第三十九話・「もう、やめてくれ」
左ひじは、俺を後ろから抱きしめる香奈の顔面に直撃する。
腕を通して伝わってくる暴力の感覚。
香奈は、尻餅をつき、鼻を押さえる。俺は、左ひじを振り切った回転力そのままに、受身すら取ることも出来ず、壇上に転がった。
「正臣、どうして分かってくれないのかな……」
香奈は、痛そうにする素振りも見せず、鼻を押さえたまま立ち上がる。
押さえた手の隙間からは、真っ赤な血が漏れ出していた。
あの感触は、どうやら鼻を直撃したらしい。
発狂しそうな痛みと、氷河期に突入したかのような寒さ。
俺はその二つを身にまといながら、何とか香奈から逃げ出そうとする。
「どうしたの正臣? 私が怖いの?」
鼻を押さえていた手を下ろして微笑む香奈。小さな鼻からは、想像以上のおびただしい量の血が垂れ流しになり、それは香奈の着ている制服に染みこんでいく。鼻が赤く腫れ上がっているところを見ると、鼻骨に異常があるのは明らかだった。
おそらく、骨折している。
「いくら怖がったところで、私たち二人は、これからずっと一緒なんだよ。どんなときでも二人で乗り越えなくちゃいけないんだよ。だから、正臣のわがままなら、私は許してあげられる。それが恋人だから。愛し合った二人に出来ることだから」
凄艶な笑み。天使と悪魔が混在したかのよう。
俺は、香奈の言葉を無視して壇上を転がり下りた。
蜘蛛の海に飛び込んでいく。
蜘蛛は他の生徒の解体に夢中になっているのか、波間をかき分けて進む俺には気がつかない。
「正臣を殺しちゃ駄目だよ」
演説台の上においてあるマイクを通して、体育館全体に香奈の声が拡張される。蜘蛛は、香奈の声が聞こえると、一斉に壇上にいる香奈を振り向き、その動きを止める。
独裁者の演説としてはふさわしくないかわいらしい声で、香奈は蜘蛛と化け物の群れに語りかけた。
「正臣は私のものなんだから」
香奈に感謝しなくてはならないだろう。
腹部に深手を負った俺は、いまや人並み以下の運動能力しかない。蜘蛛のすばやい動きを回避することも、おそらく出来ない。
もし、香奈が蜘蛛に俺を無視するよう指示を出していなかったら、佐藤にたどり着く前に八つ裂きにされていたことは、疑いようがない。
「佐藤、大丈夫か?」
俺は天井から落下してから、全く動こうとしない佐藤を揺り動かす。両足は見事に骨折してしまっている。だが、人間はタフな生き物。この程度では命には別状はないはずだ。
「佐藤、帰ろう。ここにいては危険だ」
佐藤の体が震える。
俺の声に反応したようだった。
「……たすけ」
「ああ、助けるよ。絶対に助けてみせるよ。だから、佐藤、もう少し耐えてくれ」
佐藤の声が聞けたことで、俺は涙が出そうになる。全身に染み込んだ死への倦怠感が、少しずつ体から抜け出していくような感覚。
「タ……すけ……」
佐藤の声音が機械的なものに変化していく。
「……スケ……た」
俺はこの声に聞き覚えがある。
「タ……ス……け……」
佐藤を介抱しようとした俺を、見下ろすように立ち上がる。両足の骨折をものともしないで立ち上がろうとした佐藤は、自重を支えることが出来ずに、仰向けに倒れてしまう。
佐藤の目が、透明な卵から孵るおたまじゃくしのように、白目の中で暴れだす。
人間が、こんな目の動きをさせることが出来るのだろうか。
まるで瞳だけが別の生物であるかのように、激しく動き回っている。
すぐさま眼窩を飛び出して、俺に襲い掛かってきそうな勢いだ。
「そんな、佐藤……」
仰向けになったままの佐藤の口が大きく開かれた。
噴水のように、そこから微細な蜘蛛の群れが大量に出てくる。手のひらで握りつぶせてしまう大きさの蜘蛛の大群。
微細な蜘蛛は、俺を襲うでもなく、ましてや個別に行動するでもなく、佐藤の体にまとわりついていく。
透明な体から判断するに、それは生まれたての蜘蛛。
それぞれに透き通るような触手を口から出して、佐藤の肌に突き刺していく。
ストローで何かを吸い上げるような行為に似ていた。
触手の中を液体が通過しているのか、内部がわずかに蠢いている。
蜘蛛の成長は顕著だった。
あっという間にその体を膨れ上がらせる。すぐに手のひらぐらいの大きさになると、佐藤の体に張り付いたまま、三つの瞳に光を灯す。
それが百匹以上。
養分を吸われたと思われる佐藤は、やせ細り、骨と皮だけになった。そんな佐藤に蜘蛛は群がり、表面を隠すように佐藤を覆っていく。
「スケ……す……た」
やがて佐藤の体は、一部分が膨れ上がったり、へこんだりを繰り返し、どこか見覚えのある風体に変貌していった。
上半身が肥大し、下半身はやせ細ったままの、あの化け物。
俺と雫がやっとのことで倒した、化学実験室の化け物。
全身に蜘蛛の鎧をまとい、怪力を駆使し、テーブルを根こそぎ持ち上げ、あるいはその腕力で蜘蛛を投げつけた、あの化け物。
「佐藤、佐藤……佐藤!」
俺は蜘蛛に覆われた佐藤から、蜘蛛を引き剥がそうとすがりつく。香奈の命令を忠実に実行している蜘蛛と化け物は、そんな俺には見向きもしない。俺のなすがままにさせている。
今の脆弱な俺には、蜘蛛を剥がすことすら出来ない。
佐藤から、蜘蛛を取り除いてやることも出来ない。
苦しみから解放してやることも出来ない。
あまりにも無力だ。
俺は涙を流しながら、佐藤を覆った蜘蛛に手をかけた。蜘蛛は怒りをたたえたような赤い瞳を俺に向ける。
命令がなければ、今すぐにでもお前の臓物を引き出してやる。
そんな憎悪をたぎらせた目だった。
「た……スケ」
佐藤が立ち上がる。
骨折していたはずの両足は元通りだ。蜘蛛の隙間からのぞく佐藤の目が、悲しげに揺れた気がした。
「佐藤、今、助けるから! こんな蜘蛛なんか、俺が取り払ってやるから……!」
立ち上がった佐藤から蜘蛛を取り除こうと、手を伸ばし続ける。
「正臣、無駄だよ」
香奈の指示に従順な蜘蛛の群れは、俺にわしづかみにされようと、足をもぎられようと、烈火のような瞳で俺を凝視するだけで、攻撃を加えようとはしない。
「だから、もう少しだけ耐えてくれ……」
助けたい。
守りたい。
心にある意志はいまだに強い力で満ちているのに、蜘蛛を引き剥がそうとする力だけが弱まっていく。
「分かっているんだよね。正臣は」
香奈の声が体育館に響く。
壇上の演説台に設置されたマイクを通して聞こえるから、それはまるで天の声であるかのように耳に飛び込んでくる。
不可避の結果を思い知らされるように、目をそらすことの出来ない現実を見せるかのように。
「――佐藤君は、もう死んでいるって」
ポケットから出したハンカチで丁寧に鼻血を拭う。
その何気ない仕草が、日常の一風景を思い出させる。
「たす……ケ?」
「手が止まりそうなのはそのせいだよね?」
香奈は壇上にいるのに、まるで後ろから抱きすくめられているような感覚。
「泣いているのはそのせいだよね?」
俺の傷口に手を差し込むように、俺の力を内側から根こそぎ奪おうとする嫌悪感。
「正臣は、自分が無力だってことを自覚してる」
「タタ……すス……け」
「だから、正臣は知っている。佐藤君は助からない、助けられないってことを。言葉では否定できても、心の中では理解しているんだよ。私達人間は、そうして生きてきたんだから」
蜘蛛に覆われた佐藤は、目でも回しているかのように、上半身を揺らしている。
「死を宣告された重病人に、あなたの病気はきっと良くなる、って言うことと同じ。良くなるわけがないと心の奥底では理解しているのに、それを認めるのが嫌だから、言葉で否定するしかないんだよ」
「けケ……タス……け……」
「第一、侵入されたら、脳を直接、その子達の触手でいじられちゃうから、たとえその子達を引き剥がしたとしても、脳は壊れちゃったままなんだよ? 養分も常に吸われることになるから、体も駄目になるし」
学会で研究結果を発表するかのように、淡々と結果だけを、躊躇いもなく述べていく。
「何より、佐藤君の体の中はもう空っぽだし。……そうだ」
良案でも浮かんだのか、香奈は手をたたいて、笑顔を浮かべる。
「正臣に分かりやすいように見せてあげて」
香奈の声を受けた蜘蛛は、拘束から解放された喜びか、一斉に佐藤の体に足を突き刺していく。
ぶすり、ぶすり、と佐藤の服の上から長い足が突き刺さっていく。
豆腐に包丁を突き刺すように、蜘蛛の足は、簡単に佐藤の体内に入り込んでいった。
ビニール袋に入れた満杯の水。
そこに針を幾度も、色々な方向から突き刺すと、シャワーのように周囲から水が漏れる。
「スケ……タ……す」
目の前で起こっている光景が、まさにそれだった。
佐藤の体に開いたいくつもの風穴から、赤い血が漏れ出している。
「やめてくれ……もう、やめてくれ……」
俺の懇願も空しく、次々に獲物に群がる蜘蛛は、真っ赤な塔のように積み重なっていく。その中に佐藤がいるとは思えない。
だが、蜘蛛が蠢く隙間から、佐藤の血が流れ出していることから、そこに佐藤がいるということが分かった。
「もうそろそろいいかな?」
香奈の声に従順な蜘蛛は、波が引くように佐藤から離れていく。
後に残ったのは、上半身と下半身を離れ離れにされた佐藤だった。
人間の営みに欠かせない五臓六腑が、香奈の宣言通り、ごっそり消え去ってしまっている。
「タすケ……」
それでも佐藤は、空っぽの体でほふく前進している。
俺に助けを請うように近づいてくる。
「ね? 見て分かるじゃない。佐藤君はもう死んでいるんだよ。かろうじて生かされているだけ。この子達が養分を残らず吸い取ってしまえば、後は廃棄されるだけの物体」
佐藤が俺に右手を伸ばす。
吐血しながら、苦しそうに俺を求めている。
人差し指と、中指がなくなってしまった右手で、必死に俺をつかもうとしている。
「心が痛いんだよね。正臣の気持ちが手に取るように分かるよ。誰にでも優しい正臣だから、思いやりのある正臣だから、苦しいんだよね」
淡々と事実だけを述べる香奈の声が、一転して優しい声に変わる。
「……ねえ、正臣。正臣は、もう無理しなくていいの。他人に優しくしてしまうから、みんな優しすぎる正臣に無理を強いるようになる。正臣には、出来ることと出来ないことがあるんだから、どこかでそれらを割り切らないと生きていけないんだよ」
香奈の甘言によって輪郭付けられた幻想が、俺に手を差し伸べてくる。
「正臣が背負っている苦しみも、割り切ってしまえば、すぐに楽になる。正臣はそれが出来る人間だって、私、信じてるよ」
佐藤の手が、俺の血に染まったシャツをつかむ。
俺はその手をとって、佐藤を見つめる。
半身を失った今も、俺のシャツをつかみ、何かを訴えようとしている佐藤。それは蜘蛛の意思によるものなのか、佐藤の意思によるものなのか、判別はつかない。
だが俺は、それが佐藤の意思によるものだと思いたかった。