが、次の瞬間には、そっと微笑む。
「アンタのせい……と言いたいところだけど、自業自得だから仕方がないか。最後なんて看取って欲しくないから……さっさと行ってよ。どうせ何も出来ないんだし。邪魔よ、邪魔」
追い払うように左手を振る。
俺は膝をついたまま立ち上がれずにいる。
和輝はもう跡形もなく溶けてしまった。和輝の中に入っていたと思われる蜘蛛が、最後に和輝の喉元から出てきて、苦し紛れに跳躍した。
しかし、消化液の広がった範囲に着地してしまい、足元から溶け出し始める。
最後に見た和輝の横顔は、信じられないほど安らかで、むごたらしい最期を遂げた人間には思えなかった。
「早く行けって言ってるのが分からないの!」
俺がいつまでも行かないのに苛立ったのか、雫の声が荒くなる。
雫と消化液の距離は、零距離と言っていい。
雫が体を縮めることで少しだけ隙間が出来たものの、折りたたむことの出来ない右足の爪先は、すでに消化液に侵されていた。
上履きの溶ける異臭が、俺の鼻先を掠めていく。
「時間の無駄なのよ! 私の言ってることが分からないの?」
雫が左手で床を叩く。
上履きが溶けて、雫の足が焼かれ始めると、わずかに白い煙が立ち昇る。
雫は左手で無理矢理右足を曲げて、何とか消化液から逃れるが、もはや時間の問題だ。
「なんでアンタは……」
――俺は、気づいたときには消化液の海に足を踏み出していた。
俺の腹部から落ちる血液が、消化液に付着し、あっという間に溶け込んでいく。
俺は、流れる血に構わず、一歩一歩、俺に出来る最大の歩みで、雫の元へ。
「馬鹿よ……馬鹿。救えない馬鹿」
繰り返す雫の目には、大粒の涙。雫という名前にふさわしい、美しい涙だった。
「……俺は思いやりたいだけなんだ……。夏美がそうしてくれたように……和輝がそうしてくれたように……」
夏美が俺の背中で応援してくれているような気がした。
和輝が俺の背中を押してくれているような気がした。
体育館から逃げ出した、あのときのように。
「だから、最後まで俺は雫を思いやるよ……」
雫を背中に背負うと、俺は今来た消化液の海を再び歩き出す。
上履きの底はすでに溶けてしまった。
ソックスなんてものは、慰めにもならない。
火にあぶられるような痛みが、足の裏から俺の神経を駆け上がる。
歩いている感覚は、足を前に出す度に、背後に置き去りにしてきた。
雫を背中に負ぶいながら、空中散歩でもしているような感覚。
痛みだけが、俺の皮膚にまとわりついて離れない。
それでも、俺は消化液の海から抜け出して、体育館の外に出る。
逃げ場を失った蜘蛛の群れが、散り散りになって溶けていく。
俺は、蜘蛛がこれ以上体育館の外に出てこないように、雫の入ってきた扉を閉めて、体育館を塞いだ。
体育館の中は、しばらくの間、蜘蛛の群れが起こす暴力的な雑音で溢れ返っていたが、俺が出てきた扉が溶け始めるのと同時に、その音も衰退していった。
「雫」
「……なによ」
俺が背中に呼びかけると、雫は恥ずかしそうに声を漏らした。
「……痛みがひどいんだから、あまり話しかけないで」
俺の首を絞めるように、左手だけでつかまっている。
「それと、べつに気にしなくていいから」
俺が雫の臀部に触れることでしか、雫を負ぶうことができないのを知っているのか、雫はそのことに文句は言ってこなかった。
体育館の外は、体育館の喧騒とは裏腹に、あまりにも静謐だった。
神聖な場所を歩くような静寂。
裸足で地面を踏みながら歩くのは痛みを伴う。しかし、感覚のない足のおかげで、痛みはほとんど感じられなかった。
「アンタのせいじゃないわ。和輝がこうなったのも……私がこうなったのもね」
話しかけるなと言っておいて、雫が先に静寂を破った。
「悲しむな、後悔するなって言ってるんじゃない。……ただ、私たちがこうなったのは、自分自身の意思の結果だから。アンタが殺した、とだけは考えて欲しくないのよ……」
「……ありがとう」
俺は雫を抱えなおしながら、月夜を歩いていく。
体育館を抜け出した蜘蛛の集団が、渡り廊下から、校舎に入り、校庭に向かっていくのが見えた。
向かう先は、おそらく香奈の元だろう。
「それはこっちの台詞」
雫は疲れたように息を吐くと、俺の耳に唇を寄せる。
息は荒く、激痛に耐えているのが分かった。
しかし、出てきた言葉は激痛とは違い、至って穏やかだった。
「なんか、アンタの背中って……いいわね。負ぶわれたことなんて、生まれて一度もなかったから……すごく気持ちがいい……」
声量が弱まっていくのを自覚しているのか、俺の耳に口付けるほどに唇を寄せる。
耳朶に触れる雫の吐息に気恥ずかしさを覚えながらも、俺はそれを止めさせなかった。
止めることは野暮だと思ったから。
雫が痛みを押して伝えようとする言葉だから。
俺は相槌も打たないで、雫の声に耳を傾けた。
「正臣……疲れたから、あんまり言葉に出来ないけど……」
雫が微笑む。
巨大な化け物を打ち破ったとは思えない、女神のような儚い微笑。
「三つだけ……言わせて」
俺の首に回された左手に、力が込められる。
「偽善者……馬鹿……ありがと」
そしてすぐに、左手の力は抜け、俺は雫を落としそうになる。
「――愛してる……」
背中にかけられていた雫の重量が増す。
「……雫?」
俺は不審に思って雫に声をかけた。
少し背中を揺らして、雫の反応をうかがう。
「雫、起きてるか?」
二度、揺らしてみる。
「もうすぐ終わるんだぞ……?」
校庭までもう少し。この調子で歩いても、五分とかからないだろう。
「ここまできて寝るなよ……」
俺の耳元に顔を寄せる雫に、あきれたように呼びかけてみる。
「負ぶったままじゃ、動けないだろ」
よほど深い眠りについてしまったのか、雫はまぶたを閉じたまま、黒くつぶらな瞳を見せてはくれない。
「なあ、雫……」
その顔は、月夜も手伝って、恐ろしいほどの純白に輝く。
「雫……」
静かに、本当に静かに眠る雫。
彼女を起こすことは無粋かもしれないけれど、俺は雫に聞きたいことがあったから。
「……雫ってば」
雫が力を入れてくれないから、背中が重い。
腹部の痛みもあって、歩みがより遅くなってしまう。
「起きてくれよ。聞きたいんだよ……」
俺は少し苛立ったような声を上げて、雫を起こそうと背中を揺らす。
強情な雫は、それでも起きようとはしない。
平行線をたどる我慢比べに負けた俺は、雫が狸寝入りしているとしか思えなかったから、かすれたような声で話し出す。
「三つって言ってただろ? あれさ……」
思い出すだけで笑いそうになる。
自分で宣言しておいて、雫はその宣言を破った。
雫らしいといえば、雫らしい。
「四つあったよな」
雫は俺の指摘にも動じない。微笑むこともなく、ただ俺の背中で夢を見ている。
「そうだよな? 雫……」
きっとそれは幸せな夢に違いない。
蜘蛛も化け物もいない、幸福な世界。
争いもなく、永遠に笑っていられる理想の世界。
……雫は、最後まで俺の問いかけに答えてはくれなかった。
「雫……」
呟いた名前は、傾いた月には届かない。