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第四十五話・「まだ終わってない!」

 和輝が、ぐったりと頭をたれるのを、俺は見ていることしかできない。



 蜘蛛の足が、和輝の胸に乱暴に差し込まれていく。和輝は体中から血を流しながら、一度大きく痙攣した。

 蜘蛛は和輝の容態を感じ取ったのか、腕と足に巻きつけた触手を解いていく。

 支えを無くした和輝の体は、あっけなく床に倒れる。

 ごとり、という音がして、和輝の頭は床に打ち付けられた。

 痛みに顔を上げることもしない。

 精巧に作られた親友の人形が、目の前にあるような気がした。

 人形は、髪の毛の一本一本に至るまで和輝そのもので、傷口さえもリアルすぎた。流れ出し続ける血や、鉄球を握り締める握力が、少しずくなくなっていく様子……。

 ハリウッドも驚くほどの造形技術。


「……か……ず」


 うつ伏せに倒れている和輝に届ける言葉がない。

 蜘蛛は細かい痙攣を繰り返し続ける和輝の背中に乗って、触手で和輝を物定めする。

 和輝の背中から寄生するのは断念したようで、和輝の顔のほうに回り込むと、八本の足を器用に使って、和輝を開口させた。

 唾液とともに、血液が和輝の口の端から流れ落ちる。

 抵抗する意思も見せない和輝。

 目はきちんと閉じられていて、指の一本も動かない。

 鉄球の鎖は、すでに和輝の手から落ちてしまっていて、和輝は丸腰だった。


 自動的に、俺の記憶は再生を開始した。


 夏美の口に蜘蛛が入った瞬間を。

 それと全く同じように、蜘蛛は和輝の口の中に体を滑り込ませようとする。



 夏美はゆっくりと立ち上がり、歩けないはずの足で俺に向かってきた。

 右足、左足、右足、左足。俺の名前を呼びながら、無表情で。



 和輝はゆっくりと立ち上がり、起こすことの出来ない体で俺に向かってきた。

 右足、左足、右足、左足。俺の名前を呼びながら、無表情で。



「……ま……サオ……み」


 俺は膝をつくしかなかった。巨大な蜘蛛の触手で作られた牢獄で、絶望に打ちひしがれる。


「サおミ……」


 親友が歩いていた。

 まるで酔っ払ったかのような千鳥足で、俺に手を伸ばす。

 和輝の腕は、蜘蛛を殴り飛ばしたときの、たくましい腕ではない。

 無気力さを漂わせた、力の入っていない腕。

 欲しいのか、いらないのか。それすらも分からない脱力しきった手が、俺を求めてさまよう。


「まだよ! まだ終わってない!」


 雫の声が、頭上から降り注いできた。


「悲しむのは、全てが終わってからよ!」


 奈落の底に落ちそうになる俺を、すんでのところで受け止める声。

 断崖絶壁から足を滑らせた俺に手を伸ばして、力強く引き上げる腕。


「アンタには、まだできることがあるんだから!」


 雫は巨大な蜘蛛の背中に立ち、俺に向かってマスコットバッドを突き出していた。

 それはまるで、情けない部下を激励する上官のよう。

 右足の激痛を隠す頬のこわばりが痛々しいものの、出会った当初の睦月雫そのものだった。

 不安定な蜘蛛の背中の上で、無理をして立ってみせる雫の自信過剰ぶりと派手な演出は、まさに彼女の専売特許だ。

 雫は大袈裟にバットを振り上げると、背中から蜘蛛の腹部を突き刺した。

 俺を触手で閉じ込めることには成功したものの、巨大な蜘蛛は自らの移動を捨てた。

 傷ついた腹部で、これ以上激しく動き回ることは出来なかったのだろう。

 それに加え、香奈の指示である俺の排除が、容易に達成できる状況になったことで、巨大な蜘蛛は、部下である化け物や蜘蛛の群れに和輝や雫の処理を任せた。

 それが、ねずみを追い詰めた猫のように、自分の勝利を信じて疑わなかった蜘蛛の、詰めの甘さではないだろうか。

 蜘蛛の考えなど俺にはわかるはずもないが、俺はそうであるように感じられた。


 窮鼠、猫を噛む。


 蜘蛛がその言葉を知っているとは思えない。

 だが、教えれば誰よりも理解できるのではないだろうか。

 蜘蛛の悲痛な叫びが、鼓膜を傷つける。

 深手を負った腹部で雫に傷つけられていないのは、天井に向けている部分のみだ。懐にもぐりこんだだけでは攻撃できない場所を、雫は狙っていた。



 ――布石はすでに敷かれていた。



 和輝が鉄球で破砕した一本の足のおかげで、蜘蛛はバランスを崩し、床に突っ伏している。

 その体勢のまま、蜘蛛は触手で俺を捕らえたため、身動きが取れなくなる。

 それに乗じることで、雫は蜘蛛の背中によじ登ることが出来たのだ。


「あと少し……!」


 雫の青白い顔が見え隠れする。

 バットを蜘蛛の腹部に刺し続ける雫も、すでに満身創痍だ。

 蜘蛛もそれを知っているのか、巨大な体を揺すって、雫を振り落とそうとする。

 右足の大怪我は、雫の体重を支えきれない。すぐにバランスを崩して、雫は宙に放り出されそうになる。


「こんな……ことで!」


 しなやかな左腕が、蜘蛛の節に伸びる。節足動物であるこの蜘蛛の腹部と胴体の継ぎ目に手をかけて、蜘蛛の激しい揺さぶりに耐える。

 感嘆すべきは、雫の執念だろう。

 左手一本で蜘蛛の激しい動きに耐え、なおかつマスコットバットは右手に握り締められたまま。


「あと一太刀……!」


 雫の声と同時に、俺を覆っていた触手のドームが解かれる。触手の隙間からしか見ることの出来なかった、体育館の全体像が露になる。

 巨大な蜘蛛が上下左右に暴れることで、雫は相当なダメージを受けていた。バウンドする度に、雫の体は蜘蛛の強固な骨格に叩きつけられる。

 砕かれた右足の痛みも尋常ではないだろう。

 それに、取っ掛かりをつかむ握力でさえ、無限ではない。


 一方の蜘蛛も、腹部の消化液を撒き散らしながら暴れていた。

 腹部の中で蓄えられた生徒の体が、裂けてしまった腹部から吐き出されている。

 溶けた頭蓋骨が床に転がったり、半分解けてしまった女生徒の胴体が、落ちてばらばらになったり。

 中途半端な消化のままで、体育館中に撒き散らされる。

 背中に取り付いている雫を取り払おうと、小型の蜘蛛が飛びつこうとしているが、巨大な蜘蛛の激しい動きで取り付くことも出来ない。

 額に大量の汗をかきながらも、雫は馬鹿にしたような笑みを作る。


「これで終わりよ!」


 巨大な蜘蛛の動きが止まった瞬間を好機と見たか、雫はマスコットバットを振り上げる。


 一太刀。


 雫はそう言った。その一太刀が、雫の最後の対抗手段なのだろう。

 絶対に振り落とされてはならないという執念が、俺に伝わってくる。



 ……戦いの終末が見えた気がした。



 振り下ろされたバットは、雫の渾身の力を込めたまま、蜘蛛の腹部に突き刺さった――はずだった。



 見れば、突き刺さる寸前で、バットは停止している。

 雫の右腕が蜘蛛の触手によって封じられていた。



 雫の表情が凍る。



 巨大な蜘蛛は、最大の隙を作る代わりに、雫を捕らえることに成功した。

 雫と蜘蛛、どちらに転んでも、勝負を決する重大な隙。

 雫はその賭けに負け、蜘蛛に命を握られた。

 触手の力に抗うことは、いかに雫が常人離れしているといっても無理だ。

 鉄筋コンクリートをへし折らんばかりの剛力が、右腕を締め上げる。



 雫の細腕が、関節とは逆の方向に折れ曲がった。



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