第三十三話・「残念だったな」
屋上への道は決して平坦だったわけではない。
二棟の屋上と一棟の屋上は、渡り廊下でつながっている。廊下といっても、屋内と屋外とではつくりは違う。階下の渡り廊下の屋根を利用して、屋上の渡り廊下は作られているので、屋上の地面はコンクリートだ。
図書室の入り口から伸びる廊下を、壁に手をつきつつも進み続ける。廊下の先が右に左に揺れる錯覚を、俺は頭を振って取り払った。今度は頭から血が引いていきそうになり、すがりつくように廊下の壁に寄りかかる。
そうしてたどり着いた階段を、俺は赤ん坊のように一歩一歩を手と足で確認しながら、上っていくしかなかった。化け物から逃げるときに、一段飛ばしで上ってきた出来事が嘘のような、遅々とした速度。
口からは自嘲が、腹部からは血が漏れる。
運良く雫から託されたマスターキーを、真っ赤な手のひらに握り締め、俺は屋上の扉の前に立った。
なるべく怪我をしているのを悟られたくはない。直立不動の姿勢を保てるように練習し、痛みに慣れておく。シャツに染み込んでしまった血はどうしようもないが、化け物の返り血とでもいうように、平然と立っていれば、何とか誤魔化せるのはなかろうか。
最後に、額に浮かぶ脂汗を拭い、顔の筋肉をほぐして、気合を入れた。
鍵穴に差し込んでドアノブを回したとたん、扉に体重をかけすぎていた俺は、屋上に転がり出てしまった。すぐに平静を装って立ちあがる。
腹部が燃え上がるように痛んだ。
「どうやって屋上に入ってきた? ここの鍵は私が持っているんだぞ」
二棟から一棟へと続く、屋上の渡り廊下を歩いている俺を見つけた生徒会長は、腕組をしながら細い目でにらみつけてきた。
俺は手に持っていた鍵を生徒会長に見せる。
「マスターキーか。なるほどな。とすると、コースから考えて理科室の爆発は、お前の仕業か」
「俺と雫は、化け物と戦っていたんだ」
ピントの合わないカメラのように、生徒会長の輪郭が淡くなっていく。
「では他の人間はどうした。死んだのか?」
同情の欠片も見せない生徒会長の淡々とした質問は、さながら男版睦月雫だった。ただ、雫ほど感情表現が大袈裟ではない分、冷徹さは生徒会長のほうが一枚上手だった。
「みんな生きてる。誰も死んでなんかいない。雫も、佐藤も」
先輩も後輩も、言葉遣いでさえも、もはや関係ない。
特にこの生徒会長という人間にあっては、そんなものは必要ないように感じた。本人もそう感じているのか、言葉に馴れ合いは存在しない。
「それはそれは。ずいぶんと勇ましいことだな。あの女のことだから、派手に爆死するのがお似合いだと思ったのだが。どうやら、予想は外れてしまったみたいだな」
人の死を、まるでゲームをするかのように予想している人間がいる。
学友の生死を、そんな風に捕らえられる生徒会長が、信じられない。
「ならば、他の人間はなぜお前と一緒にはいないんだ。生きているのではなく、生死不明なだけではないのか?」
「佐藤は化け物にさらわれた。雫は、さっきまで一緒にいたけど、今は保健室にいる」
「となると、図書室の赤い光もお前たちの仕業か。よくも乗り切れたものだ。ここから見ていても、あの光景には絶望感が漂っていたからな。早々にあきらめていたところだ。佐藤のことは、ま、残念だったな」
唇がつむいだ、残念、という言葉が、社交辞令のように淡々と通り過ぎていく。
俺は拳を握り締める。頭に血が上れば上るほど、腹部の痛みも増していく。
「睦月は保健室だと言ったが、怪我をしているのか?」
自身の怪我を隠すために、俺はとっさに嘘をついた。俺がうなづくと、生徒会長は満足そうな顔を見せる。
「自業自得だな。私にあんな態度をとっておいて、罰が下らないほうがどうかしている」
眼鏡のブリッジを、右手の中指で持ち上げる。唇はうっすらと笑みのカーブを描いていた。
「雫は、身代わりになったんだ。あの化け物だったら、屋上の扉をこじ開けるだけの力を持っていた。雫はそれを見越して……」
切れ長の瞳が、レンズの中で鋭く光る。
「その口ぶりからすると、雫の恋人にでもなったか? 先ほどから、呼び捨てになっているぞ。確か以前までは……睦月さん、とでも呼んでいたはずだ」
口の端がつりあがる。矛盾点を見つけた評論家のようだ。
「苗字にさん付けから、名前を呼び捨て。推測するに、つり橋の法則といったところか。二人で危機を乗り切った直後の、興奮冷めやらない状況。そのときの胸の高鳴りを恋と勘違いするという、ごく単純な法則だ。睦月も所詮は低俗な女だったということだ」
人をさげすみ、おとしめることで、愉悦を感じているようだった。
「正臣……それは本当なのか?」
俺が出て行ったドアに寄りかかっていた和輝は、体を起こして聞いてくる。和輝らしくない、生気の抜けたような声。
「答えてくれよ。本当なのか?」
「俺と雫は、そういう関係じゃない」
俺と和輝の会話の間に、生徒会長が入ってくる。
「果たして、本当にそうかな? ここから、図書室前の廊下が見えないとでも思っているのか?」
胸が痛むのと同時に、腹部の痛みも倍化する。痛みが顔に出てしまい、しまった、と思った。
生徒会長が、それを見逃すはずもなく。
「どうやら、目の錯覚ではなかったようだな。お前のような偽善者に、あの女が惚れるとは意外だったが……人間何があるか分からないものだ」
下劣なものを見るような視線が、俺に注がれる。
「正臣……お前は」
和輝の瞳の中に、黒い炎が立ち上っていくような気がした。
それは情熱や希望の灯火ではなく、憎悪や残酷さをつかさどるような、いままでの和輝からは到底連想できない類の炎だった。
「そんなに気になるなら、教えてやろう。私が見たものを」
真相を語った後の予想図が好奇心をかきたてるのか、生徒会長は笑いをこらえるように口に手を当てる。
「……教えてくれ」
絞り出すような和輝の声。
「あれは熱烈だったな。見ているこちらが恥ずかしくなったよ。お前もそうだったのだろう? 本人の感想をまず聞きたいところだが?」
もったいぶったように、核心を外して物事を伝えようとする。和輝はそれに痺れを切らして、声を荒げた。
「そんなことはいい! 結果だけが聞きたい」
「そんなに聞きたいのなら教えてやる」
不満そうに鼻を鳴らし、腕を広げる。
「二人は、抱き合って、口付けを交わしていた。これでいいのか?」
抱き合ってなどいない、と言い訳する気も起きなかった。
そんなことをしても、他の部分は肯定していることにしかならない。香奈が窓越しに俺たちを見つめて涙したように、主観と客観には、埋められない溝があり、必ず食い違いというものがある。
「俺はな、正臣……」
感情のない和輝の声が、化け物から発せられる声に似ていた。