第三十四話・「俺はお前が憎い」
「俺は……お前が、香奈の制止を振り切って、ここから出て行ったときに、きっと香奈の元に戻ってくるもんだと思っていた……」
和輝が俺に近づいてくる。二人の距離が縮まれば縮まるほど、怒りが肌を焼くほど伝わってくる。
「なんでだよ。つらいときにだけ利用して、立ち直ったら、捨てるのか? 必要なくなったら、すぐに乗り換えるのかよ」
「和輝、それは違う」
腹部の痛みに耐えながら、首を横に振る。
「どこが違うんだ。一度は約束したんだろ……! ずっと好きでいるって、ずっと一緒にいるって約束したんだろう! お前がいなくなった後の香奈がどんなだったか、気にしたことあるのかよ。どれだけ苦しんでいたか……考えたことあるのかよ!」
和輝の目には、大粒の涙が溜まっていた。
「自分の好きな女が……他の誰かを愛しながら、胸の中で泣いているのを抱きしめる俺の……俺の気持ちを考えたことあるのかよ!」
月の半分が雲に隠され、数秒だけだが下弦の月となる。それはまるで俺たちを嘲笑うかのようだった。
「俺の胸の中で泣いているんだ。他の誰でもない、お前を思って泣いているんだ! 俺がどんなに抱きしめても、慰めても、香奈は俺を見ることなんてなかった! 傍にいる俺ではなく、遠くに行ったお前のことを思っていたんだ!」
目を見開いて、涙をはじけさせる。小さな光の粒は、まるで流れ星のように、コンクリートに吸い込まれていった。
「ずっと、ずっと呼んでいたんだぞ! 正臣、正臣、って。香奈はお前をずっと待ってたんだ!」
生徒会長が、俺たち二人の言い争いにあきれ果てて、肩をすくめていた。我関せずの態度は、火に油を注いだ先ほどの行動に比べれば、幾分共感できる。
和輝が、拳を握り締めながら声を絞り出す。
懐かしい思い出をひねり潰すかのように。
「香奈はお前をずっと見てきた。そんな香奈を、俺は好きになった……。お前に愛されようとしている香奈を、俺はずっと見てきたんだ! その気持ちがお前に分かるか? 他の女にうつつを抜かしていたお前に! 俺たちの気持ちなんか分かるか!」
俺の脳味噌を揺さぶってくる和輝の咆哮。
「正臣……俺はお前が憎い」
俺に何が言えただろう。
悲しみが夜空の元で展開されて、俺を取り囲んでいく。
皮膚という皮膚を包んでいく悲哀。
誰よりも理解しあえた和輝だから、悲しみは体の奥まで、心の中心まで、迷うことなく突き進んでくる。ろ過も、消化もされないで、全てのフィルターを無視して、ダイレクトに俺の心を掴み取ってくる。
「だから、香奈の元には行かせない」
一度全身の力を抜き、再確認するように、再び力を全身にみなぎらせる。消えたと思った黒い煙は、殺意のような憎悪となって和輝の穴という穴から放出される。
「あいつはお前を探しに行ったんだ。自分の身をかえりみないで、お前を探しに行ったんだ。そんなあいつを、俺が止められると思うか? もう、香奈の愛を止めることは、俺には出来ない。けどな……」
分からないことなどない。
和輝の言っていることが全て理解できる。
これほどまでに理解し合える和輝という人間が、この世にいてくれることを、俺は神様に感謝しなければならない。だからこそ、理解し合えるからこそ訪れてしまったこの悲しみ。
俺は神様を恨まなければいけない。
……いや、それはお門違いだ。俺は他の誰でもない、俺自身を恨まなければいけない。不器用に、自分の思った道しか進むことの出来ない、俺自身を。
「香奈がこれ以上悲しむのを、止めることは出来る」
研ぎ澄まされる和輝の眼光。
「香奈には会わせない。追いかけさせるわけにはいかない」
俺は、和輝に膝をついてみせる。
「和輝……頼む。行かせてくれ」
額と両手をコンクリートにこすり付けて、俺は和輝に懇願する。
「……何を聞いていたんだ? 何を言ってんだよ! お前は!」
土下座をする俺に向けて、和輝は困惑する。
「和輝、そうじゃない! 俺は、たとえ香奈が悲しむと分かっていても、香奈のところに行かなきゃいけないんだ。香奈は間違ってる。香奈の考え方は間違ってるから」
土下座は、思ったよりも腹部に無理を強いたようだった。包帯の隙間から、いつの間にか血が漏れ出してきて、俺は目の前が真っ白になりかける。
「間違ってるのはお前だ! 正臣!」
遠く、遥か遠くから、和輝が俺に叫んでいるような気がする。
「誰かを傷つけてまで、間違いを修正させることが、お前の正しさなのか!」
土下座をすることで、苦痛に歪む顔を隠せることが救いだった。
「違う! 傷つくのを恐れて何もしなかったら! 間違ったまま、生きていくことになる! だから……!」
息を吸い込むのが苦しい。大声を出すのは、もっと苦しい。
それでも、辛いからといって、意思と意思の削りあいから身を引くわけにはいかない。
声を荒げて、正面から俺に向かってくる和輝から逃げるわけにはいかない。
「あいつは泣いているんだ! お前を愛しているんだ! ……傷ついても、痛くて涙を流しても、突き放されても! お前を愛しているんだ! 愛し続けているんだ! これ以上、香奈を悲しませるわけにはいけない! 分かるだろ? それぐらい、お前にも分かるだろ!」
俺は膝をついたまま、和輝の足をつかむ。
「なら、和輝……なんで香奈を行かせたりした!」
和輝の足をつかみ、上着をつかみ、俺は何とか立ち上がる。眼前には和輝の顔。和輝をつかんでいるという感覚が、薄れ始めている。海で言うところの潮がひいていくように、俺の血潮も、力もひいていきそうになる。
「香奈を好きなら、なんでお前は香奈を行かせたんだ!」
和輝の強張った顔に、俺のつばが飛ぶ。
「本当に好きなら! たとえ相手の気持ちが自分を向いていなくても、守るべきだろ!」
和輝の形相が、俺の勢いを押し返す。額と額をぶつけ合うように、眼光が交錯した。
「奇麗事を並べるな!」
和輝が叫べば。
「奇麗事だってかまわない!」
俺も必死に叫び返す。
「偽善者が!」
和輝が罵れば。
「偽善者だってかまわない! 俺は、正しいと思えることをしたいんだ!」
俺は自分の偽善を貫く。
「それが香奈を傷つけてるんだよ!」
言葉と同時。
和輝の拳が星空の元に炸裂する。俺は、霞む視界でそれを確認できなかった。頬骨を砕くような衝撃が、霞む視界を左右に揺さぶる。
感覚の麻痺しつつある俺は、その痛みを百パーセント感じることが出来ない。
倒れこむことのみが理解できるだけで、痛みはそれほど襲ってこなかった。
「香奈はお前が好きなんだ! お前を欲しがってるんだ!」
立ち上がろうとする俺に更なる追撃。胸倉をつかんで強引に俺を立ち上がらせると、反対側の頬骨に、先ほどと同じか、それ以上の衝撃が駆け抜ける。
「俺ではなく! お前を!」
和輝に胸倉をつかまれているから、倒れることも出来ない。
「お前の代わりは、お前しかいないんだ!」
頬を往復するように、最初に殴られた頬に再び打撃が加えられた。
殴られた拍子に、生徒会長が目に入る。
生徒会長は俺たち二人の喧嘩ではなく、図書室前の廊下に視線を向けていた。そして、何かに気がつくと、俺が入ってきた屋上の扉に向かって慌てて駆けていく。
「誰かに優しくすることだけが――」
俺は胸倉をつかむ和輝の手首を握り締める。感覚はわずかだ。だが、持てる力全てで手首を握り締めた。和輝の繰り出す拳の動きが止まる。
「優しさじゃない!」
思いを乗せた俺の右ひじが、和輝のこめかみを打ち抜く。伸ばされた腹部の筋肉が、叫び声をあげた気がした。傷口が完全に開いて、温かいものが腹から飛び出すような錯覚。
俺は和輝にそれ以上何も言えず、膝をついてしまう。
視界に入った生徒会長は、どうやら屋上への扉を施錠しているようだった。
慌てて施錠するその姿には、嗜虐的な笑み。ある意味、怒りにとらわれた和輝よりも恐ろしく思える。
「お前が、香奈に優しくしたことがあったか?」
「香奈の気持ちに……俺は気がついていなかった。お前との毎日のほうが大事に思えたから……」
和輝は片方の口の端を引きつらせる。
「はは、今更そんなこと言うなよ、正臣」
月夜に笑う。俺が立ち上がるのを待っていたように、和輝の額が俺の額を砕く。和輝の額が赤く染まった。
「偽善的なお前の優しさに、確かに俺と香奈は惹かれた。でもな、今は、その優しさが苦しいだけなんだ!」
「今更じゃない……。今でも、どんな状況になっても、俺は誰かに優しくしていたいんだ」
俺の視界が真っ赤に染まった。血が目に入り込んできたからだろうか。
「分かれよ! 香奈を傷つけてるお前のどこに、優しさがあるっていうんだ!」
屋上の扉から轟音が聞こえた。化け物が進入してこようとしているのだろうか。
俺と和輝は一瞬そちらに気を取られるが、生徒会長が今にも笑い出しそうにしているのを見て、それが化け物でないことに気がつく。
「正臣! いるんでしょ? 開けなさいよ!」
雫が扉を叩きながら、俺を呼んでいた。