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第三十五話・「おねがい……」

 乱暴に叩かれる屋上への扉は、大きな音をたてることはあっても、壊れることは決してない。 実験室備え付けのテーブルを持ち上げたあの化け物ならば、壊すことも可能だったろう。


「なんで鍵を閉める必要があるのよ!」


 いくら雫が一般人とは比べ物にならない運動神経の持ち主だとしても、雫が人間である限り、この扉を破壊することは不可能だ。


「アンタ、自分の怪我のこと分かってるんでしょうね! このままだとアンタは……アンタは!」


 扉を叩く音が一段と大きくなる。


「死ぬかもしれないのよ!」


 叩いている雫にも、相当の痛みはあるはずだ。

 それでも、雫は扉を叩き続ける。


「鍵を開けなさい! 正臣!」

「鍵は私が閉めさせてもらったよ」


 生徒会長の馬鹿にしたような頬の歪み。

 扉という絶対的な障壁で守られているせいか、雫への恐れはない。


「アンタ、こんなことをしてタダで済むと思ってるんじゃないでしょうね……!」

「お前こそ、このままでいいのか? 怪我をしているんだろう? 愛しの恋人が」


 腹を押さえて、かろうじて笑いを抑えている生徒会長。


「な……恋人なんかじゃないわよ! 勘違いしないで!」


 扉が叩かれる音が止まる。


「そうなのか?」


 どうやらその問いかけは、雫ではなく俺に向かってのようだった。

 残念ながら、俺には問いかけに答えられほどの余裕はない。

 再び襲った和輝の頭突きが、俺の額を割り、そこから流れ出した血が、俺の視界を更なる赤に染める。


「血だらけというのは、見るに耐えないな。私の問いに答える気力もないらしい」

「いい加減にしなさいよ……!」

「永沢もなかなかの格闘センスだ。一方的に終わるな、この戦いは」

「止めさせなさいよ!」


 雫のプライドがそうさせるのか、決して生徒会長に懇願するような態度はとらない。


「止めさせてどうする。これは、ただの他人のいさかいだ。参加するにしても、止めるにしても割に合わないと思わないか? 睦月、お前はそういうことには無関心な人間だと思っていたが……。さすがに恋人が傷つくのは忍びないか」

「だから、恋人じゃないって言ってるじゃない!」


 扉を切り裂かんばかりの、雫の叫び声。


「ならば、他人事と決め付けて、切り捨てればいいだろう。確か、お前は反対したはずだな。あの男が体育館に他の生徒を助けに行こうとしたとき、偽善者などと罵って張り倒しただろう」


 雫の反論が聞こえない。生徒会長の事実確認に、論破の糸口をつかめないからだろうか。


「私も同感だよ。そのときと同じようにすればいい。救いようのない人間は、言葉通り、救うに値しない。お前の判断は間違っていない。今回のケースも切り捨てるべきだ。だが、それが出来ないとなると――」


 俺は顔面に繰り出される和輝の拳を、ぎりぎりで回避する。

 傾いた体を支える力も失われようとしていた。


「あの男は、お前にとってそれを覆す特別な人間だ、ということになるな」


 眼鏡のふちが、月夜に輝く。


「惚れたのだろう? 睦月雫」


 それ以上に不気味に輝く、生徒会長の瞳。獲物を見つけた捕食者の目。

 俺の視界が生徒会長を確認できるのは一瞬だ。

 和輝から繰り出される怒りの矛と、自らが抱える致命傷。

 その二つと渡り合わなければならないのに、生徒会長の動向も気になってしまう。


「やっぱり、本当だったんだな……正臣!」


 俺の名前に込められているのは、他でもない怨嗟。


「お前は最低だ」


 和輝の中段への蹴りが、俺の腹部を直撃した。内蔵が爆発するかのようだ。かろうじて避けてきた腹部への攻撃。

 勝敗を決定付けるには十分な威力。


「あ……が……」


 屋上のコンクリートに転がる俺を見下す和輝。害虫を見るような目だ。


「腹部にいい蹴りをもらったようだな。立つことも出来ないようだ」


 生徒会長が俺と和輝の攻防を実況する。

 扉の向こうで、こちらの状況を把握できないでいる雫に対して、詳しく言い聞かせている。


「見ているこちらにも痛みが伝わってくるかのようだ。容赦のない一方的な攻撃は、ただのなぶり殺しだな」


 コンクリートに転がった俺の腹部をさらに蹴り上げようとする和輝。

 腹部へのこれ以上の打撃は、なんとしても避けたかった。これ以上ダメージを受ければ、香奈を助けることはおろか、動くことさえ出来なくなってしまう。

 俺は腹部を両腕でかばう。和輝の靴が、折りたたんだ俺の腕にめり込んだ。

 体中を蹴りの衝撃が襲う。


「まだ、攻撃を加えるのか。さすがにこれ以上は耐えられないだろうな」


 生徒会長の声がかすかに耳に届く。


「アイツを助けなさいよ! 私に殺されたくなかったら! アイツを!」

「はは、ははははは! みっともないな? 睦月雫とあろうものが!」

「あいつを見捨てたら、アンタは私が一生かかっても殺してやる! これ以上ないってくらい、惨たらしく殺してやる!」

「それは恐ろしいな。怖くて手足が震えるよ!」


 眼鏡がずれるのもかまわずに、大声を上げて笑い出す。


「アイツには! 正臣には、借りがたくさんあるんだから! ここで死なせるわけにはいかないのよ!」


 扉を叩く音が再び聞こえ始める。

 コンクリートに横たわる俺の耳にもそれは聞こえた。連続で身に受ける和輝の攻撃に、意識が失いそうになる中、その音は、俺を呼び覚ますかのようだった。


「よくもあんな体で立ち上がろうとする。シャツが血で真っ赤だ」


 生暖かい空気が屋上を停滞している。肌を舐められているような感覚がした。

 気持ちが悪い。


「正臣……正臣! もう止めなさいよ! なんでそんなにしてまで誰かを助けようとするのよ! 意味ないじゃない……自分が死んだら意味がないじゃない!」


 和輝が忌々しそうに拳を握り締めた。


「真っ青な顔は、まさに月夜の下では幽霊だな」


 俺を化け物とでも思っているのだろうか。近寄ったら、その分だけ離れていきそうな、そんな嫌悪感を漂わせている生徒会長。


「……がい……」

「なんだ? 何か言ったか、睦月?」


 和輝の拳が、やっとの思いで立ち上がった俺に振り下ろされる。脳天に叩きつけられたそれを受けて、俺はまた地面に這い蹲ることになった。

 コンクリートの味は、不味いものだった。


「……すけて……」


 口の中に入ってしまった砂を吐き出すと、砂は真っ赤に染まっていた。

 赤い唾液が糸を引く。

 口内に溜まった唾液の半分は、血で出来ているようだった。


「睦月、聞こえないな?」


 奥歯がぐらぐらするのに加え、喉の奥には、痰のように絡むものがある。鉄の味がすることから考えるに、血であることは間違いないだろう。


「お……がい」


 俺はうがいでもするかのように、喉に力を入れて吐き出した。化け物の体液に似たものが吐き出されて、俺は気が動転しそうになる。

 自分が化け物にでもなってしまったかのような幻視。


「おね……がい」


 俺の血液が、白色のコンクリートをどす黒く汚す。


「正臣を助けて……おねがい……!」


 回転不足の俺の頭は、立つことすら忘れかけている。

 俺は立ち上がり方のマニュアルを開いた。


「アイツを……失いたくないのよ……」


 上体を起こして、方膝を立てる。左手で体重を支え、行き過ぎそうになる上半身を、今度は右手で支える。


「正臣……なんで立ち上がるんだ。なんで立ち上がれるんだ!」


 ここからが正念場だ。

 幽体離脱しそうになる意識を、何とか体に定着させたまま、全身に力を入れなければならない。


「……何だってする。だから、正臣を助けて……」

「何でもするんだな?」


 満潮と干潮を繰り返す腹部の痛みに耐えながら、慎重に立ち上がる。両足に力を入れるのを忘れてはならない。せっかく立ち上がっても、また転んでしまっては意味がないから。


「なら、ずっとそこで恋人が死んでいくのを見ていればいい。私を馬鹿にした罰としてな。それからなら、この扉を開けてやってもいい」


 扉に口付けでもするかのように、唇を寄せる生徒会長。

 まるで扉の向こうにいる恋人に睦言を伝えるかのようだ。


「……嫌よ、絶対に嫌……! 正臣を監視するって決めたんだから……アンタがいないと、張り合いがないんだから……。アンタのために泣いてあげてる私に、笑顔のひとつでも見せてみなさいよ! 涙を拭ってみせなさいよ! 偽善者でしょ、アンタは!」


 ヒステリックになっている雫の声が、俺を叱咤しているようで笑ってしまう。

 雫らしくない。

 いつでも慌てずに、人を馬鹿にするような態度をとって、不適に笑っているのが似合っている。

 睦月雫はそんな人だ。


「……許さないから……私を泣かせたまま死ぬなんて、私は絶対に許さない。正臣……聞こえてるんでしょ! 正臣! 答えなさいよ!」

「ははは、ははははははは! 哀れだな! 滑稽だな!」


 悪趣味な喜劇鑑賞。

 生徒会長という責任ある役職を脱ぎ捨てて、笑い尽くそう、楽しみ尽くそうとしている。


「なんで笑っていられるんだ? 正臣、お前は怪我しているんだろ? 苦しくて、今すぐにでも逃げ出したいんだろ? 何で命乞いもせずに、そうやって立ち上がろうとするんだよ!」


 ……俺は笑っているのだろうか。

 俺自身にもそんなことは分らない。

 でも、俺がもし笑っているとしたら、それはきっと笑いたいからなのだろう。


「偽善だけを振りかざしてきたお前が……誰も救えなかったお前が……香奈を傷つけたお前が、何で……どうして、笑っていられるんだよ! 正臣!」


 助走をつけた和輝の前蹴り。


「終わったな」


 俺の弱点を容赦なく攻めてくる。

 腹部はがら空きだ。


「正臣!」



 ――雫の悲鳴が聞こえた。



 立ち上がることで精一杯の俺には、それを防ぐ手立てはない。

 鋭い槍で一突きにされる。十字架にくくりつけられた罪人に、無慈悲までの一撃が加えられた。

 罪人は俺だ。だから、きっとその例えは間違っていない。


「……正臣、お前……」


 屋上の空気が、少しだけ揺れた気がした。


「……和輝、俺は……」


 和輝の足が、俺の腹部を直撃したままで止まっている。血が飛び散って、和輝の足にも付着していた。


「俺はさ……和輝」


 肋骨は内臓を守る役目があるというが、折れてしまっている今では、内臓を傷つける刃物としての機能しか持っていない。三本ぐらいはすでに折れてしまっているだろうか。


「馬鹿だから……どうしようもない偽善者だから……誰かが間違っているのを、間違ったままにしておけないんだ。放ったままにしておけないんだ……」


 俺の腹部にめり込んだままの和輝の足に、手を優しく置く。


「和輝の苦しみは分かってるよ……本当に分かってる……。和輝の言う通りだ。俺は間違ってしまった。取り返しのつかないことをしてしまった……。それは、死んで償うことも出来るかもしれない。でも俺は……生きて償いたいんだ。だから、何度でも立ち上がるよ」


 赤に染まる俺の視界。


「和輝……お前にも償いたいから」


 和輝の鬼のような形相が変調をきたす。


「謝りたいから……」


 和輝に微笑みかけた。


「……ごめんな」


 足を戻した和輝が、頭をかきむしる。意味不明なもの、理解不能なものに身悶えるように。


「正臣、優しくするなよ……! 俺はお前を殺そうとしてるんだぞ! 憎くて憎くて仕方がないんだ!」


 両手を広げ、目を血走らせながら、激しく抗議する。

 広げた手には、傷つけた頭皮から漏れ出した血がついていた。


「和輝……ごめんな」


 和輝に近づいていく。


「ごめん。俺にはこういうことしか出来ないから……他に何も出来ないから……ごめんな、和輝……ごめん」


 微笑んでいいときではないはずなのに、俺の顔からは微笑がこぼれだしてしまう。


「恨めよ、殴れよ! お前だって殴られて、痛い思いをして、俺が憎いはずだろ! 許すなよ! やり返せよ!」


 屋上の生ぬるい、腐敗したような空気が、少しずつ動き始める。


「俺は許すよ。だってさ――」


 一陣の爽やかな夜風が、二人を取り巻く空気を払拭していった。




「――俺たち、親友だろ?」




 和輝の動きが止まる。


「……また、お前と笑いたいんだ。お前でなければ駄目なんだ。俺には……親友はお前しかいないから」


 誰かの身代わりになんてなれない。

 和輝が言ったように、香奈には俺しかいないのかもしれない。

 けれど、それは俺も同じだ。

 和輝の身代わりは、和輝しかないから。

 和輝だけが、和輝でいられるから。


「朝、登校して、お前は当たり前のように遅刻して……俺と香奈で馬鹿にして……夏美が、それを見て笑って……加藤さんが、そんなお前をなぜかかばって……」


 和輝が俺の目を見つめてくる。怒りと悲しみの間で揺れ動く瞳。


「あのときの俺たちのままでいたいんだ。あのときの俺たちを取り戻したいんだ」


 和輝の瞳が濡れる。


「正臣……」


 俺は和輝の肩に手を置いて、笑いかける。


「香奈を連れてくるよ。あいつも、あの頃を取り戻したいはずだから……」


「……正臣……」


 殴るでもなく、叩くでもなく、ただそっと和輝の肩に触れるだけ。たったそれだけのことなのに、何十年ぶりの再会のような感動がこみ上げる。


「ついでにさ……友人として言ってあげなければいけないことがあるから。伝えなくちゃいけないことがあるから……」

「正臣、お前は……」


 怒りで充満していた和輝の体から、力が抜けていく。俺を傷つけるためだけに使われていた力が、抜けていく。

 抜けていく力は、こわばった頬を溶かし、その上から涙が伝っていく。


「なんでそんなに……優しくなれるんだよ……」


 親友の涙。初めて見る和輝の涙。


「偽善者って、そういうものじゃないかな」

「正臣……俺は」


 救われたように笑いかけようとした和輝は、次の瞬間、生徒会長によって殴り飛ばされていた。



「私はこんな結末は認めない!」



 血走った目は、次に俺を捕らえた。


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