第三十六話・「馬鹿みたいに」
まったくの不意打ちだった和輝は、受身すらとれずにコンクリートに転がった。
生徒会長の一撃が重かったわけではない。ただ、何の準備もできていなかっただけ。
「私が望んでいたのはこんな結果ではない!」
俺はコンクリートに横たわる和輝に寄っていく。頭の打ち所が悪かったのか、和輝はぴくりとも動かない。頭から流れ出している血が、俺の腹部から流れ出す血と同様に、コンクリートに染みこんでいく。
「……和輝?」
俺は腹部の痛みを忘れて、親友にすがりついた。
「和輝!」
和輝が呼びかけに答える気配はない。
「当然の罰だ! 最高の結果を目の前にして、みすみすそれを逃すような輩には!」
今にも眼球が飛び出しそうだ。
普段の鋭く、細い生徒会長の眼ではない。常軌を逸した者の目。
「……何? 何があったのよ!」
雫の声が、扉というフィルタを通して、屋上に流れていく。
「この私をこき下ろしたんだ。あの女への復讐なんだよ、これは」
引きつった笑みを浮かべて、月光を浴びる。
満月の夜に姿を変える狼男、いや、それ以上の狂気が、足元からあふれ出ている。
「それを途中でやめるなど、馬鹿だと思わないか? ええ?」
この男は、雫が悲しむ様子を特等席で堪能することによって、己の欲望と復讐心を満たそうというのか。
俺を殺すことによってのみそれが達せられると妄信している。
「もともと私はリアリストでね」
深手を負っている俺に、生徒会長を止める力はない。
「偽善者なんていうものは信じていないんだよ。淘汰されてしかるべき人間だからな」
屋上に転がる砂利を踏みしめる。狂戦士じみた風体で、迷わず俺に向かってくる。
「私は殴ったのも初めてなら、人を殺すのも初めてだ。正直、興味があった。こういう非常時でもないと、体験できそうにもないからな……」
だらしなく開いた口元。笑いながら、大きく息をする。
「正臣に指一本でも触れてみなさいよ! 正臣が許しても、私が許さない! 絶対に殺してやる!」
「黙れ! どうせこちら側には出て来れないんだ。そんなこけおどしには乗らないさ」
俺は和輝の鼻腔に耳を当てる。かすかに息をしている。
「正臣! 逃げなさいよ! 鍵持ってるんでしょ!」
ポケットに手を入れると、奥には金属の感触。しびれた指先で温度は感じ取れないが、形だけで判断するに、それは確かに鍵だ。
「残念ながら、逃げるつもりはないみたいだぞ? 感動するような友情に感謝だな!」
「……この! 馬鹿! 正臣!」
扉を叩く雫。
歯がゆさがこめられた渾身の一撃は、屋上の空気を振動させる。扉が発生させた大音量は、今まで以上に校舎を駆け抜けて、山彦となって聞こえてくる。
「馬鹿! アンタ馬鹿よ! どうしようもない馬鹿! 偽善馬鹿!」
馬鹿、の度に扉を叩く。
扉を叩く雫の手が心配になってしまう。
「馬鹿正臣! アンタ大馬鹿よ! なんでアンタのために私がこんなに必死になんなきゃいけないのよ! アンタせいよ! 馬鹿!」
自分が傷つくのにもかまわず、一心不乱に扉を叩き続ける。
「あんたが私に馬鹿みたいに優しくするから!」
生の感情が、扉の隙間からあふれ出す。
「馬鹿みたいに考えなしだから!」
捕食者の笑みをたたえた生徒会長。
俺は膝をついたまま、和輝を背後に隠す。そんな俺を見下し、捕食者は鼻で笑う。
「馬鹿みたいに偽善者だから!」
雫の声を聞いて快感を得ているのだろう。生徒会長は鳥肌を立たせ、自分を抱きしめる。
「自分を省みないで馬鹿みたいに微笑むから!」
この叫びを慟哭に変換することで、気分は最高潮に達する。
生徒会長にすれば、今はクライマックスに向けての最後の一山ということだろう。
「馬鹿みたいに信じて疑わないから!」
雫の声が、俺の背中を押してくれるような気がした。
和輝を守り抜くだけの力をくれるような気がした。
「――私だって、馬鹿みたいにアンタを好きになるしかないじゃない!」
「認めたな! 睦月雫!」
扉の向こうの雫を嘲笑する。
「冷血人間が愛の告白をした貴重な瞬間だぞ!」
「……いい加減にしろよ」
背後から人影が飛び出す。
俺の肩に手を置いて立ち上がると、逆巻く怒りを弾丸に変えて、生徒会長を撃ち抜いた。俺の血を飲んだコンクリートの上で、歯を押さえて転げまわる生徒会長。両手の隙間から赤い液体が溢れ出す。
「香奈を頼む……正臣」
殴りつけた右手をだらりとさせたまま、背中でつぶやく和輝。
「屋上はもう安全じゃない」
歯を押さえたままの生徒会長を牽制しつつ、和輝が俺を振り向く。
頭から流れ落ちる血が、こめかみを通り、あごにまで達していた。
和輝はそれを袖口で乱暴に拭うと、俺のポケットに手を突っ込む。
「香奈と二人で、話さなければいけないことがあるはずだろ」
俺のポケットから取り出した鍵で屋上のドアを開けると、俺を扉の向こうに押し込めようとする。
「待てよ、和輝!」
閉めようとする扉を押し返して、俺は和輝の袖をつかむ。
和輝と扉で、わずかしか屋上の風景は見えなくなっているが、無数の赤い光が金網をよじ登ってくるのが見えた。扉を叩く音に引き寄せられたのだろうか。
「お前も一緒に!」
「……正臣、一度は言ってみたかった言葉があるんだ」
頬を流れていく血の筋を感じさせない、いつもの笑顔で俺に語りかけてくる和輝。
学校の休み時間に、何気なく交わされた会話の数々。
それを想起させる空気を、和輝は作り出した。
「先に行っててくれ、必ず追いつくから」
そう言って追いつくことの出来なかったドラマや映画を、俺は何度も目にしてきた。
ましてや、現実には追いつけないことはたくさんある。ありすぎて、気が狂いそうなくらいだ。
和輝は俺の逡巡を知ってか、扉を強引に閉めると、素早く鍵をかける。
鍵のかかる音が、脳内を跳ね返った。
永久の別れ、その音に聞こえて仕方がなかった。
「睦月さんが言ったことさ。理解できるんだ。すごく共感できるんだよ。お前を好きになる気持ちが分かるんだ。親友として、一人の人間としてのお前が、俺は好きだから……それが余計に分かった」
扉の向こうで俺が立ち尽くしているのを知っているのか、言い残すように和輝が囁きかける。
「水野さんも、睦月さんも、香奈も、俺も、みんなお前が好きなんだ。お前の、偽善的なところとか、誰にでも優しくしようとするところとか」
真っ暗闇の校舎の中から、屋上の和輝を思う。
「時々は失敗するけど、それもまた愛嬌。不器用ながら頑張るお前の姿に、みんな惚れたんだよ」
扉を閉める直前、転落防止の金網をよじ登る化け物は、十を超えていた。
化け物の中には、見たことのないタイプも含まれていて、特に目立った奇形のそれは、生徒二人を背中合わせにくっつけたような形をしていた。
「さっきは不器用すぎて、殺したくなったけど……。でも、やっぱり正臣なんだよ。納得できない。でも、お前だから納得できる。みんなに優しくしようとした気遣いの結果なんだろうな、きっと」
和輝が饒舌になる必要はない。
後で、ゆっくりと話せばいい。
すぐに追い付くはずだから。
「今の台詞、もう二度と言わないからな。英単語みたいに、復唱して覚えてくれ」
和輝が扉の前を離れる足音がした。
「和輝!」
「お前、そういえば暗記苦手だったな。大丈夫かな……?」
歩きながら俺に声をかけ続ける。
徐々に俺と和輝の距離が離れていくので、和輝の声が聞き取りにくくなる。
「……さすがに忘れられると困るな……」
テストが返却されたときに、俺の点数を尋ねてくるような雰囲気の和輝。
「……ま、それも正臣らしいよな……」
昼休み、売店に並びながら話すような雰囲気の和輝。
「和輝!」
和輝の声が聞こえなくなる代わりに、化け物の醜悪な声だけが、扉の向こうに響く。