表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/50

第三十九話・「もう、やめてくれ」

 左ひじは、俺を後ろから抱きしめる香奈の顔面に直撃する。

 腕を通して伝わってくる暴力の感覚。

 香奈は、尻餅をつき、鼻を押さえる。俺は、左ひじを振り切った回転力そのままに、受身すら取ることも出来ず、壇上に転がった。


「正臣、どうして分かってくれないのかな……」


 香奈は、痛そうにする素振りも見せず、鼻を押さえたまま立ち上がる。

 押さえた手の隙間からは、真っ赤な血が漏れ出していた。

 あの感触は、どうやら鼻を直撃したらしい。

 発狂しそうな痛みと、氷河期に突入したかのような寒さ。

 俺はその二つを身にまといながら、何とか香奈から逃げ出そうとする。


「どうしたの正臣? 私が怖いの?」


 鼻を押さえていた手を下ろして微笑む香奈。小さな鼻からは、想像以上のおびただしい量の血が垂れ流しになり、それは香奈の着ている制服に染みこんでいく。鼻が赤く腫れ上がっているところを見ると、鼻骨に異常があるのは明らかだった。

 おそらく、骨折している。


「いくら怖がったところで、私たち二人は、これからずっと一緒なんだよ。どんなときでも二人で乗り越えなくちゃいけないんだよ。だから、正臣のわがままなら、私は許してあげられる。それが恋人だから。愛し合った二人に出来ることだから」


 凄艶な笑み。天使と悪魔が混在したかのよう。

 俺は、香奈の言葉を無視して壇上を転がり下りた。

 蜘蛛の海に飛び込んでいく。

 蜘蛛は他の生徒の解体に夢中になっているのか、波間をかき分けて進む俺には気がつかない。


「正臣を殺しちゃ駄目だよ」


 演説台の上においてあるマイクを通して、体育館全体に香奈の声が拡張される。蜘蛛は、香奈の声が聞こえると、一斉に壇上にいる香奈を振り向き、その動きを止める。

 独裁者の演説としてはふさわしくないかわいらしい声で、香奈は蜘蛛と化け物の群れに語りかけた。


「正臣は私のものなんだから」


 香奈に感謝しなくてはならないだろう。

 腹部に深手を負った俺は、いまや人並み以下の運動能力しかない。蜘蛛のすばやい動きを回避することも、おそらく出来ない。

 もし、香奈が蜘蛛に俺を無視するよう指示を出していなかったら、佐藤にたどり着く前に八つ裂きにされていたことは、疑いようがない。


「佐藤、大丈夫か?」


 俺は天井から落下してから、全く動こうとしない佐藤を揺り動かす。両足は見事に骨折してしまっている。だが、人間はタフな生き物。この程度では命には別状はないはずだ。


「佐藤、帰ろう。ここにいては危険だ」


 佐藤の体が震える。

 俺の声に反応したようだった。


「……たすけ」

「ああ、助けるよ。絶対に助けてみせるよ。だから、佐藤、もう少し耐えてくれ」


 佐藤の声が聞けたことで、俺は涙が出そうになる。全身に染み込んだ死への倦怠感が、少しずつ体から抜け出していくような感覚。


「タ……すけ……」


 佐藤の声音が機械的なものに変化していく。


「……スケ……た」


 俺はこの声に聞き覚えがある。


「タ……ス……け……」


 佐藤を介抱しようとした俺を、見下ろすように立ち上がる。両足の骨折をものともしないで立ち上がろうとした佐藤は、自重を支えることが出来ずに、仰向けに倒れてしまう。

 佐藤の目が、透明な卵から孵るおたまじゃくしのように、白目の中で暴れだす。

 人間が、こんな目の動きをさせることが出来るのだろうか。

 まるで瞳だけが別の生物であるかのように、激しく動き回っている。

 すぐさま眼窩を飛び出して、俺に襲い掛かってきそうな勢いだ。


「そんな、佐藤……」


 仰向けになったままの佐藤の口が大きく開かれた。

 噴水のように、そこから微細な蜘蛛の群れが大量に出てくる。手のひらで握りつぶせてしまう大きさの蜘蛛の大群。

 微細な蜘蛛は、俺を襲うでもなく、ましてや個別に行動するでもなく、佐藤の体にまとわりついていく。

 透明な体から判断するに、それは生まれたての蜘蛛。

 それぞれに透き通るような触手を口から出して、佐藤の肌に突き刺していく。

 ストローで何かを吸い上げるような行為に似ていた。

 触手の中を液体が通過しているのか、内部がわずかに蠢いている。

 蜘蛛の成長は顕著だった。

 あっという間にその体を膨れ上がらせる。すぐに手のひらぐらいの大きさになると、佐藤の体に張り付いたまま、三つの瞳に光を灯す。

 それが百匹以上。

 養分を吸われたと思われる佐藤は、やせ細り、骨と皮だけになった。そんな佐藤に蜘蛛は群がり、表面を隠すように佐藤を覆っていく。


「スケ……す……た」


 やがて佐藤の体は、一部分が膨れ上がったり、へこんだりを繰り返し、どこか見覚えのある風体に変貌していった。

 上半身が肥大し、下半身はやせ細ったままの、あの化け物。

 俺と雫がやっとのことで倒した、化学実験室の化け物。

 全身に蜘蛛の鎧をまとい、怪力を駆使し、テーブルを根こそぎ持ち上げ、あるいはその腕力で蜘蛛を投げつけた、あの化け物。


「佐藤、佐藤……佐藤!」


 俺は蜘蛛に覆われた佐藤から、蜘蛛を引き剥がそうとすがりつく。香奈の命令を忠実に実行している蜘蛛と化け物は、そんな俺には見向きもしない。俺のなすがままにさせている。

 今の脆弱な俺には、蜘蛛を剥がすことすら出来ない。

 佐藤から、蜘蛛を取り除いてやることも出来ない。

 苦しみから解放してやることも出来ない。


 あまりにも無力だ。


 俺は涙を流しながら、佐藤を覆った蜘蛛に手をかけた。蜘蛛は怒りをたたえたような赤い瞳を俺に向ける。

 命令がなければ、今すぐにでもお前の臓物を引き出してやる。

 そんな憎悪をたぎらせた目だった。


「た……スケ」


 佐藤が立ち上がる。

 骨折していたはずの両足は元通りだ。蜘蛛の隙間からのぞく佐藤の目が、悲しげに揺れた気がした。


「佐藤、今、助けるから! こんな蜘蛛なんか、俺が取り払ってやるから……!」


 立ち上がった佐藤から蜘蛛を取り除こうと、手を伸ばし続ける。


「正臣、無駄だよ」


 香奈の指示に従順な蜘蛛の群れは、俺にわしづかみにされようと、足をもぎられようと、烈火のような瞳で俺を凝視するだけで、攻撃を加えようとはしない。


「だから、もう少しだけ耐えてくれ……」


 助けたい。

 守りたい。

 心にある意志はいまだに強い力で満ちているのに、蜘蛛を引き剥がそうとする力だけが弱まっていく。


「分かっているんだよね。正臣は」


 香奈の声が体育館に響く。

 壇上の演説台に設置されたマイクを通して聞こえるから、それはまるで天の声であるかのように耳に飛び込んでくる。

 不可避の結果を思い知らされるように、目をそらすことの出来ない現実を見せるかのように。



「――佐藤君は、もう死んでいるって」



 ポケットから出したハンカチで丁寧に鼻血を拭う。

 その何気ない仕草が、日常の一風景を思い出させる。


「たす……ケ?」

「手が止まりそうなのはそのせいだよね?」


 香奈は壇上にいるのに、まるで後ろから抱きすくめられているような感覚。


「泣いているのはそのせいだよね?」


 俺の傷口に手を差し込むように、俺の力を内側から根こそぎ奪おうとする嫌悪感。


「正臣は、自分が無力だってことを自覚してる」

「タタ……すス……け」

「だから、正臣は知っている。佐藤君は助からない、助けられないってことを。言葉では否定できても、心の中では理解しているんだよ。私達人間は、そうして生きてきたんだから」


 蜘蛛に覆われた佐藤は、目でも回しているかのように、上半身を揺らしている。


「死を宣告された重病人に、あなたの病気はきっと良くなる、って言うことと同じ。良くなるわけがないと心の奥底では理解しているのに、それを認めるのが嫌だから、言葉で否定するしかないんだよ」

「けケ……タス……け……」

「第一、侵入されたら、脳を直接、その子達の触手でいじられちゃうから、たとえその子達を引き剥がしたとしても、脳は壊れちゃったままなんだよ? 養分も常に吸われることになるから、体も駄目になるし」


 学会で研究結果を発表するかのように、淡々と結果だけを、躊躇いもなく述べていく。


「何より、佐藤君の体の中はもう空っぽだし。……そうだ」


 良案でも浮かんだのか、香奈は手をたたいて、笑顔を浮かべる。


「正臣に分かりやすいように見せてあげて」


 香奈の声を受けた蜘蛛は、拘束から解放された喜びか、一斉に佐藤の体に足を突き刺していく。

 ぶすり、ぶすり、と佐藤の服の上から長い足が突き刺さっていく。

 豆腐に包丁を突き刺すように、蜘蛛の足は、簡単に佐藤の体内に入り込んでいった。

 ビニール袋に入れた満杯の水。

 そこに針を幾度も、色々な方向から突き刺すと、シャワーのように周囲から水が漏れる。


「スケ……タ……す」


 目の前で起こっている光景が、まさにそれだった。

 佐藤の体に開いたいくつもの風穴から、赤い血が漏れ出している。


「やめてくれ……もう、やめてくれ……」


 俺の懇願も空しく、次々に獲物に群がる蜘蛛は、真っ赤な塔のように積み重なっていく。その中に佐藤がいるとは思えない。

 だが、蜘蛛が蠢く隙間から、佐藤の血が流れ出していることから、そこに佐藤がいるということが分かった。


「もうそろそろいいかな?」


 香奈の声に従順な蜘蛛は、波が引くように佐藤から離れていく。

 後に残ったのは、上半身と下半身を離れ離れにされた佐藤だった。

 人間の営みに欠かせない五臓六腑が、香奈の宣言通り、ごっそり消え去ってしまっている。


「タすケ……」


 それでも佐藤は、空っぽの体でほふく前進している。

 俺に助けを請うように近づいてくる。


「ね? 見て分かるじゃない。佐藤君はもう死んでいるんだよ。かろうじて生かされているだけ。この子達が養分を残らず吸い取ってしまえば、後は廃棄されるだけの物体」


 佐藤が俺に右手を伸ばす。

 吐血しながら、苦しそうに俺を求めている。

 人差し指と、中指がなくなってしまった右手で、必死に俺をつかもうとしている。


「心が痛いんだよね。正臣の気持ちが手に取るように分かるよ。誰にでも優しい正臣だから、思いやりのある正臣だから、苦しいんだよね」


 淡々と事実だけを述べる香奈の声が、一転して優しい声に変わる。


「……ねえ、正臣。正臣は、もう無理しなくていいの。他人に優しくしてしまうから、みんな優しすぎる正臣に無理を強いるようになる。正臣には、出来ることと出来ないことがあるんだから、どこかでそれらを割り切らないと生きていけないんだよ」


 香奈の甘言によって輪郭付けられた幻想が、俺に手を差し伸べてくる。


「正臣が背負っている苦しみも、割り切ってしまえば、すぐに楽になる。正臣はそれが出来る人間だって、私、信じてるよ」


 佐藤の手が、俺の血に染まったシャツをつかむ。

 俺はその手をとって、佐藤を見つめる。

 半身を失った今も、俺のシャツをつかみ、何かを訴えようとしている佐藤。それは蜘蛛の意思によるものなのか、佐藤の意思によるものなのか、判別はつかない。

 だが俺は、それが佐藤の意思によるものだと思いたかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ