第四十話・「これが最後だよ」
「俺のせいだ。佐藤がこうなってしまったのも、加藤さんや、夏美を失ってしまったのも」
通り過ぎていった、過去の情景。
佐藤の冷たい手を握りながら、俺の感情は、繰り返してきた過ちを追体験していく。
自分の犯してきた過ちを忘れないように、一生かかっても償う決意をするように。
「正臣……」
落胆の色を隠せない香奈は、俺の名前にため息を混ぜる。
「だからって、俺はそれを割り切ることなんて出来ない。俺が犯した罪は、どんなに時間が経過しようと、消えない。……けど、人間は償うことの出来る生き物だから」
「……タ……す……ケ」
佐藤の動作が鈍くなっていく。
体を引き裂かれ、上半身のみになった佐藤の生命活動は、いくら蜘蛛によって引き延ばされているとはいえ、限界があるようだった。
香奈が言った通り、佐藤の生命は、内部に巣食った蜘蛛によって吸われ続けているのだろう。
その生命が、もうすぐ枯渇しようとしている。
「何度でも言うよ。香奈……俺は、お前にも償わなくちゃいけないんだ」
俺のシャツをつかんでいた佐藤の握力が失われて、床に落ちる。
佐藤の瞳を、そっとまぶたの裏に隠してやると、佐藤はまるで眠りについたように穏やかな寝顔になる。
「私に償うことなんてないよ。私は割り切っているから。正臣がしてきたことは全部許すよ」
佐藤の最後の表情を看取り、俺は立ち上がる。
「香奈、俺たちは間違っていたんだ。ようやく気がつくことが出来た。だから、これから二人で間違いを直して、全てを償って生きていこう。もう一度、和輝と三人で……馬鹿みたいに笑っていた頃に戻って、やり直そう」
――なぜだろう。
俺と和輝、そして香奈。
三人でいた頃を思い出すと、微笑みが止まらない。昨日までは当たり前のように享受してきた時間なのに、もうだいぶ昔のことのように思える。
それがとても不思議だった。
「私は、正臣の過去になんかならないよ。私はずっと現在と未来を生きていくの。正臣と二人で」
「ごめん、香奈。俺は、そういう生き方は出来ない」
要領の悪い、損得勘定で言ったら圧倒的に損が多い、不器用な生き方。
そんな生き方でも正しいと思えるから、俺は首を横に振る。
「どうして……?」
演説台の横に歩み出た香奈の拳が、限界まで握り締められている。
「過去があるから、今がある。今があるから、未来がある。俺たちは、過去があるからこそ生きていけるんだ。償うからこそ、一歩を踏み出せるんだ」
「――もういい!」
香奈が握り締めた拳を振り払うと、マイクに直撃した。
「そんな奇麗事ばっかり言って、私を困らせないでよ!」
殴り飛ばしたマイクは、壇上に激しく転がる。
鼓膜を破らんばかりのハウリングが、体育館中に響き渡った。
「偽善的だと言われてもいい。奇麗事だと罵られてもいい。それが東城正臣だから。香奈……俺はお前に、それを分かって欲しい」
俺の必死の説得に、香奈は表情を前髪で隠す。
「……正臣、これが最後だよ」
穏やかさを装った口調。
「割り切って」
「……ごめん。それは出来ない」
前髪によって隠された香奈の瞳から、涙が流れだす。
次々と頬を伝い、壇上にこぼれていく。雫とキスをしてしまったときと同じ、いや、それ以上の涙が、滂沱として流れていた。
「好きなのに……愛しているのに……正臣は私を過去にするんだね。だったら私――」
顔を上げた香奈は、微笑みながら泣いていた。
「――正臣を割り切るしかないじゃない」
涙はとどまることを知らない。
「正臣が心の中にいたら、私を苦しめるに決まっているから。ごめんね、正臣。愛しているけど、割り切るよ」
涙を拭うこともせずに、流れるまま。
「それが私の生き方だから」
瞬間、笑みの色が変わる。慈愛から、狂気へ。
「香奈!」
最悪の方向に向かいつつあることを察した俺は、あらん限りの声を振り絞る。
香奈を引き戻したい。その思いを一心に込めて。
「ごめんね、みんな。我慢していたんだよね。好きにしていいよ」
歌い上げるように、香奈は体育館中に声を響かせた。
蜘蛛の動きが活発化する。待ってましたと言わんばかりに、足を鳴らして体を揺らす。
穏やかだった海が、一気に荒波へと変貌した。
「でもね、正臣は特別。あの子が食べてくれるよ」
体育館の一角が、切り取られるようにゆらりと動き出した。
「私が持ってきた最初の子供。最初は手のひらぐらいしかなかったのに、あんなに大きくなったんだよ」
華菜の指し示した先には、見たことも無いような巨大な生物がいる。
ありていに言えば、それは巨大な蜘蛛だ。
体育館の隅、天井に張り付いたまま動かなかったから、今の今まで気がつくことができなかった。
それ以前に、体育館中を照らし続けている大小さまざまな蜘蛛の群れや、化け物に張り付いて離れない蜘蛛の赤目のまぶしさに見失っていた、と言ったほうが適切か。
「ここにいる全ての子供達はね、みんなあの子から生まれたんだよ。基本的には、蟻と一緒なのかな。一匹の女王蟻から、兵隊蟻や、働き蟻が生まれるような感じ」
天井から床に落ちてくる巨大な蜘蛛。体を反転させて、見事に着地する。
八本の足で貫かれた体育館の床は、板が割れて真っ二つになり、ぎりぎりのところで蜘蛛の体重を支えていた。
「私は研究者じゃないから、詳しいことは知らないけど、この子達は最高の命令系統を持っているみたいなの。誰もが、きちんと女王、つまり、あの一番初めに放った蜘蛛に従ってる。それに、あの子ですら私に従うんだから。きっとヒエラルキーがしっかりしているんだと思う」
巨体を揺らして、身にまとった蜘蛛を振り落とすと、体の様子がはっきりと見て取れる。
それは、蜘蛛と形容するにはあまりにもおぞましい姿だった。
「だから正臣も、抵抗するのはやめたほうがいいよ。無駄だから」
頭部には、他の蜘蛛と同様、赤く光る巨大な三つの目が、爛々と輝く。
だが、それは目であって目ではない。
何百という目の集合体だった。
各々が、死角を補うかのように八方をぐるぐると監視している。まるで、春の野に、群生して生えるつくしだ。
「あの子に正臣が食べられることで、きっと正臣への恋心は終わると思うの。だって、あの子のおかげで、正臣と想いを通じ合わせるきっかけが出来たんだから」
胴体は堅牢な骨格で守られている。周囲を取り巻く蜘蛛の赤い光を反射して、黒光りしていた。
「物語の始まりと終わりは、同じほうがいいよね」
おぞましいのは、頭部と胴体だけではない。
最もおぞましいものは、腹部にあった。
透き通るような腹部。その中には、どろどろに溶け出した生徒達が蠢いている。パンクしてしまいそうなほど人で敷き詰められた腹中には、オレンジ色の液体が満ちていて、見るからに消化液と分かる。
ゴムのように伸縮性のある腹部。
苦しむ生徒たちが内側から腹を押すと、その分だけ外に伸びる。破ることの出来ない腹部の粘膜。蜘蛛はそれを痛がりもせずに、重そうに腹部を揺らしている。
遮音性はないようで、腹部からは生徒の苦悶の声が、絶え間の無い念仏のように響いてきた。
足元から這い上がってくる恐怖。
助けを求めるような生徒たちの視線。
亡者の群れのように、それは俺を喰らい尽くそうとする。
一番手前にいる男子生徒は、頭の毛が抜け落ち、白い頭蓋の半分が見えてしまっている。
その上から覆いかぶさるようにしている女子生徒は、体の半分以上が白骨化してしまって、すでに意識もないようだった。
女子生徒の眼窩からこぼれだした寒天質の眼球が、かろうじて視神経とつながっているのが確認できる。
「怖がることは無いよ。みんなと一緒なんだから」
肌がただれ、骨が見え、髪の毛が散らばる。
助けを求める生徒達が必死にもがくせいで、内部に浮かぶ肝臓がかき混ぜられ、心臓が握り潰される。腹部から飛び出した腸が、紐のように絡みつき、生徒たちをがんじがらめにした。
我先に助けを求めようと、押し合い圧し合いを始めると、消化液で弱体化させられているせいか、腕が簡単にへし折れる。
引っ張られた足は、おもちゃのように胴体から引き抜かれ、踏みつけられた頭蓋は、熟した柿を踏み潰したように、中から脳味噌が飛び出す。
生徒が口から吐き出した吐瀉物は、消化液と混ざり合い、色を変えた。
そこにあるのは、一瞬の死ではなく、緩慢な死。
自らが腐乱していく姿を見ながら、精神と肉体の両方を痛めつけられる。
すぐには死ねず、意識が保てなくなるまで激痛を、絶望を味わい続けなくてはならない。
――地獄絵図。
俺の頭にその言葉が浮かんだとき、俺は胃からこみ上げるものに耐え切れず、その場に嘔吐した。
朝、胃に何も入れてこなかったのが、せめてもの救いだった。
胃液だけが、唾液と混ざり合って床に落ちる。
口の中を酸味が駆け巡った。
「なんで……こんな……」
「仕方のないことなんだよ」
蜘蛛の目だけではなく、巨大な蜘蛛の腹部にいる生徒たちの目までもが、俺を凝視する。
嫉妬と憎悪をない交ぜにした視線。
なぜ、俺達、私達と同じ苦しみを受けずに済んでいるんだ、と。
早く助けろ、と。
同じ目に遭え、と。
「これは決まったことなの。私たちの意志の及ばないところで決められた計画」
遠い目で、どこを見るでもなく中空を見つめる香奈。
「偶然にも、その候補地として私たちの町が挙がり、結果的に選出されてしまった。ただ、それだけ」
香奈の言う、ただそれだけで、目の前にいる生徒たちは苦しんでいる。蜘蛛の中で溶解していく。
「私達の町の外では、今も普通に人々が暮らしている。誰もが平和を当たり前のように享受し、テレビに映る悲惨な状況を、他人事のように眺めている」
一人、また一人と、蜘蛛の中で蠢く生徒の数が減っていく。香奈の一方的な述懐を耳にしている間にも、目の前で消えていく生命がある。
あまりにも残酷に、あまりにもあっけなく。
「仕方が無いの。こうなってしまったことは。運が悪かったと、割り切るしかないんだよ」
言い終わると同時に、香奈のポケットが震え、淡い紫色の光が点滅する。
ポケットに手を入れて携帯電話を取り出すと、香奈は当たり前のように通話ボタンを押した。
「――はい、香奈です。……大丈夫です。私は心配ありません」
俺から外した視線を、壇上に落として電話の向こうの何者かと会話する。いつもの香奈ではない、事務的な口調。
「……はい。タイムスケジュールもこれといって狂いはありません。メールでやり取りした、私を含めた二名の脱出予定ですが……」
壇上に落ちていた視線が、再び俺を捕らえた。
「当初の予定通り、私だけで構いません。もう割り切ることに決めましたから」
香奈が俺を見据えて断言した――刹那。
高速で飛来した一線が、香奈の携帯電話を貫いていた。
「弓道部の部長だけあって、さすがにいいもの使ってるわ」
彼女――睦月雫は、不敵に笑った。