表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/50

第三十二話・「……ごめん」

「アンタは馬鹿よ。どうしようもない馬鹿。刺されたくせに、刺した人間を心配するなんて、気が狂ってるとしか思えない」

「憎しみは連鎖するから。俺が……受け止めなきゃいけなかったんだ……。これ以上、仲間同士で争うのは苦しすぎるから」

「自分を犠牲にするのはいいけど、死んだら意味がないじゃない」

「……死ぬつもりなんかないよ」


 痛みをこらえて微笑む。


「これから、佐藤を助けないといけないだろ」

「何言ってんの? 今のアンタは、間違いなく病院行き確定なのに。そんな体でこれ以上無理すれば、命の保障は出来ないわ」


 雫が怒ったように声を荒げる。


「アンタはこれから、私の監視下に置くことに決めたから。私の目の前で死なれちゃ気分悪いし。ま、分かりやすくいえば、アンタは私が守ってあげるってこと」

「雫が……俺を?」


 雫の体温が、とても熱く感じられる。

 大量の出血のおかげで、余計にそう感じるのか、それとも雫の体温が高いだけなのか。


「嫌なの? 嫌なら別に無理にとは言わないわ。勝手に私がやるだけだから」

「俺の意思に関係ないじゃないか……」


 雫の顔を見ながら苦笑いする。雫は俺に見つめられているのを感じてか、目をそらして前方に意識を集中させた。

 思わず、そんな雫に笑いそうになるが。


「……香……奈?」


 雫を見ていた俺の視界の隅に、屋上にいるはずの香奈の姿があった。

 俺たちがいるのは第二棟の三階。香奈がいるのは第一棟の三階。

 窓から見える景色の中に、香奈がいたのだった。

 怖いくらいに美しい月の光が、第一棟、三階の廊下を歩く香奈を照らし出していた。

 なぜそこに香奈がいるのか、にわかには信じられない。

 目を擦ったり、細めてみたりしたが、香奈の姿が視界から消え去ることはなかった。

 和輝と屋上にいるはずではなかったのか。生死にかかわる危険が、そこかしこに転がっている悪夢のような学校。女の子一人で歩ける場所ではない。

 俺が思わずつぶやいてしまった香奈の名前に、雫が反応を示す。


「アンタは……私といても、あの女のことを思い出すわけ?」


 香奈は一棟の窓越しに俺たちを見つめていた。香奈の微笑が非日常的に感じられる。窓に手のひらをついている香奈の視線は、俺の視線と確実に交わっている。


「そんなに、あの女のことが忘れられないの?」


 香奈の視線に縛り上げられて、俺は動くことも、質問に答えることも出来なかった。雫の語気に触発されるように、腹部がさらに痛み出す。


「アンタがそうなら、私にも考えがあるわ」


 雫の言葉は、香奈に集中している俺の耳には入ってこなかった。


「……この私が、忘れさせてあげる。他のことなんか」


 俺の顔に、雫の顔が重ねられる。窓越しの香奈と視線を合わせていた俺は、突然のことに何が起こったのか分からなかった。

 柔らかな感触が俺の唇にある。

 俺は目をつぶることもかなわず、雫に唇を奪われていた。

 止まない腹部の痛み。唇同士の甘美な接触。その二つは、あまりにも対照的だった。

 だが、俺の意識は雫との口付けよりも、一棟から俺たちを見つめ続ける香奈に釘付けにされていた。

 香奈は、微笑みながら俺たち二人を見つめ続けている。

 どんな風に言い訳をしようとも、きっとこの現場を逃れることは出来ない。犯罪でいうなら、きっと現行犯。どう解釈しても、キスしているとしか思えないだろう。

 もちろん、それは真実だから、言い訳も、解釈も、するだけ無駄だ。

 俺の心臓が、胸の中で跳ね回る。刺された箇所までも、心臓から送られる高熱の血液で波打っている。



 ……気が動転しそうだった。



 雫とキスをしてしまっていることが。香奈に見られていることが。

 無限にも思える時間。

 しかし、数秒にも満たない時間の途中で、香奈は俺と絡みついた視線を下ろすと、うつむき、長い前髪で目を隠した。

 前髪から現れた光の粒が、両の頬を滑り落ちるのが見える。

 いくつも頬を伝い、あごで合流しては、大きな雫となって地面に落ちていった。唇は相変わらず微笑んだまま。唇を引き結んで耐えるわけではない。いつも、どんなときでも微笑み続ける香奈だから、それが不気味に映ってしまう。

 まるで、悲劇の無声映画を見ているようだった。

 俺がたとえ大声を出そうとも、香奈には届かない。香奈もそれを分かっているから、俺たちを見て泣くことしかできない。

 隔絶された二人をつなぐのは、目に映るものだけ。残酷で、容赦のない距離と現実が、俺と香奈を隔てている。


「自分からするキスっていうのも、案外悪くはないわね」


 雫が小悪魔のような笑みを浮かべながら、唇を離した。


「放心しちゃって、どうしたのよ」


 俺の視線が自分を向いていないと分かったのか、疑問符を浮かべながら俺の視線をトレースしていく雫。


「何もないじゃない。一体どうしたっていうのよ」


 雫が唇を離す直前、香奈は廊下の向こうに去っていった。

 悲劇のヒロインのように走り去るわけでもなければ、その場に崩れ落ちるわけでもない。いつものように平然と、涙を浮かべたまま歩いていった。


「ちょっと、正臣」


 空いている手で、俺の頬をつまんでくる。

 俺は、香奈のいた場所に釘付けになっていた目を戻す。


「……え?」

「え、じゃないわよ。リアクションに困るアクションしないでくれる?」


 肩を貸したままの姿勢で、頬を風船のように膨らませる。


「雫……俺にキスしたのか?」

「し、したわよ」


 香奈のことが頭から離れない俺は、オブラートに包むことも出来ない。配慮もなしに、直接的に聞いてしまう。


「どうして?」


 鼻白む雫。


「どうしてって……それはこっちが聞きたいくらいよ」

「自分のことだろ」


 無粋な俺の問いかけに、雫は気分を害したようだった。


「それはそうだけど、イライラしたのよ。アンタから、他の女の名前が出るのが」

「なんだよ……それ」


 腹部の痛みが増してくる。香奈のことを考えるたびに、痛みが増してくるようだった。

 罪悪感が、痛みを増長させているように思える。病は気からという言葉があるが、病気ではなく、傷口に対しても通用するだろうか。なるべく平然を装う努力をしてきたが、痛みの急増に、表情が崩れてしまう。


「しっかりしなさいよ。保健室までの我慢なんだから」

「……分かってるさ」


 脂汗が額から流れ落ちて、目に飛び込む。


「無理してるのが、バレバレなのよ」


 目に染み込んでくる痛みに、俺は片目をつぶってしまう。

 空いていた手を、優しく傷口に添える雫。

 どうやら、目をつぶった俺に相当気を使っているようだった。目に染みる痛みと腹部の痛みは別物なのだが、雫にそれが分かるはずはない。目をつぶるほどの痛みだと思って、労わってくれているのだろう。


「アンタを監視下に置くと言った以上、無理はさせないわ。絶対安静。一歩たりとも動くのは禁止。分かった?」


 俺はそれに頷くことは出来ない。

 佐藤の救出、香奈の行方、和輝がなぜ香奈を一人で行かせたのか。それらを直接確かめなければならない。


「雫……」


 俺がそれらを確かめようとすれば、雫に止められるのは必至だろう。無理が出来ない体なのは分かっている。それを承知の上で、俺は確かめたい。

 傷ついた体でも、俺の意思は前へ進もうとしている。

 偽善を貫き通そうとしている。

 ここで佐藤を、香奈を見捨てたら、それこそ割り切ることになってしまうような気がした。


「……動くのも苦しいんだ。……保健室に行くことも……できそうにない」


 雫の貸してくれた肩にもたれかかるように、全体重をかけた。バランスを崩す雫。俺の体を引っ張りあげるようにして転倒を防ぐと、優しく壁に寄りかからせてくれる。


「正直……歩くのも……きついんだ」


 俺のそばに膝を突いて座る雫は、瞳を揺らしながら俺を覗き込む。


「無理に話さなくていいわ」


 雫にしては珍しく弱気な口調だった。


「確か保健室に……鎮痛剤があったと思う。雫の治療をしに行ったとき……それらしきものを見つけたから……」


 息を切らしながら雫に請う。雫は真剣な面持ちで、俺の言葉に耳を傾ける。

 一言一句逃さないようにしてくれる雫の生真面目さが、心に響いてくる。


「俺はずっと……ここにいるから。だから……」


 言葉の先を見越したのか、二の句を継いでくる。


「私が先に行って取ってくればいいのね。……分かったわ。アンタはここにじっとしていること。それでいい?」


 俺はゆっくりとうなづいた。


「念のためにマスターキーは渡しておくわ。何かあったら、図書室にでも逃げ込むこと。あの臆病者ですら生き延びれたんだから、アンタに出来ないわけがないわ」


 腰に手を当てて言い切る雫。

 買いかぶりすぎだと言おうとしたが、痛みが言わせてくれなかった。


「……ごめん」

「謝らなくていいわ。それに、すぐに戻ってくるし」


 雫が立ち上がり、廊下の先を見つめる。


「これで、アンタへの借りを、少しは返せるわね」


 そう言って、雫は俊足を飛ばす。あっという間に背中が小さくなっていき、階段に差し掛かる。

 雫は、すぐに階段を下りはしなかった。名残惜しそうに俺を見つめると、両手でメガホンを作る。


「すぐに戻ってくるわ! 絶対に見捨てたりしないんだから!」


 叫び声が俺の耳に届く頃には、雫は口元を引き締めて、階段に足をかけていた。階段を下りる音が廊下に響き、あっという間に遠ざかっていく。



 ……だからこそ、俺は胸が痛む。



「雫……ごめん」


 廊下の天井を見つめる。


「保健室に、鎮痛剤はないんだ……」


 窓の外には、雲間から顔を出した月が、美しく輝いている。


「俺は……行かないといけないから」


 痛む箇所を手で押さえ、壁を頼りにして何とか立ち上がる。応急処置が施されているとはいえ、じんわりと血が滲んでくる。

 歩くのがきついのは本当だ。だが、歩けないわけではない。

 保健室に行けないのも本当だ。俺は保健室ではない場所に行くのだから。


「だまされたと知ったら……きっと怒るだろうな……」


 壁に手を着いたまま、何とか屋上への道のりを踏み出す。鉄球を引きずる囚人のように重い足取りで。


「雫のことだから……二度と立ち上がれないくらいにされそうだ……」


 雫の怒った顔を想像すると、なぜだか顔の筋肉が緩んでしまう。

 雫の言動は、他人を傷つけたり、怒らせたりするものばかりだったけれど、いざ無くなってみると、とても寂しく感じられた。祭りの後のような気持ちにさせられる。


「……ごめん雫……俺は」


 雫を裏切ってしまうことになる。

 でも、これで良いのだと思う。雫にとって怪我をした俺は、盾ではなく、単なる足かせに過ぎない。加えて、俺がいないほうが身軽だし、裏切られたと思ってくれたほうが、俺に何らかの心残りを持つこともないだろう。



 だから、俺は君との約束を破る。



「佐藤を……助けないと」


 これまでに体験したことのない苦痛は、自分の発した声ですら遠くから聞こえた声のように感じさせる。自分を客観的に見ることの出来るほど、気の遠くなる痛み。


「和輝に……会わないと」


 廊下を踏みしめる。歩幅を広げて、屋上に向かう。


「香奈に……伝えないと」


 伝えたいことがある。やるべきことがある。



 ――俺は、歩き続ける。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ