第三話・「……そんな馬鹿な」
遅刻処理は、職員室にて行われる。
初めての作業に少しどきどきしながら職員室に入った。
後ろから香奈がひょっこり顔を出す。
「あれ、誰もいないね」
職員室には、不思議なことに誰もいなかった。
その一方で、閑散としているにもかかわらず、職員室には職員や教師たちがいたという痕跡がある。教師専用の机の上には、生徒に配るためのプリントが幾重にも重なっている。窓から入り込んできた風の悪戯か、床にはそのプリントが散らばってしまっていた。
「職員室に誰もいないとなると、これは体育館で集会の最中か……まいったな」
学校の受付の職員すらいないという疑問もあるにはあったが、偶然席を外しているということも考えられる。それ以前に、今はそんな職員どうのこうのよりも、自分がきちんと出席扱いをしてもらえるかということが重要だった。
香奈が、担任教師の机の前に散らばったプリントを、拾い集めている。
「香奈、とりあえず荷物を置きに教室に行こう。職員室に誰もいないとなると、集会でみんな体育館にいるんだろうし」
「先に行っていいよ。私、ここ片付けてから行くから」
拾い集めたプリントの束を机の上でそろえ、同じく机の上にあったパンチを重石にして、落ちないようにしていた。
「分かった。先行く」
教室に向かう廊下にも、職員室同様、人の姿はない。携帯電話を開いて時間を確認してみると、確かに今の時間帯は授業中で、廊下には人がいなくて当然だ。
しかし、通りすがりに教室一つ一つをのぞいてみたが、やはり生徒も教師もいなかった。
「これはいよいよ、集会の可能性大だな」
全校生徒が集まった中に、遅刻として入場するのは笑いものにされるようなものだ。教室に着いて自分の席にどっかりと腰を落としながら、今後どうすべきか考える。やはり、集会が終わってからがベストのような気がする。
「和輝は……来ているみたいだな。こんなときばっかり、きちんと登校しやがって……」
和輝は、こちらに引っ越してから最初に知り合った人間だ。地元の友人も誰もいない進学先の学校で、すんなりクラスに馴染むことが出来たのも、和輝のおかげといっていい。
今ではとても大切な友人だ。
それに比べて香奈との出会いは、和輝ほど大層なものではない。和輝が俺の次に声をかけたのが香奈だったということ。
入学当初、友人も誰もいない俺を含めた生徒は、会話することが出来た際、その人間を起点としてクラスに溶け込もうとする。そして、慣れ始めると、その起点から離れて、本当に気の合う人間同士でグループを作り出す。
つまりは、香奈の起点が、和輝と俺だったということだ。
香奈は、俺と和輝を除けば極端にどのグループに属するということはせず、普通は女同士でグループを組むというのに、それすら積極的にはしようとしない。
まるで中立国のように、誰にでも平等に付き合っている。もちろん、嫌われもしないし、深く好かれもしない。
もし唐突に、好きな人間同士でグループを作れと言われたら、香奈はすぐには決まらないが、残ることもないだろう。
しかし、そんな香奈も、俺と和輝にはすぐ近寄ってくる。
特に趣向が合うわけでもないのにだ。和輝が言うには、
――正臣のことが好きだからだろ。
らしいが、実際のところは分からない。今日のように、朝一緒に登校しているのは稀なケースだ。
それ以前に、俺は香奈のあの独特の調子が苦手だ。マラソンランナーが自分のペースで走ろうとしているのに、先頭集団に巻き込まれたため、ペースを上げざるをえない、という状況に似ている。
和輝にこの例えを話したら、長いけど上手い例えだな、と笑っていた。
俺は大きくため息をつく。
「集会はまだ続いてるのか?」
もうそろそろ次の授業の鐘が鳴る。体育館から教室へと向かう喧騒が迫ってきてもおかしくない時間帯だ。
「香奈も、いつまで職員室の後片付けをしてるんだか……」
もしかしたら、集会から帰ってくる先生と、偶然職員室で鉢合わせして、そのまま遅刻の手続きをしているのかもしれない。
「一応」
俺は一人で置いてきてしまった香奈の様子を見るのと、遅刻の手続きを一緒くたにして席を立った。
優先順位は、香奈ではなく遅刻手続き、これがポイントだ。
俺は二度、無人の廊下へと戻るのだった。
廊下には、俺の足音だけが響く。体育館ではまだ集会が行われているのだろうか。授業を遅らせてまで集会が続くということは、大層なことが話されているに違いない。そんな集会に出席してない、ましてや遅刻が原因である、ということが先生に知れれば、これまた俺自身が大層な目に遭いかねない。
「昨日の段階では、そんなことはまったく……」
職員室に着いたところで、とうとう次の授業開始を告げるチャイムが、学校に響き渡る。
始まりの合図であるはずのチャイムが鳴り響いても、何のリアクションも示さない無人の空間が、不気味に思えてくる。
廊下を急ぎ足で教室に戻る生徒、授業に向かう先生。そんな光景が存在しない。
俺は、やはり誰もいない職員室に入室する。もちろん、無人といえども入室の挨拶は忘れなかった。
「失礼します」
各教員の机をくまなく歩いてみるが、やはり誰もいない。
「香奈?」
プリントは片付けられてはいなかった。俺が見ていた場所のプリントはきっちり片付けられているが、それ以外は散らかったままだ。
「あいつ…どこに行ったんだ?」
香奈のことだから、ふらりとどこかへ行ってしまったということも考えられる。
「先に体育館に行った……のか?」
言葉尻は、自分の目を疑って出たものだった。
「これは……香奈のバッグだよな」
香奈がプリントを片付けていた場所に置いてあった。おそらく片付けの邪魔になるから置いたのだろう。溜息をついて、手に取る。
「バッグを忘れてどこかに行くかよ、普通」
授業に使う教科書は学校に置きっぱなしになっているのか、非常に軽い。人のことは言えないが、俺のバッグはここまで軽くはない。得意な教科だけは、アパートに帰っても勉強するために持ち帰っているからだ。
「とにかく、俺も体育館に行くか……」
香奈のバッグを教室に戻して、体育館に向かうことにする。
「まだ、誰もいないか」
教室に戻っても、クラスメイトも、バッグの持ち主である香奈もいなかった。携帯電話を開いて、香奈にメールを送る。
「バッグが職員室に……」
置き忘れていたから、机に置いておく。
「これだけ書けば分かるだろ」
送信。
自分のお人好しに満足しながら教室を出ようとしたとき、香奈のバッグの中から、蠢くような音がした。
持続的な振動音。
最近ではごく当たり前のように聞くようになった音だ。
「本当に裏目、裏目だな……」
そんな自分に嫌気がさす。力なく教室の扉に手を着いて、先程より大きな溜息をつく。いつまでも鳴り止まないバイブレーション音が、脳内を振動させた。
俺は、負の意識にとらわれ始めた頭をバイブレーションよろしくぶるぶると振ると、力強く足を踏み出す。
教室を出たところで、続いていた振動のためか、香奈のバッグが机の上から落ちる音がした。
誰もいない教室でそんな音が響くと不気味だが、種も仕掛けも分かっているので、怖くもなんともない。
そう、バイブレーション機能でバッグが落ちたのだ。
「……そんな馬鹿な」
すぐに教室に引き返して香奈のバッグを確認しようとする。バッグは、あっけなく見つかった。口が開いたまま机の脇に転がっている。
近くには俺のメールを受信した携帯電話が、いまだに震えている。
……が、バッグを落とすほど震えているようには見えない。
携帯電話を手にとってバイブレーションを止め、香奈のバックを持ち上げる。マナー違反とは分かりつつも、俺は香奈のバッグの中をのぞいてみた。すると、想像していた通り、バッグの中には教科書、ノートともに一冊も入っていなかった。だが、バッグの中には確かにあるものが入っていた痕跡があった。
「何だこれ……」
卵の黄身のような、どろりとしたのものが、大量にバッグの内側に付着していたのだ。試しに触ってみると、それは親指と人差し指の間で長い糸をひいた。
朱色の粘着物質。
鼻に近付けると、自動車に轢かれて腐ってしまった猫の臭いがする。それは嘔吐感を示すほどの強烈なものだった。
心底、朝食をとらなくて良かったと思う。
「何で香奈のバッグにこんなものが……」
俺は自分の指についた粘着物質を、ポケットティッシュで拭う。しかし、これで原因が究明されたわけではない。香奈のバッグを落とす原因となったモノが、未だ見つかっていないのだ。
「香奈め……あとで覚えてろよ」
焦りが俺の中に巣を作りはじめる。巣から大量に発生して、俺を独占しようとする。それに後押しされるように、慌てて周囲を見回すが、それらしきものは見当たらない。
「現実だぞ。それに、ここは日本だ。考えるだけ無駄なんだ」
再度、頭を振って冷静を取り戻す。
バッグがなぜ落ちたかなんて、粘着質の液体の正体が何かなんて、忘れてしまえばいい。
体育館に行って、集会に遅れて参加して、終われば、またいつものような学校生活が始まる。
「……よし」
俺はブレザーの襟を勢いよく正す。
教室を出、職員室を通り過ぎれば、体育館はすぐそこだ。
それが、何気無い今日の始まりなのだ。
自分を自分でカウンセリングするように俺は胸で念じた。