第三十二話・「……ごめん」
「アンタは馬鹿よ。どうしようもない馬鹿。刺されたくせに、刺した人間を心配するなんて、気が狂ってるとしか思えない」
「憎しみは連鎖するから。俺が……受け止めなきゃいけなかったんだ……。これ以上、仲間同士で争うのは苦しすぎるから」
「自分を犠牲にするのはいいけど、死んだら意味がないじゃない」
「……死ぬつもりなんかないよ」
痛みをこらえて微笑む。
「これから、佐藤を助けないといけないだろ」
「何言ってんの? 今のアンタは、間違いなく病院行き確定なのに。そんな体でこれ以上無理すれば、命の保障は出来ないわ」
雫が怒ったように声を荒げる。
「アンタはこれから、私の監視下に置くことに決めたから。私の目の前で死なれちゃ気分悪いし。ま、分かりやすくいえば、アンタは私が守ってあげるってこと」
「雫が……俺を?」
雫の体温が、とても熱く感じられる。
大量の出血のおかげで、余計にそう感じるのか、それとも雫の体温が高いだけなのか。
「嫌なの? 嫌なら別に無理にとは言わないわ。勝手に私がやるだけだから」
「俺の意思に関係ないじゃないか……」
雫の顔を見ながら苦笑いする。雫は俺に見つめられているのを感じてか、目をそらして前方に意識を集中させた。
思わず、そんな雫に笑いそうになるが。
「……香……奈?」
雫を見ていた俺の視界の隅に、屋上にいるはずの香奈の姿があった。
俺たちがいるのは第二棟の三階。香奈がいるのは第一棟の三階。
窓から見える景色の中に、香奈がいたのだった。
怖いくらいに美しい月の光が、第一棟、三階の廊下を歩く香奈を照らし出していた。
なぜそこに香奈がいるのか、にわかには信じられない。
目を擦ったり、細めてみたりしたが、香奈の姿が視界から消え去ることはなかった。
和輝と屋上にいるはずではなかったのか。生死にかかわる危険が、そこかしこに転がっている悪夢のような学校。女の子一人で歩ける場所ではない。
俺が思わずつぶやいてしまった香奈の名前に、雫が反応を示す。
「アンタは……私といても、あの女のことを思い出すわけ?」
香奈は一棟の窓越しに俺たちを見つめていた。香奈の微笑が非日常的に感じられる。窓に手のひらをついている香奈の視線は、俺の視線と確実に交わっている。
「そんなに、あの女のことが忘れられないの?」
香奈の視線に縛り上げられて、俺は動くことも、質問に答えることも出来なかった。雫の語気に触発されるように、腹部がさらに痛み出す。
「アンタがそうなら、私にも考えがあるわ」
雫の言葉は、香奈に集中している俺の耳には入ってこなかった。
「……この私が、忘れさせてあげる。他のことなんか」
俺の顔に、雫の顔が重ねられる。窓越しの香奈と視線を合わせていた俺は、突然のことに何が起こったのか分からなかった。
柔らかな感触が俺の唇にある。
俺は目をつぶることもかなわず、雫に唇を奪われていた。
止まない腹部の痛み。唇同士の甘美な接触。その二つは、あまりにも対照的だった。
だが、俺の意識は雫との口付けよりも、一棟から俺たちを見つめ続ける香奈に釘付けにされていた。
香奈は、微笑みながら俺たち二人を見つめ続けている。
どんな風に言い訳をしようとも、きっとこの現場を逃れることは出来ない。犯罪でいうなら、きっと現行犯。どう解釈しても、キスしているとしか思えないだろう。
もちろん、それは真実だから、言い訳も、解釈も、するだけ無駄だ。
俺の心臓が、胸の中で跳ね回る。刺された箇所までも、心臓から送られる高熱の血液で波打っている。
……気が動転しそうだった。
雫とキスをしてしまっていることが。香奈に見られていることが。
無限にも思える時間。
しかし、数秒にも満たない時間の途中で、香奈は俺と絡みついた視線を下ろすと、うつむき、長い前髪で目を隠した。
前髪から現れた光の粒が、両の頬を滑り落ちるのが見える。
いくつも頬を伝い、あごで合流しては、大きな雫となって地面に落ちていった。唇は相変わらず微笑んだまま。唇を引き結んで耐えるわけではない。いつも、どんなときでも微笑み続ける香奈だから、それが不気味に映ってしまう。
まるで、悲劇の無声映画を見ているようだった。
俺がたとえ大声を出そうとも、香奈には届かない。香奈もそれを分かっているから、俺たちを見て泣くことしかできない。
隔絶された二人をつなぐのは、目に映るものだけ。残酷で、容赦のない距離と現実が、俺と香奈を隔てている。
「自分からするキスっていうのも、案外悪くはないわね」
雫が小悪魔のような笑みを浮かべながら、唇を離した。
「放心しちゃって、どうしたのよ」
俺の視線が自分を向いていないと分かったのか、疑問符を浮かべながら俺の視線をトレースしていく雫。
「何もないじゃない。一体どうしたっていうのよ」
雫が唇を離す直前、香奈は廊下の向こうに去っていった。
悲劇のヒロインのように走り去るわけでもなければ、その場に崩れ落ちるわけでもない。いつものように平然と、涙を浮かべたまま歩いていった。
「ちょっと、正臣」
空いている手で、俺の頬をつまんでくる。
俺は、香奈のいた場所に釘付けになっていた目を戻す。
「……え?」
「え、じゃないわよ。リアクションに困るアクションしないでくれる?」
肩を貸したままの姿勢で、頬を風船のように膨らませる。
「雫……俺にキスしたのか?」
「し、したわよ」
香奈のことが頭から離れない俺は、オブラートに包むことも出来ない。配慮もなしに、直接的に聞いてしまう。
「どうして?」
鼻白む雫。
「どうしてって……それはこっちが聞きたいくらいよ」
「自分のことだろ」
無粋な俺の問いかけに、雫は気分を害したようだった。
「それはそうだけど、イライラしたのよ。アンタから、他の女の名前が出るのが」
「なんだよ……それ」
腹部の痛みが増してくる。香奈のことを考えるたびに、痛みが増してくるようだった。
罪悪感が、痛みを増長させているように思える。病は気からという言葉があるが、病気ではなく、傷口に対しても通用するだろうか。なるべく平然を装う努力をしてきたが、痛みの急増に、表情が崩れてしまう。
「しっかりしなさいよ。保健室までの我慢なんだから」
「……分かってるさ」
脂汗が額から流れ落ちて、目に飛び込む。
「無理してるのが、バレバレなのよ」
目に染み込んでくる痛みに、俺は片目をつぶってしまう。
空いていた手を、優しく傷口に添える雫。
どうやら、目をつぶった俺に相当気を使っているようだった。目に染みる痛みと腹部の痛みは別物なのだが、雫にそれが分かるはずはない。目をつぶるほどの痛みだと思って、労わってくれているのだろう。
「アンタを監視下に置くと言った以上、無理はさせないわ。絶対安静。一歩たりとも動くのは禁止。分かった?」
俺はそれに頷くことは出来ない。
佐藤の救出、香奈の行方、和輝がなぜ香奈を一人で行かせたのか。それらを直接確かめなければならない。
「雫……」
俺がそれらを確かめようとすれば、雫に止められるのは必至だろう。無理が出来ない体なのは分かっている。それを承知の上で、俺は確かめたい。
傷ついた体でも、俺の意思は前へ進もうとしている。
偽善を貫き通そうとしている。
ここで佐藤を、香奈を見捨てたら、それこそ割り切ることになってしまうような気がした。
「……動くのも苦しいんだ。……保健室に行くことも……できそうにない」
雫の貸してくれた肩にもたれかかるように、全体重をかけた。バランスを崩す雫。俺の体を引っ張りあげるようにして転倒を防ぐと、優しく壁に寄りかからせてくれる。
「正直……歩くのも……きついんだ」
俺のそばに膝を突いて座る雫は、瞳を揺らしながら俺を覗き込む。
「無理に話さなくていいわ」
雫にしては珍しく弱気な口調だった。
「確か保健室に……鎮痛剤があったと思う。雫の治療をしに行ったとき……それらしきものを見つけたから……」
息を切らしながら雫に請う。雫は真剣な面持ちで、俺の言葉に耳を傾ける。
一言一句逃さないようにしてくれる雫の生真面目さが、心に響いてくる。
「俺はずっと……ここにいるから。だから……」
言葉の先を見越したのか、二の句を継いでくる。
「私が先に行って取ってくればいいのね。……分かったわ。アンタはここにじっとしていること。それでいい?」
俺はゆっくりとうなづいた。
「念のためにマスターキーは渡しておくわ。何かあったら、図書室にでも逃げ込むこと。あの臆病者ですら生き延びれたんだから、アンタに出来ないわけがないわ」
腰に手を当てて言い切る雫。
買いかぶりすぎだと言おうとしたが、痛みが言わせてくれなかった。
「……ごめん」
「謝らなくていいわ。それに、すぐに戻ってくるし」
雫が立ち上がり、廊下の先を見つめる。
「これで、アンタへの借りを、少しは返せるわね」
そう言って、雫は俊足を飛ばす。あっという間に背中が小さくなっていき、階段に差し掛かる。
雫は、すぐに階段を下りはしなかった。名残惜しそうに俺を見つめると、両手でメガホンを作る。
「すぐに戻ってくるわ! 絶対に見捨てたりしないんだから!」
叫び声が俺の耳に届く頃には、雫は口元を引き締めて、階段に足をかけていた。階段を下りる音が廊下に響き、あっという間に遠ざかっていく。
……だからこそ、俺は胸が痛む。
「雫……ごめん」
廊下の天井を見つめる。
「保健室に、鎮痛剤はないんだ……」
窓の外には、雲間から顔を出した月が、美しく輝いている。
「俺は……行かないといけないから」
痛む箇所を手で押さえ、壁を頼りにして何とか立ち上がる。応急処置が施されているとはいえ、じんわりと血が滲んでくる。
歩くのがきついのは本当だ。だが、歩けないわけではない。
保健室に行けないのも本当だ。俺は保健室ではない場所に行くのだから。
「だまされたと知ったら……きっと怒るだろうな……」
壁に手を着いたまま、何とか屋上への道のりを踏み出す。鉄球を引きずる囚人のように重い足取りで。
「雫のことだから……二度と立ち上がれないくらいにされそうだ……」
雫の怒った顔を想像すると、なぜだか顔の筋肉が緩んでしまう。
雫の言動は、他人を傷つけたり、怒らせたりするものばかりだったけれど、いざ無くなってみると、とても寂しく感じられた。祭りの後のような気持ちにさせられる。
「……ごめん雫……俺は」
雫を裏切ってしまうことになる。
でも、これで良いのだと思う。雫にとって怪我をした俺は、盾ではなく、単なる足かせに過ぎない。加えて、俺がいないほうが身軽だし、裏切られたと思ってくれたほうが、俺に何らかの心残りを持つこともないだろう。
だから、俺は君との約束を破る。
「佐藤を……助けないと」
これまでに体験したことのない苦痛は、自分の発した声ですら遠くから聞こえた声のように感じさせる。自分を客観的に見ることの出来るほど、気の遠くなる痛み。
「和輝に……会わないと」
廊下を踏みしめる。歩幅を広げて、屋上に向かう。
「香奈に……伝えないと」
伝えたいことがある。やるべきことがある。
――俺は、歩き続ける。