表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/50

第三十話・「殺してやる!」

 佐藤の形相に、俺は声をかけることが出来ない。

 佐藤が持っているナイフは、雫が職員室から持ってきたものだ。生徒指導の教師が、生徒から没収したバタフライナイフ。

 それは、再び雲間から顔を出した月の光によって照らし出され、銀色に輝く。

 切っ先は、血を求めるように光を反射し、まるで目標を定めているようだった。


「てっきり、アンタなんか死んでいると思ったわ」


 ナイフを持つ佐藤の手が、小刻みに震えている。


「年甲斐もなくお漏らししながら、机の下で頭を抱えていたんでしょ? 本当にお似合いね」


 雫の悪い癖だ。誰かの弱点を見つけると、そこをとことん攻めようとする。


「今頃出てきてどうするつもり? 化け物なら本棚に挟まってるから、安全なところからいくらでも殺せばいいわ。逃げるだけ逃げて、安全になったら顔を出して。そんな奴が平和を享受しようとしてる。そんな資格もないくせに」


 自分が相手よりも優位に立っていることを、誇示しようとする。


「アンタは、偽善者以下よ。自分の意思もなく、誰かに頼って、すがって、ついていって。誰かの前を歩こうなんて、これっぽっちも思ってない」


 親指と人差し指で、空気をつまむようにする。


「アンタは所詮、誰かの犠牲の後を喜んでを歩こうとしてる、ただの弱虫よ」

「僕をそんな風に言うな! そもそも何なんだ? 一体お前は何様のつもりなんだ? そんなにお前は偉いのか!」


 顔を真っ赤にして沸騰する佐藤。


「偉いわね」


 臆面もなく言ってのける。

 腕を組みながらの、存在自体を見下すような雫の視線は、もはや特許を取得しているのではないだろうか。

 俺よりも、雫よりも背が低い佐藤からすれば、常に見下されている気分だろう。


「僕を見下すんじゃない! 雌豚が!」


 憤慨しながら、ナイフを雫に突きつける。


「腰が引けてるわよ。そんなんじゃ、人はおろか、蜘蛛の一匹だって殺せないわね。強がっちゃって、まるで子供みたい」


 雫の口の端が、笑みに歪む。


「殺してやる、殺してやる……!」

「やってみれば? 少なくとも、あんたが私を殺せるとは思えないけど」


 その言葉が、佐藤の逆鱗に触れたようだ。

 腰の位置にナイフを構えて、雫に突進する。

 余裕の表れか、雫は手に持っていたモップを足元に転がした。


「馬鹿な男」


 ナイフを振り回すならともかく、一直線に突くには明らかなスピード不足だった。

 進行方向を把握していた雫は、腕を組んだまま佐藤の突きをよける。

 佐藤の足を引っ掛けるという、おまけ付きだ。

 佐藤は、無様に転ぶしかなかった。ナイフを小脇に抱える格好で突進したため、満足に受身も取れない。


「殺してやるんじゃなかったの?」


 転んだ弾みに自分の腕をナイフで切ってしまった佐藤は、自身の腕を流れる血を見て激情する。


「知ってるんだぞ! お前が男に媚売って、腰振って、金をもらってることぐらい!」


 鬼の首でも取ったように、雫を指差す。


「だから?」


 鬼の首は健在だった。


「淫乱女なんだ! こいつは! 体を売って生きてるんだ!」


 どうやら佐藤は、俺の同意を得たいようだった。

 視線で俺を確認しながら、雫につばを飛ばす。


「男の性欲を晴らす道具なんだ! 男に媚びるべきなんだ! お前なんかが、僕にとやかく言っていいことなんてない! 腰でも振って、お金を恵んでもらうのがお似合いなんだ!」


 床に尻をついたまま罵詈雑言を吐く佐藤を、かつてない冷酷な表情で見下す雫。もし、その視線が俺に向けられていたら、と考えるとぞっとする。


「何だ、その目は!」


 腕の切り傷も忘れるほどにおびえているのか、手に持ったナイフを左右に大きく振って、雫を威嚇する。そんなことお構いなしに、佐藤に近寄っていく雫。


「来るな! 僕に殺されたいのか!」

「殺してみれば? 出来なければ、逆に殺してやるけど」


 ナイフの切っ先が、がたがたと震えている。


「雫、やめるんだ」


 俺は今にも佐藤を殴り殺そうかという、雫の前に立ちはだかった。向けられることのなかった冷酷な瞳が、ついに俺を捕らえた。


「コイツに味方するの?」

「味方とか、そういうことじゃない」


 冷酷な瞳はそのままで、雫は一笑する。

 また偽善が始まった、とでも言わんばかりだ。


「雫、敵味方なんて区別は、ここにはないはずだろ。敵がいなければ、味方はいないんだ」


 雫の鬼気に負けないように、俺は両手を広げ、指の先にまで力を入れた。雫を思いとどまらせたかった。


「全員が味方なんだから、敵なんていない。だから、味方なんて識別する必要がない。そもそも、俺たちは仲間なんだから」


 雫の腕が動くのが見えた。俺はとっさに歯を食いしばる。


「ひっ……!」


 佐藤の悲鳴が背後から聞こえた。


「……雫、本当は分かってるんじゃないのか?」


 雫の拳が、俺の頬の寸前で止まっている。限界まで握り締められた拳はわななき、雫の顔は苦しそうに歪んでいる。

 そこに見えるのは、葛藤だろうか。


「勘違いしないで。右手が痛いのを忘れてただけよ。殴れないわけじゃない」


 奥歯をかみ締めるように、声を漏らした。


「……アンタがいると、調子が狂うだけ」


 俺に背中を向ける。怒りは背中から煙のように立ち上っていた。

 しかし、雫には珍しく、何とか内側で燃焼させようと努力しているようだった。


「アンタを認めたわけじゃない」

「それでも、ありがとう」


 返事はない。


「は……はは。け、結局、殴れないんじゃないか。所詮、威勢だけだな」


 佐藤が安心したように立ち上がって、俺を盾にしながら雫を馬鹿にする。


「佐藤、お前もいい加減に――」


 佐藤を振り向いたのが間違いだった。

 臨界点でこらえていた雫の怒りが、今度こそ佐藤に飛んでいった。

 拳は、怒りを表現する最も身近な武器となる。

 左の頬から右の頬へ衝撃が駆け抜け、下あごがスライドする。

 俺は止めることすら出来なかった。

 佐藤の首が、極限までひねられる。衝撃でバランスを崩した体は、一回転するように書棚に激突した。

 雫の怒りがどれほどの破壊力を生んだのか、それは佐藤を見れば理解できる。

 佐藤は一瞬何が起こったのか理解できないようで、目をきょろきょろとさせていたが、やがて口中をもごもごさせると、手のひらを口元に持っていって、吐き出したものを凝視する。

 少し黄ばんだ奥歯が、唾液と血をまとっていた。


「歯が……。僕の歯が……」


 殴り飛ばした体勢のまま、静止した雫の息が荒い。怒りの余波を口から吐き出しているようだった。

 佐藤が亡霊のように立ち上がる。

 クランクを利用して立ち上がり、いつまでも歯を見つめている。

 俺は、声をかけることすら出来なかった。


「……こ……こ……こ、殺してやる!」


 佐藤がクランクを回し始める。クランクは勢いよく回っていく。

 限界まで回したはずのクランクが回るということは、佐藤は反対方向に回しているのだ。

 書棚と書棚の距離が広がっていく。

 書棚にはさまれていた蜘蛛が、剥がれ落ちる。血溜まりに落ちると、赤い水滴が飛び散った。

 ……全滅したはずだった。

 否、全滅するはずだった。


「佐藤! 止めろ!」

「タク……し……ニタ」


 動いたのは、錯覚ではなかった。

 三本の足を失った蜘蛛が、書棚からはいずり出てきたのだ。全身を血だらけにしながらも、化け物は生きていた。取り込まれた生徒には、下半身がない。背骨が、尻尾のようにぶら下がっているのみ。

 書棚の中を見ると、骨盤らしきものが、足と一緒に落ちていた。ちぎれて胴体と離れ離れになった足が、血溜まりの中で痙攣している。


「ニタシ……し……し……クくナ」


 驚愕の生命力だ。半身を失ってまで活動する姿は、おぞましい以外の何物でもない。

 化け物は、足蹴にされた復讐でもするかのように、背中を向けていた雫に飛び掛った。

 半身をなくしても、化け物は化け物。基本的な行動に狂いはない。


「ちょうどいいはけ口が見つかったわ」


 背中越しに、雫は笑う。

 下弦の月のような笑みを浮かべ、向かってくる化け物の攻撃をかわした。そして、着地した化け物の背骨をつかむと、強引に引き抜く。途中で背骨が千切れてしまい、雫は勢い余って倒れそうになる。

 化け物は、背骨を引き抜かれて苦しんでいるのか、足のなくなった根元部分を動かしながら、もがいている。あまりの痒みに、患部をかきむしる患者のようだ。

 立場の逆転した蜘蛛の醜態を見て、酷薄な笑みを浮かべる雫。頬に付いた血を袖で拭うと、鼻で笑う。


「憂さ晴らしにもならなかったわね」


 化け物の息の根を止めようと、手放したモップを再び手に取った。

 意識は、完全に蜘蛛を殺すことに集中している。

 俺の横を何かが通り過ぎた。

 蜘蛛ではない。

 佐藤だ。

 右手には、血液を求めて輝く鋭利な獲物。バタフライナイフ。

 雫は、そんな佐藤の接近に気がつかない。

 化け物に突き立てようというのか、モップを高々と掲げた。伝説に名を残す剣士のようだった。

 殺意が、佐藤から雫へ、雫から蜘蛛へと流れていく。

 闇よりも深遠な闇。そのどす黒い霧が、佐藤と雫を取り込んでいくような気がした。

 ……モップが床に転がる音。

 静寂は、ゆっくりと現実に色を付けていく。


「……何、これ……?」


 雫は、腹に刺さったナイフを見つめる。

 信じられないといったように、驚愕に両眼を見開いている。


「あ……あ、あ……」


 ナイフを持つ手を、がくがくと震わせる佐藤。ナイフの刃は完全に腹の中に埋まってしまっている。ナイフの柄を伝う血は、佐藤の手を濡らし、小指から滴り落ちた。

床には、いびつな円が出来上がる。いくつもの円は、やがて重なり合い、さらに大きな円を作った。

 真っ赤に染まった円。血で彩られた鮮やかな模様。


「な……んで……?」


 聞いたこともない、雫の小さな悲鳴。




 ――血は、俺の腹部からとめどなく流れ出ていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ