第四十二話・「さよなら」
唸りをあげる矢。
一条の煌きが、血生臭い体育館を切り裂いていく。
俺はそれを見送ることしか出来ない。
高速で射出された矢は、間違いなく香奈の眉間を貫くだろう。
俺に、それを止める術はない。
「……面倒ね」
雫の舌打ちが聞こえる。
矢は、巨大な蜘蛛の足によって、方向を変えられていた。
香奈はそれを見越して、大胆な発言をしたようだった。
弾かれた矢は、演説台に突き刺さり、矢尻が振動している。
口の端を持ち上げて、舞台袖に歩いていく香奈。
「待ちなさいよ!」
香奈は巨大な蜘蛛に守られながら、悠々と歩いていく。
雫はそんな香奈の余裕が許せなかったのか、素早く次の矢を取り出して、香奈を射る。射法八節を極端に省略したにもかかわらず、雫の射的は正確だった。
だが、それも一本目と同じように、巨大な蜘蛛の足によってさえぎられてしまう。
「さよなら。大好きだったよ。正臣」
その言葉を残して、髪の毛が流れるように舞台袖へ消えた。
「ムカつく女……!」
それが蜘蛛の怒りに触れたのだろうか。
地団駄を踏む雫に、巨大な蜘蛛の足が振り下ろされる。
紙一重とはまさにこのこと。
蜘蛛の足によって切れた雫の髪の毛が、ふわりと体育館に舞う。
床板に突き刺さった足を引き抜きながら、横回転で逃れた雫を正面に捕らえる蜘蛛。
「正臣! ボストンバッグ! 矢!」
名詞だけの指示が飛ぶ。
俺は急いでボストンバッグのファスナーを開ける。中には、各種運動部室から奪ってきたものと思われるスポーツ用品が、ぎっしり詰まっていた。
欧米ならば、ここには銃が詰まっているところだろう。
そうでないところが、ここ日本という国だ。
俺は痛む腹部を左手でかばいながら、右手で矢を握り締め、雫に投げ渡した。
蜘蛛はそれを確認していたのだろう。
何百という小さい目の集合体である赤い眼球が、俺と雫を同時にとらえていた。
蜘蛛は素早く俺と雫の中間地点に体を滑り込ませ、自らの体で矢の受け渡しを阻止した。
無情にも床に転がる矢。
蜘蛛の想像以上に機敏な動きが、俺を翻弄した。
俺のほうに向けられた腹部には、生徒たちの亡骸が詰まっている。慣性の法則に従うように、腹部の中の生徒たちがもみくちゃにされ、引きちぎれた頭部が、腹中で攪拌される。
俺は吐き気を覚えながらも、次の矢を、今度は雫とは関係のない方向に投げる。
それを見た雫は不敵に笑い、弓を持っていないほうの手の親指を立てて見せた。
雫は走りながら矢をキャッチしようと動き出す。
やはり、巨大な蜘蛛に死角はないようだった。
ぐるぐると赤い目を周囲にめぐらし、状況判断。サッカーで言うところのスルーパスであると判断したのか、俺の投げた矢を再び阻止しようと体を入れてくる。
「フェイクよ」
動き出したはずの雫の足は、踏み出しの第一歩で終わっていた。雫の本命は、最初に阻止されたほうの矢。
ここで生きてくるのは、個体差。
いくら蜘蛛が機敏に動こうとも、それは巨大な蜘蛛のレベルでの話。人間でもずば抜けた運動神経を誇る雫の相手ではない。
雫は方向転換し、転がりながら、最初に俺が投げた矢をつかむ。
相変わらずのそつのなさ。
一つの行動で二つの物事を達することが出来る妙技は、すでに達人の域だ。戦闘訓練など満足に受けられる国ではないのに、このサバイバビリティーは目を疑うばかりだ。
弓を引き絞る雫に、射法は存在しない。
ひざを立てたまま、弓を床と平行にし、矢を放つ。
一直線の軌跡を描いて、蜘蛛の目に命中する。
「ゲームだと、目が弱点ってのが相場なんだけど」
額を滑り落ちる汗が、ゲームと現実を分ける。
何百もある目のうちの一つを潰したぐらいでは、蜘蛛はひるまなかった。猛牛のごとく、残心の姿勢を保ったままの雫に突進していく。
体育館が揺れた。
雫は横っ飛びで突進を回避しようとするが、完全に回避することは出来なかった。蜘蛛の巨大さを物語るには十分な光景だ。蜘蛛の突進をかわそうと横に飛んでも、蜘蛛の攻撃範囲からは逃れられない。蜘蛛の左足の前に飛び出す形になってしまう。
一本目は右。
二本目は左。
三本目も左。
四本目も左。
四本の足を、右に左に体をひねりながら難を逃れていたが、最後の左方向になぎ払われた足の直撃を受けてしまう。カーボン製の弓で防御するも、極限までしなってしまう弓では、防御の限界が生ずる。
よって、いなすことは不可能。
雫は衝撃によって、周囲で静かに観戦するばかりの赤い観衆に、飛び込まざるを得なかった。
「雫!」
叫び声をあげる。
感覚のない足を叱咤して、雫に駆け寄ろうとする。
……が、巨大な蜘蛛の足によって阻まれてしまって、前進できなくなる。
とっさに後方に倒れた俺の股の間に、蜘蛛の足は突き刺さっていた。床板が外れ、俺は滑り落ちそうになる。蜘蛛の足を蹴って、なんとか距離を開けると、俺はボストンバッグに手を突っ込んだ。
蜘蛛の動向を終始気にしながら、ボストンバッグを探る俺の手に、グリップのような感触。
俺はくじでも引くような感覚で、ボストンバッグから獲物を引き出した。
「テニスラケットって……」
突き出される蜘蛛の足。それはまさに巨大な杭だ。
俺は顔を隠すようにラケットを構えるが、それはあまりにも無謀。
ガット越しに、蜘蛛の爪先が接近してくるのを見せ付けられ、俺は恐怖のあまり地面に転がるしかない。
蜘蛛の足は、容易にガットを貫いていた。
自分の顔面に穴が空く様子を想像してしまい、背筋が凍る。
繰り出されるのは、足だけではない。蜘蛛の口から大量に伸びる触手。それは小型の蜘蛛と同様だが、巨大な蜘蛛の口から出てきたそれは、小型のそれをそのまま縮尺どおりに拡大したもの。ゆえに、触手の一本一本が、消防車についているホース並みの太さだ。
ガトリングガンさながらに、次々と繰り出される突きの嵐。
体育館の床には、切り取り線のような穴が開いていき、俺の体中をかすめていく。
シャツが、ズボンが切り裂かれ、俺は命すら切り裂かれる感覚だった。
よく直撃を受けなかったと、自分の底力に感謝する。
腹部の痛みは、すでに俺の中の日常と化した。
茫洋とする頭を振れば、何とか足は動いてくれる。
全力をイメージすれば、一歩だけは動いてくれる。
それが、俺の命をつなぎとめていた。
視界が白く曇り出し、赤い光だけがはっきりと見える。
俺はそれを頼りに、体を反応させているだけ。まるで赤子のように、目に映るものを信じるだけ。
「巨大化は、戦隊物のお約束ね」
ボストンバックの傍に仁王立ちする雫。
破れたシャツの隙間からは、白い柔肌が傷ついているのが見える。剥がれ落ちそうな湿布を鬱陶しそうに引き剥がすと、蜘蛛に向き直った。
右手には、剣道部素振り用の木刀。
左手には、野球部素振り用のマスコットバット。
背後には、弓が突き刺さった化け物が倒れている。
生徒の顔面を貫いた弓からは、内部に巣食っていたと思われる蜘蛛の体液が漏れ出して、生徒の血液と混ざり合っている。弦はすでに切れてしまって、弓としての役目を果たすことは出来ないようだ。
挑戦的に微笑む雫に、蜘蛛は狙いを定める。
同属を殺された恨みだろうか。さっきよりも増して、目が赤く輝いているように見える巨大な蜘蛛。
最初に放たれた蜘蛛だけに、周囲で静観する蜘蛛の群れは、全て巨大な蜘蛛の子供と言える。
その恨みを晴らそうというのであろうか。
「巨大化した化け物が――」
蜘蛛の攻撃は、止むことを知らない。
足を横に薙いだかと思えば、空中からは触手の雨あられ。
雫は横薙ぎにされた足をジャンプ一番で飛び越えた。
「主人公に勝てないってのは――」
短いスカートが翻る。
「定説なのよ!」
背中をかすめる蜘蛛の触手をかいくぐり、懐にもぐりこむ。
両手に持った二つの獲物が、巨大な蜘蛛に牙を剥く。
懐にもぐりこんだ雫の脅威を察知したのか、周囲で静観していたはずの化け物が、自発的に雫を迎撃する。雫は木刀を巨大な蜘蛛の腹部に突き入れる一方で、襲ってきた化け物を、左手で持ったマスコットバットでなぎ払う。
蜘蛛の悲痛な咆哮が、体育館を揺らす。
天井に吊るされた繭が、左右に揺れるほどの大音量。
雫は腹部に突き刺した木刀を抜き取る。
予期していなかったのか、消化液が溢れ出して、雫の腕にかかってしまう。
雫の白い腕から、湯気が立ち上る。
蒸発する雫の肌。
雫はそれでも木刀を取り落とさない。歯を食いしばって、再び蜘蛛の腹部に木刀を突き入れる。
雫の白い肌が焼けただれて、赤く染め上がる。
「くそ……!」
俺は歩くようなスピードで、雫に接近するのがやっとだ。
「雫……雫!」
俺の声が雫に届いたのかは分からない。
だが、雫は俺と視線が合うと、強がるように笑って見せる。
蜘蛛は漏れ出す消化液を止めることも出来ずに、体を身震いさせた。雫の周囲に消化液が飛び散ると、化け物ともども、白い煙が煙幕のように広がる。
蜘蛛の鎧をまとった化け物も、蜘蛛ごと溶け始めた。赤い目は力を失って黒く染まり、蜘蛛の足は途中から溶けて、脆くも折れてしまう。
消化力のすさまじさは、見ているだけで分かる。
雫は化け物を盾にしながら逃れようとするが、髪の毛に付着した消化液は、雫の美しい髪の毛を溶かしてしまう。
雫が身を翻した瞬間、髪の毛は大量に分断され、雫は短髪になった。
マスコットバットが、化け物の横っ面を叩く。
頬骨を折られた化け物は、滝のように流れる消化液の真下に転がり、あっという間に溶けていった。
バットを振り切った雫の背中が見える。
何よりも美しい雫の背中。
どんな美術品も及ばない美麗な背筋は、今はそこにはない。
背中に浴びた消化液で、制服はとうの昔に溶けてしまっている。ブラジャーの下に貼った湿布も、すでに溶けてなくなっている。当然、ブラジャーも、ホックごと溶けてしまっていて、かろうじて肩の部分でぶら下がっているだけだ。
だが、その肩の部分でさえも、飛んできた消化液によって溶かされ、ブラジャーは雫から外れて床に落ちた。それは体当たりしてきた化け物によって踏み潰され、返り討ちにされた蜘蛛の体液で汚れた。
雫の背中は、見ていられないほど真っ赤にただれている。
汚された芸術品ほど、惨たらしく、無残なものはない。
雫は、それでも叫ぶ俺と視線を合わせ、そして、笑む。
――私は大丈夫。
読唇術を学んでいない俺でも分かるように、雫は大げさに口を動かした。