第三十七話・「割り切っていいんだよ」
窓枠に手をつきながら、激痛を発する腹部を抱えて、俺は体育館を目指す。
……俺は思い出す。
三階の生徒会室前を通れば、雫と口論したこと、偽善だとののしられたこと、夏美とキスをしてしまったことを。
階段を下りて踊り場に差し掛かる。
……俺は思い出す。
加藤さんが蜘蛛に取り込まれていたこと。加藤さんを救えなかったせいで、夏美までも失うことになってしまったこと。
今日一日で起きてしまった出来事だとは思えない。
学校で起きたことだとは思えない。
現実だとは思えない。
目が覚めれば、俺はきっと部屋にいるはずだ。
嫌な夢を見た、と言って体を起こすと、寝汗をびっしょりかいているはずだ。
遅刻しそうになって、慌てて飛び起きて、制服を着て、バッグを携えて、お気に入りの靴を履いて、部屋を飛び出す。
学校に到着し、教室に入れば、クラスメイトが元気よく笑顔を向けてくれる。俺の机の隣では、夏美が加藤さんに勉強を教えていて、なぜか香奈が俺の椅子に我が物顔で座っている。
俺はそんな香奈をどかせて、親友が遅刻してくるのを、首を長くして待つのだ。
だが、それは現実逃避でしかない。
全身を這い回る痛みや、腹部にまとわりつく血の臭いが、逃避から呼び戻すように俺の五感に訴えかけてくる。
「体育館へ……」
思えば全ては体育館から始まった気がする。
香奈と二人で仲良く遅刻し、集会があると思って体育館に行ったことが、そもそもの始まり。
和輝達、五人が飛び出してきて、そしてこの忌まわしい事件が始まった。
「なにが『スクール・オブ・ザ・デッド』だ……!」
売れない三流映画のような名前に、一番の皮肉が込められているような気がした。
体育館に続く渡り廊下を進むと、俺は夏美とすれ違った。
夏美が嬉しそうに俺におんぶされている。
後ろから蜘蛛がついてきているのが分かると、俺は慌てて夏美をおんぶしながら走り出し、後ろから和輝が押してくれた……。
俺は、和輝たちが出てきた舞台裏の袖から、暗闇が支配する体育館に入る。
放送機器がうずたかく積まれた袖を通り、真っ暗な舞台の上へ。袖口から見える舞台の上には、驚くほど何もなかった。
演説台の上には、集会時に用意される大きな花瓶が置いてあり、飾られた花が萎れて、演説台にしなだれかかっている。
分厚い幕が下りていて、舞台の上からでは体育館全体を把握することが出来ない。
まるで観客席が舞台の上で、鑑賞すべきものが体育館全体に広がっているような感覚。
……まだ舞台の幕は上がっていない。
そんな言葉が示唆されているように感じた。
「来てくれたんだね、正臣」
声がして俺は振り返る。動いた暗闇の中からは、俺が良く知る人物が姿を現した。
舞台の上のライトが点灯し、俺は目を細める。
「来てくれると思ってたんだ」
演説台を挟んで、俺と香奈は向かい合った。スポットライトを浴びる俺と香奈は、まるで舞台俳優のようだった。
「寂しかったんだよ。正臣がいなくなってから」
窓越しに見た泣き顔は、そこにはない。
いつも通りの、いつも通り過ぎる香奈の微笑が、そこにはあった。
「香奈、俺は……伝えたいことがあるんだ」
「何かな? 時間はまだ残っているから、少しぐらいなら聞いてあげられるよ」
香奈の言葉の端々に出現する理解の及ばないことを、俺は頭からはじき出した。
「香奈、割り切ることは間違ってる。俺たちは失ってしまったことを……忘れることなんて出来ないんだ。失ったものを失ったものとして、心の中に秘めて生きていかなければならないはずだ」
舞台に落ちる俺の血の音が、メトロノームのように時を刻む。
「挫折して、絶望して……苦しいけど、それでもあきらめずに後悔して、反省して……。失ったものに対して、必死に償うことが大事なんだ」
俺の語りかけなど聞こえていないかのように、香奈は俺に笑いかけたまま。子供を見守る母親のように、優しく微笑んだまま。
「その場限りで割り切ってしまうことは、確かに何よりも楽だ。苦しみからも解放される。……でも、それは自分の殻に閉じこもるのと同じなんだ。それでは人は何も変われないし、変わらない。ましてや、誰かを思いやることなんて出来ない」
微笑み続ける香奈の心に届いて欲しくて、心を、声を絞り出す。
「香奈、俺は……お前にそれが分かって欲しいんだ」
俺と香奈の間には、金の糸が舞う。
スポットライトに照らし出されたほこりが、花びらのようにゆらゆらと漂っていた。
「大切な……友人として」
幻想的な舞台。
観客のいない、二人だけの舞台演劇。
「おかしいよ、正臣。私たち、恋人だよ?」
「香奈……」
思いをまくし立てた俺に代わり、今度は香奈が口を開いた。
あいも変わらず、香奈からは笑みがこぼれる。
「私たちはこれからもずっと一緒。だって、正臣は割り切れたんだから。これがその証拠でしょ? だから、私のところに戻ってきたんでしょ?」
両腕を大きく開いて、俺を受け入れるように前に差し出す。
「香奈、俺はお前のことも……背負っていこうと思ってる」
苦渋の選択だと分かっている。
自分勝手な選択だと分かっている。
それでも、和輝に言われたとおり、俺は寂しさを晴らすためだけの存在として、香奈と付き合っていくことは出来ない。
それは、好きでいてくれる香奈に対しての、最大の侮辱だから。
俺は最大の力を持って、刀を振り下ろす。
「……以前の俺たちに戻ろう」
広げていた香奈の両腕が、ゆっくりと下ろされた。
……俺が振り下ろした刀は、容赦なく香奈を傷つけるだろう。悲しみにいざなうだろう。
でも、俺はその刀を振り下ろさなければならない。
その責任が俺にはあるから。
「俺は、間違っていたんだ。あんな気持ちで……香奈に寄り添っていいはずがない。きちんと、もう一度自分と見詰め合って、それからきっちり答えを出さないといけないと思う……」
俺が振り下ろした刀を弾き返すように、香奈の唇が動く。
「正臣は、私を過去にするの?」
声色が一瞬だけ、狂気に変貌しかける。
過去、香奈はその言葉に反応したように見えた。
「そうじゃない。もう一度、俺は自分を……」
スポットライトに照らし出されている香奈をよく見れば、目元には泣き腫らした跡がある。
血液不足がたたって、香奈が二重にも三重にも見えるせいで、気がつくのが遅れた。
考えるまでもない。
香奈はすでに泣いていた。屋上を去るときも、雫とキスをしたときも、そして今も。
傷口をえぐるような行為を、俺はしているのだ。
「……あの女が、正臣をこんな風にしてしまった。私が正臣の傍にいてあげられなかったのが原因だね。ずっと正臣の傍にいてあげられたなら、正臣はずっと私を好きなままだったのに。でも、大丈夫だよ。これからはずっと一緒だから。私、正臣から離れたりしないから。だから、あんな泥棒猫のことなんて忘れて――割り切っていいんだよ」
「雫のせいじゃない。これは俺自身が望んだことなんだ。雫は関係ない」
「雫……? 前は睦月さんって呼んでいたよね」
香奈の笑みが引きつる。
「水野さんといい、睦月さんといい…なんで私の大好きな正臣に手を出すのかな……。痛い目に遭わないと分からないのかな……。睦月さんは、正臣に気がないようだから、安心していたのに」
笑い疲れたように、頬が痙攣する。
「正臣、私ね」
香奈はそれでも、スポットライトの下で笑い続ける。
演技を強いられる女優の意地、プライド。
笑い続けることが、香奈のそれに合致しているように思える。
「正臣のこと愛しているよ。出会ったときからずっとだよ。近くにいるだけで、声を聞いただけで、胸の奥がぎゅって締め付けられて、どうしようもなくなるの。何をされたっていい、何をしてあげてもいい。そんな気持ちになるの」
スポットライトが俺たちに降り注ぐ光は、高熱を帯びている。
にじんでくる汗、極度の疲労と出血に、俺はめまいを隠せない。何度も足の位置を変えて、ふらつく体を維持し続ける。
「でも、正臣は格好いいから、優しいから、すぐに正臣を好きになる人が出てくる」
声の調子が次第におかしくなる香奈。
喜びと怒りが交錯する。
「……だから、正臣が割り切れるように、割り切りやすいように、正臣の周囲を軽くしていこうと思ったんだ」
大発見でもしたかのように、嬉しそうに。
「軽く、していく……?」
意図するところが分かりそうになり、俺は思考を停止させた。
「うん。水野さんの次は、睦月さん。そうすれば、正臣は憂いなく私を好きになれるでしょ?」
耳から入り、脳内をかき混ぜる。
記憶と思考がぶつかり合って、頭が痛みで泣き喚く。
「……何を言ってるんだ? 香奈……」
香奈がポケットに手を入れる。取り出したのは、手のひらに収まるぐらいのリモコン。
演劇部員が無断で使用して、教師に注意されていた記憶がよみがえる。それがあれば、遠隔操作で幕の上げ下げをすることが出来るはずだ。
「私の大好きな正臣の足かせになるものは、みんなこの子達が排除してくれるんだよ」
香奈がリモコンのボタンを押すと、幕がゆっくりと巻き取られ始めた。幕が上がる金属音が、舞台上に響いていく。
耳を切り裂くような不気味な音。
幕が上がることで発生する隙間風が、スポットライトの中で揺らめいていた黄金のほこりを吹き飛ばす。
――そして、幕が上がった。