第三十話・「殺してやる!」
佐藤の形相に、俺は声をかけることが出来ない。
佐藤が持っているナイフは、雫が職員室から持ってきたものだ。生徒指導の教師が、生徒から没収したバタフライナイフ。
それは、再び雲間から顔を出した月の光によって照らし出され、銀色に輝く。
切っ先は、血を求めるように光を反射し、まるで目標を定めているようだった。
「てっきり、アンタなんか死んでいると思ったわ」
ナイフを持つ佐藤の手が、小刻みに震えている。
「年甲斐もなくお漏らししながら、机の下で頭を抱えていたんでしょ? 本当にお似合いね」
雫の悪い癖だ。誰かの弱点を見つけると、そこをとことん攻めようとする。
「今頃出てきてどうするつもり? 化け物なら本棚に挟まってるから、安全なところからいくらでも殺せばいいわ。逃げるだけ逃げて、安全になったら顔を出して。そんな奴が平和を享受しようとしてる。そんな資格もないくせに」
自分が相手よりも優位に立っていることを、誇示しようとする。
「アンタは、偽善者以下よ。自分の意思もなく、誰かに頼って、すがって、ついていって。誰かの前を歩こうなんて、これっぽっちも思ってない」
親指と人差し指で、空気をつまむようにする。
「アンタは所詮、誰かの犠牲の後を喜んでを歩こうとしてる、ただの弱虫よ」
「僕をそんな風に言うな! そもそも何なんだ? 一体お前は何様のつもりなんだ? そんなにお前は偉いのか!」
顔を真っ赤にして沸騰する佐藤。
「偉いわね」
臆面もなく言ってのける。
腕を組みながらの、存在自体を見下すような雫の視線は、もはや特許を取得しているのではないだろうか。
俺よりも、雫よりも背が低い佐藤からすれば、常に見下されている気分だろう。
「僕を見下すんじゃない! 雌豚が!」
憤慨しながら、ナイフを雫に突きつける。
「腰が引けてるわよ。そんなんじゃ、人はおろか、蜘蛛の一匹だって殺せないわね。強がっちゃって、まるで子供みたい」
雫の口の端が、笑みに歪む。
「殺してやる、殺してやる……!」
「やってみれば? 少なくとも、あんたが私を殺せるとは思えないけど」
その言葉が、佐藤の逆鱗に触れたようだ。
腰の位置にナイフを構えて、雫に突進する。
余裕の表れか、雫は手に持っていたモップを足元に転がした。
「馬鹿な男」
ナイフを振り回すならともかく、一直線に突くには明らかなスピード不足だった。
進行方向を把握していた雫は、腕を組んだまま佐藤の突きをよける。
佐藤の足を引っ掛けるという、おまけ付きだ。
佐藤は、無様に転ぶしかなかった。ナイフを小脇に抱える格好で突進したため、満足に受身も取れない。
「殺してやるんじゃなかったの?」
転んだ弾みに自分の腕をナイフで切ってしまった佐藤は、自身の腕を流れる血を見て激情する。
「知ってるんだぞ! お前が男に媚売って、腰振って、金をもらってることぐらい!」
鬼の首でも取ったように、雫を指差す。
「だから?」
鬼の首は健在だった。
「淫乱女なんだ! こいつは! 体を売って生きてるんだ!」
どうやら佐藤は、俺の同意を得たいようだった。
視線で俺を確認しながら、雫につばを飛ばす。
「男の性欲を晴らす道具なんだ! 男に媚びるべきなんだ! お前なんかが、僕にとやかく言っていいことなんてない! 腰でも振って、お金を恵んでもらうのがお似合いなんだ!」
床に尻をついたまま罵詈雑言を吐く佐藤を、かつてない冷酷な表情で見下す雫。もし、その視線が俺に向けられていたら、と考えるとぞっとする。
「何だ、その目は!」
腕の切り傷も忘れるほどにおびえているのか、手に持ったナイフを左右に大きく振って、雫を威嚇する。そんなことお構いなしに、佐藤に近寄っていく雫。
「来るな! 僕に殺されたいのか!」
「殺してみれば? 出来なければ、逆に殺してやるけど」
ナイフの切っ先が、がたがたと震えている。
「雫、やめるんだ」
俺は今にも佐藤を殴り殺そうかという、雫の前に立ちはだかった。向けられることのなかった冷酷な瞳が、ついに俺を捕らえた。
「コイツに味方するの?」
「味方とか、そういうことじゃない」
冷酷な瞳はそのままで、雫は一笑する。
また偽善が始まった、とでも言わんばかりだ。
「雫、敵味方なんて区別は、ここにはないはずだろ。敵がいなければ、味方はいないんだ」
雫の鬼気に負けないように、俺は両手を広げ、指の先にまで力を入れた。雫を思いとどまらせたかった。
「全員が味方なんだから、敵なんていない。だから、味方なんて識別する必要がない。そもそも、俺たちは仲間なんだから」
雫の腕が動くのが見えた。俺はとっさに歯を食いしばる。
「ひっ……!」
佐藤の悲鳴が背後から聞こえた。
「……雫、本当は分かってるんじゃないのか?」
雫の拳が、俺の頬の寸前で止まっている。限界まで握り締められた拳はわななき、雫の顔は苦しそうに歪んでいる。
そこに見えるのは、葛藤だろうか。
「勘違いしないで。右手が痛いのを忘れてただけよ。殴れないわけじゃない」
奥歯をかみ締めるように、声を漏らした。
「……アンタがいると、調子が狂うだけ」
俺に背中を向ける。怒りは背中から煙のように立ち上っていた。
しかし、雫には珍しく、何とか内側で燃焼させようと努力しているようだった。
「アンタを認めたわけじゃない」
「それでも、ありがとう」
返事はない。
「は……はは。け、結局、殴れないんじゃないか。所詮、威勢だけだな」
佐藤が安心したように立ち上がって、俺を盾にしながら雫を馬鹿にする。
「佐藤、お前もいい加減に――」
佐藤を振り向いたのが間違いだった。
臨界点でこらえていた雫の怒りが、今度こそ佐藤に飛んでいった。
拳は、怒りを表現する最も身近な武器となる。
左の頬から右の頬へ衝撃が駆け抜け、下あごがスライドする。
俺は止めることすら出来なかった。
佐藤の首が、極限までひねられる。衝撃でバランスを崩した体は、一回転するように書棚に激突した。
雫の怒りがどれほどの破壊力を生んだのか、それは佐藤を見れば理解できる。
佐藤は一瞬何が起こったのか理解できないようで、目をきょろきょろとさせていたが、やがて口中をもごもごさせると、手のひらを口元に持っていって、吐き出したものを凝視する。
少し黄ばんだ奥歯が、唾液と血をまとっていた。
「歯が……。僕の歯が……」
殴り飛ばした体勢のまま、静止した雫の息が荒い。怒りの余波を口から吐き出しているようだった。
佐藤が亡霊のように立ち上がる。
クランクを利用して立ち上がり、いつまでも歯を見つめている。
俺は、声をかけることすら出来なかった。
「……こ……こ……こ、殺してやる!」
佐藤がクランクを回し始める。クランクは勢いよく回っていく。
限界まで回したはずのクランクが回るということは、佐藤は反対方向に回しているのだ。
書棚と書棚の距離が広がっていく。
書棚にはさまれていた蜘蛛が、剥がれ落ちる。血溜まりに落ちると、赤い水滴が飛び散った。
……全滅したはずだった。
否、全滅するはずだった。
「佐藤! 止めろ!」
「タク……し……ニタ」
動いたのは、錯覚ではなかった。
三本の足を失った蜘蛛が、書棚からはいずり出てきたのだ。全身を血だらけにしながらも、化け物は生きていた。取り込まれた生徒には、下半身がない。背骨が、尻尾のようにぶら下がっているのみ。
書棚の中を見ると、骨盤らしきものが、足と一緒に落ちていた。ちぎれて胴体と離れ離れになった足が、血溜まりの中で痙攣している。
「ニタシ……し……し……クくナ」
驚愕の生命力だ。半身を失ってまで活動する姿は、おぞましい以外の何物でもない。
化け物は、足蹴にされた復讐でもするかのように、背中を向けていた雫に飛び掛った。
半身をなくしても、化け物は化け物。基本的な行動に狂いはない。
「ちょうどいいはけ口が見つかったわ」
背中越しに、雫は笑う。
下弦の月のような笑みを浮かべ、向かってくる化け物の攻撃をかわした。そして、着地した化け物の背骨をつかむと、強引に引き抜く。途中で背骨が千切れてしまい、雫は勢い余って倒れそうになる。
化け物は、背骨を引き抜かれて苦しんでいるのか、足のなくなった根元部分を動かしながら、もがいている。あまりの痒みに、患部をかきむしる患者のようだ。
立場の逆転した蜘蛛の醜態を見て、酷薄な笑みを浮かべる雫。頬に付いた血を袖で拭うと、鼻で笑う。
「憂さ晴らしにもならなかったわね」
化け物の息の根を止めようと、手放したモップを再び手に取った。
意識は、完全に蜘蛛を殺すことに集中している。
俺の横を何かが通り過ぎた。
蜘蛛ではない。
佐藤だ。
右手には、血液を求めて輝く鋭利な獲物。バタフライナイフ。
雫は、そんな佐藤の接近に気がつかない。
化け物に突き立てようというのか、モップを高々と掲げた。伝説に名を残す剣士のようだった。
殺意が、佐藤から雫へ、雫から蜘蛛へと流れていく。
闇よりも深遠な闇。そのどす黒い霧が、佐藤と雫を取り込んでいくような気がした。
……モップが床に転がる音。
静寂は、ゆっくりと現実に色を付けていく。
「……何、これ……?」
雫は、腹に刺さったナイフを見つめる。
信じられないといったように、驚愕に両眼を見開いている。
「あ……あ、あ……」
ナイフを持つ手を、がくがくと震わせる佐藤。ナイフの刃は完全に腹の中に埋まってしまっている。ナイフの柄を伝う血は、佐藤の手を濡らし、小指から滴り落ちた。
床には、いびつな円が出来上がる。いくつもの円は、やがて重なり合い、さらに大きな円を作った。
真っ赤に染まった円。血で彩られた鮮やかな模様。
「な……んで……?」
聞いたこともない、雫の小さな悲鳴。
――血は、俺の腹部からとめどなく流れ出ていた。