第三十一話・「偽善者だから」
「佐藤……俺たちは仲間なんだ」
ナイフを握り締めたまま震えている佐藤に、俺は笑いかけた。
ナイフが俺の腹に刺さっているという実感がない。夢の中にでもいるような気分であり、なおかつ、頭が透き通るように穏やかだ。
「つまらないことで、争うなよ……」
佐藤が俺の微笑に顔を引きつらせる。幽霊でも見ているかのような顔だ。
「ぼ、僕が悪いんじゃないぞ! この女が僕を馬鹿にするから、こんなことになったんだ! この女がやったんだ! この女のせいだ!」
ナイフから手を離し、震えながら雫を指差す。
雫は化け物に突き刺すはずだったモップを強く握り締め、佐藤に殴りかかる。
「アンタは、どっちの味方なのよ!」
俺は腹にナイフが突き刺さったまま、佐藤をかばっていた。
体を動かすたびに、腹の中をかき回されているような感覚がする。
「味方とか……そういうことじゃないんだ」
腹部を押さえる手のひらが温かい。生暖かいお湯を、手に注がれているような感じだ。
「誰かにやられたから、やり返して……それじゃ、きっといつまでたっても終わらない。誰かが、怒りを……憎しみを飲み込まないと駄目なんだ……」
「だからって、なんでアンタが!」
「なんでって――」
腹部の痛みが、俺の膝を折った。
力が抜けていく。
俺は、体を支えられなくて、雫に跪くような格好になる。
「俺は……偽善者だから」
激痛が、腹部から全身に広がっていく。
「なんでアンタはそうなのよ……」
「はは……ははは……こんな馬鹿な奴、僕は今まで見たことがない!」
血で濡れた右手で、額を抑える佐藤。
「なんだこれ! 何の茶番なんだ! 教えてくれよ!」
涙を流しながら笑っている。
「僕は人を刺したんだ。なのに刺された本人は笑ってる! 何だこれ、何だこれ!」
ふらふらと歩きながら、書庫を出て行こうとする。
「シニし……にシ……イ」
雫が止めを刺し忘れた怪物が、失われていない足を器用に使って起き上がる。少ない足でも体重を支えられるように、足の位置を調整している。
「絶対にやらせはしないわ」
雫は、うずくまる俺をかばうように、化け物と俺の間に割って入った。
今の俺には、手負いの化け物と戦う力はない。体中の力が抜けていくのが分かった。気力を振り絞っても、体力は戻ってはこなかった。
「アンタだけは、絶対に」
モップを構える雫の背中が、何よりも大きく見える。
そんな彼女に、俺の守護神のようだ、と言ったらどんな顔をするだろうか。
激痛の中で、そんな冗談が浮かぶ。冷静でありながら、朦朧とする意識。俺は何度も瞬きをして、雫を瞳に宿し続ける。
「雫……」
「気が散るから話しかけないで」
集中したい人間が、俺を何度も振り向いて、そんなに苦しそうな顔をするだろうか。加え、俺が話しかけなくとも、雫はすでに気が散っているようだった。
「俺の……守護神みたいだ」
目に涙の幕を張りながら、俺を睨み付ける雫。口を真一文字に引き結んで、感情を押し殺している。眉間にしわを刻む様子は、まるで痛みに耐えるかのようだ。
雫がこんな表情を見せてくれるとは思わなかったから、俺は自然と顔がほころんでしまう。
初めて人を微笑ませることが出来たときの嬉しさ。それに似ていた。
「なんで、そんなに楽しそうなのよ!」
「雫が……泣いてるから」
気がついていなかったのか、雫はモップを両手から片手に持ち替える。
「これは汗よ!」
空いた手で目元をこする。こすりすぎて、目が充血しなければよいのだが。
「こんなの、汗が目に入ったに決まってるじゃない!」
目をこすり続ける雫をよそに、化け物は少ない足で跳躍する。
「ニタ……ク、な……イ」
対抗手段を持たない俺を狙うと思いきや、化け物は入り口付近で笑い続ける佐藤に襲い掛かった。
「佐藤! 逃げろ!」
腹部から血が出るのをかまわずに、俺は叫んだ。
うずくまっていた体を無理に起き上がらせたものだから、ナイフが俺の腹をかき回す。体の中から臓器を叩かれるような錯覚と、不快感が混じる。
「はは……ははは!」
佐藤は化け物に押し倒されても、笑い続けていた。
「雫!」
助けられるのは雫しかいない。俺は体に鞭打って、雫の足にすがりつく。
「……アンタを殺そうとした報いよ」
腹部の痛みが、俺の声をのどで押しとどまらせる。
それは違う、と言い返したいのに、それが出来ない。
横隔膜を上下させるたびに、腹部が悲鳴を上げる。声にならない声だけが、俺の口から漏れるばかりだ。
雫は、そんな俺を見下ろすと、小さな声でつぶやいた。
「そういえば、私はまだアンタの手駒だったわね」
思い出したように、化け物に疾駆する。
化け物は、口から出した触手を佐藤に巻きつけている最中だった。生徒の口から、茶色の触手が大量に伸びていく。体に固定するように、あるいは抱きしめるように、伸びた触手は佐藤を捕獲した。蜘蛛の巣に引っかかった昆虫が、蜘蛛の糸で絡め取られるのに似ている。
佐藤は抵抗するが、生徒に寄生した化け物には効果がない。
素手では有効なダメージを与えられない硬質の皮膚のうえに、本体はおそらく生徒の中だ。
佐藤の抵抗は、まったくもって無意味でしかない。
「助け……!」
最後に、佐藤の口が触手で覆われる。俺から見えるのは、茶色の繭を抱える化け物だけになった。
雫は、横薙ぎに化け物を切り払う。化け物は少ない足で大きく跳躍し、図書室に躍り出た。迷うことなく、雫も飛び出していく。
書庫にいる俺からは、図書室の状況は分からない。足音と、何かがぶつかる音だけが、判断材料だった。
「俺も……行かないと……」
ガラスの割れる音が、最後の攻防だったようだ。その音の後には、一切の音がなくなった。
俺は書庫に血痕を作りながら、図書室に這っていく。
「馬鹿やってんじゃないわよ!」
戻ってきた雫が、俺を図書室の壁に寄りかからせる。壁を背にして座る格好のまま、ナイフの柄を握る。
「正臣、力を抜いて」
雫は俺の返答を待たずに、ナイフを腹部から引き抜いた。
飛沫が、図書室の本を赤く汚す。
激痛を超える、痛みの爆発。テレビの画面が乱れるように、俺の意識も途切れそうになった。
「とりあえず、私にはこれしか出来ない」
手際よく止血処置を施してくれた雫が、額の汗を拭った。自らのスカートを破って包帯の代用にしたり、ハンカチを患部に当てて止血したり。
出血を最低限にとどめるための応急処置が施された。
「……佐藤は?」
俺の問いに、唇をかむ雫。
「逃げられたわ。佐藤も、化け物と一緒」
俺は図書室の壁を殴る。応急処置を施されたといっても、まだ出血と痛みはある。それでも、俺は自分の中に湧いた悔しさを止めることが出来なかった。
「行こう、雫。ここにいても、佐藤は助けられない」
俺は壁を助けにして体を起こす。爆発するような痛みは失せた。持続的な激痛ぐらいなら、何とか耐えられる気がする。
「化け物は……どこに行ったんだ?」
絶え絶えになる息を、何とか押さえ込む。
「体育館の方向よ。こっちは二棟だから、詳しくは分からないわ」
一棟の先にある体育館は、二棟からは見えない。だが、体育館から大量発生してくる化け物を考えれば、その線が一番妥当だろう。
「雫……肩を貸してくれないか?」
何も言わずに俺の腕を自らの首に回す。
「ありがとう……」
「礼なんていらないわ。それより、自分のことを気にしなさいよ」
図書室を出て、索敵しながら廊下を進む。
「……雫がいなかったら、俺、きっと死んでた」
「アンタがいなかったら、私だって死んでたわよ」
俺をいたわりながら、ゆっくりと進んでくれている雫の心遣いが嬉しかった。