第三十八話・「痛いのは嫌だよね」
ここは本当に体育館なのだろうか。
見渡す限り赤い大海原。何百、何千という蜘蛛の群れが体育館の内側に張り付いていて、目を光らせながら蠢いている様子は、まるでさざ波のようだ。
「この子達はね、今回試験的に導入されたんだよ」
体育館の床には、生徒だったものと思われる人間の四肢が散乱していて、蜘蛛がその上から生徒達の体を物色している。首や太ももが無造作に転がっていて、赤い血にまみれながらも、白い骨が見てとれた。
女か男かなんて識別は、まったくといっていいほど出来そうにない。
「最初は一匹だった。私がバックに卵を入れて持ち込んで、集会の中に放り込んだの」
バスケットゴールの下では、二匹の蜘蛛が生徒の腹の中から腸を器用に引き出し、互いに引っ張り合う。
「そうしたら、あっという間にこんなに増えてくれたの。そうそう、正臣、この子達ね、頭もいいんだよ」
引っ張りすぎてちぎれてしまうと、ちぎれたところからは、消化の終わった内容物と液体がこぼれだす。魚を三枚におろすように、臓器を次々と下半身のない人間から引き出すと、蜘蛛はその中に自らの身を入れる。
肋骨の中は空洞。
心臓すらも引き出された生徒は、生きることすら出来ないはずなのに、ゆっくりと立ち上がる。
「バケ……も……ノ」
化け物の放つ奇妙な声は、やはり生徒の断末魔だ。
生命の息吹が生徒を見離す、その今わの際に出した声が、まるでダイイングメッセージのように、生徒の口から吐き出されている。
「モノ……も……バケ」
体育館の天井を見上げると、何十人という生徒が、まるでみの虫のような衣に覆われて、ぶら下がっていた。
佐藤をさらった化け物も、糸を吐き出していたことから、どうやら生徒たちを保存しておくための貯蔵場所のようだ。
すぐに一匹の蜘蛛がやってきて、衣の中に入っていき、直後、衣の中が激しく動き出す。次に出てきたときには、見たこともない化け物になって出てくる。
蜘蛛にとって化け物へと進化する形態は、特に定まっているというわけではないようだった。
ただ単に、どこから侵入したか。
どこから足を出すか。
侵入する人間がそのときどんな形をしていたか。
それだけの要因で、化け物のバリエーションが決定される単純さ。
現に、体育館の中にいる大量の化け物には、これ、という決まったパターンがない。全てが全て、微妙に異なっている。腹から足を出したり、背中から出したり、横腹から出したり、腹と背の両方から出したり、思い思いの形態をとっている。
「私のことを親だと思っているみたいなんだ。他の人間には容赦なく襲い掛かるのに、私にだけは決して襲い掛からないの。水野さんが襲われたときのことを覚えてるよね。あの時、私のほうが水野さんよりも前にいたのに、襲われなかったのはそのおかげなんだよ」
天井から吊り下げられた衣のひとつから、佐藤が顔を出す。
「さ、佐藤……!」
俺の声が届いたのか、佐藤は激しく腕を振り回し、周囲を覆っていた衣をはがしにかかる。だが、天井に張り付いている衣を破れば、支えているものがなくなり、体育館の床へと落下してしまう。
「佐藤!」
俺の叫びと同時に、佐藤は床へと落下した。
体育館中に響く轟音。
佐藤の両足は、考えられない方向に折れ曲がってしまった。糸を失った操り人形のように。
「今、助ける!」
俺は腹部の痛みを省みずに走り出そうとする。
「駄目だよ、正臣。殺されちゃうよ?」
香奈が俺を背後から優しく抱きしめる。俺の背中に顔をうずめて、胸元に腕を回してくる。
「俺は……俺は!」
守りたい。
助けたい。
思いやりたい。
「駄目だって言ってるのに……」
胸元にあてがわれていた香奈の手が、俺の傷付いた腹部へと下りてくる。香奈が背後で微笑んでいるような気がした。
「私の言うことを聞いてくれないなら……」
香奈が応急処置の跡に気がつき、乱暴にそれを引き剥がす。俺はあまりの痛みにその場に膝をついてしまう。
香奈は膝をついた俺をやはり後ろから抱きしめ、俺の頭を愛撫する。
「痛いのは嫌だよね、正臣」
俺の肩に、小さな顔を乗せて妖艶に微笑む。
表面上は穏やかだが、右手で俺の頭を愛撫しながらも、左手は出血の止まない腹部をわしづかみにしてくる。
血をもてあそぶように左手を動かし、次の瞬間には、傷口に指を差し込んできた。
例えようのない激痛が走る。
俺は香奈の手を引き剥がそうとするが、大量出血は、すでに俺から多くのものを奪っていったようだった。
抵抗する力は微々たる物で、香奈の手すら引き剥がせない。
「痛いよね、苦しいよね、正臣。痛いって顔してるよ……」
あろうことか、香奈は俺の傷口に差し込んだ指を、さらに奥へと強引に差し込んでくる。
「でも、いいな……正臣のこういう顔も好き。大好き。私の与えた痛みで苦しんでくれているんだよね……」
恍惚とした表情を浮かべながら、人差し指で俺の腹部をかき回す。指の間からは俺の血が漏れだしている。
吐き気が俺を襲う。
内臓が口からこぼれだすのではないかという、強烈な吐き気。
「正臣の中、あったかいよ。正臣……」
傷口を広げるかのように、俺の中へどんどんと指を差し込もうとする。死の気配が、体を極寒へと導く。
死神の鎌が、俺の首元にあてがわれているような錯覚。
その錯覚が、もし錯覚でないとすれば、死神は間違いなく俺の背後で嗜虐的に微笑む香奈であろう。
俺は最後の一線を振り切って、左ひじを香奈へと振りぬいた。