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第二十九話・「私の中に入ってこないで」

泣いて馬謖を斬る……「どんなに優秀な者であっても、私怨私情で法や規律を曲げて責任を不問にすることがあってはいけない」の意。

 作戦の説明は、三十秒とかからなかった。


 あまりにも単純だったため、雫が大きく嘆息するほどだった。

 俺たちは、書庫内を埋め尽くす可動式書棚を大急ぎで動かしていく。

 書棚の横にクランクが付いていて、それを回せば書棚は横にスライドしていく仕組みだ。書棚は、入り口に対して縦に置かれ、それぞれが平行に並んでいる。それを左右に敷き詰めて、中央に大きなスペースを作った。クランクをぐるぐると回して移動させるのは一苦労だったが、慣れれば素早く行うことが出来た。

 左側の書棚は、あえて壁に敷き詰めず、一人がやっと通れるぐらいのわずかな隙間を残してある。


「本当に、こんなので上手くいくのかしらね」


 書庫の一番奥に、俺と雫はいる。かの有名なモーセが海を割ったシーンのように、横幅十メートル以上ある書棚は、左右に除けられている。


「きっと、上手くいく」


 中央は自由に戦えるように広くしたので、棒を自由自在に振り回すことができるだろう。



「どこからそんな自信が来るわけ? さっきは落ち込んでたくせに」


 馬鹿にするような視線で手を広げる。右手には、俺が持っていた棒が握られている。元モップだった棒を器用にくるくると回す様は、バトン部のようだった。


「自信は、雫のおかげだよ」

「……それ以上言うと、セクハラで訴えるわよ」


 モップの先を俺の鼻先に突きつける。俺は寄り目になってモップの先端を見つめる。


「最初で最後よ。あんなの私らしくないんだから」


 自分自身に言い聞かせているようだった。


「とにかく、今の私は、アンタの優秀な駒なんだから、かなり期待していいわよ。責務を立派に果たして見せるわ」


 鼻息荒くふんぞり返って、胸をドンと叩いてみせる。

 漫画でしか見たことのない動作に、俺は微笑んでしまう。西遊記で見る孫悟空は、きっとこんな感じなのだろう。

 雫が俺の一歩前に出る。


「泣いて馬謖を斬る、って言葉知ってる?」


 背中越しに俺に語りかける。もう間もなく、入り口の扉は崩壊する。ダムが決壊するように、二匹の化け物と、数多の蜘蛛が押し寄せるだろう。


「いや、知らないけど」

「……そう。ならいいわ。今度辞書でも引いてみれば?」

「雫、何を言ってるんだ?」


 背筋がまっすぐに伸びた雫の背中。


「もし」


 その背中は、誰が見ても美しく見えるだろう。仁王立ちというには、あまりにも釣り合いの取れない、美しい背中。


「私に何かあっても、もう、助けなくていいから。あんたは自分のことだけ考えていればいい。分かったわね?」


 ドアの上部が破壊され、そこから蜘蛛が這い出してきた。


「そんなこと、できるわけないだろ!」


 ドアの崩壊は、予想よりも早かった。最初は一匹ずつ侵入してきた蜘蛛だが、蝶番が壊れた頃には、化け物も書庫に入り込んできていた。

 ドアを支えていた戸棚は、ばらばらに壊されてしまって、中に入っていた書類が放り出されてしまう。蜘蛛に踏まれて散り散りになってしまったプリントは、乱雑なシュレッダーにかけられたようだ。


「さっきも言ったけど、アンタといると調子狂うのよ。私は、私。過去も現在も未来も、変わらない私のまま」

「何を……」


 雫の言いたいことが理解できない。蜘蛛と化け物の侵入に思考の大半を奪われてしまって、雫の言葉を吟味することが出来ない。


「これ以上、私の中に入ってこないで」

「しず――」


 俺の言葉を待たず、雫は化け物に突進していった。棒をくるくると回し、最初に飛びかかってきた蜘蛛を上段から叩き落す。

 俺は作戦上、その場から動くことが出来ない。本当は、俺が雫の役を演じるはずだった。だが、雫は強引にその役を奪ってしまった。


「次から次へと!」


 雫の演舞は止まらない。

 高速回転しつつ、流れるように棒を繰り出す。死に体が無いと言ったら、それは言い過ぎかもしれないが、見ている俺にはそうとしか思えない。

 棒の中心を持ち、回転させる妙技。

 複数の蜘蛛が飛びかかってくるのを防ぎ、一匹の蜘蛛に対しては、容赦のない一撃を浴びせる。蜘蛛は本棚にその身をぶつけ、臓物を飛び散らせていく。

 息絶えた蜘蛛の数は、確実に増してきていた。

 転がっている死体の数、折れた足の数は、数え切れない。月光の絶えたこの空間で、ここまで空間を認識できるものなのだろうか。蜘蛛が赤い光を放っているとはいえ、赤い光の軌跡は目に残像を残す。


「私は!」


 残像は互いに重なり、錯覚を生むはずだ。それをものともしないで蜘蛛に打ち込んでいく雫には、鬼気迫るものがある。


「変わらない!」


 雫の気合の声が、蜘蛛の破砕音に混じる。

 化け物が、雫を左右から挟みこんだ。一方は天井から、もう一方は床から。二匹の化け物は、ほぼ同時にその体を宙に舞わせた。

 赤い光がさらに輝きを増す。

 取り込まれた男子生徒の口からは、長い舌が出ている。意識を失った男子生徒のうつろな目は、蜘蛛の光を映して赤く輝く。

 だが、その目が雫をとらえることはなかった。

 振り切った棒を、背中を回すようにして右手から左手に持ち替える雫。隙のないスムーズな持ち手の切り替えは、驚嘆に値する。

 瞬間、雫の口の端が持ち上がった気がした。

 狙いすましたように、モップの先で、鋭く化け物の腹を突く。化け物の腹、つまり男子生徒の背中は、腰が本来曲がるはずのない方向に曲がっていた。

 打撃を受けた化け物は、書棚にぶつかって、本を撒き散らす。

 しかし、化け物は二匹同時に雫を襲ったはずだ。


「甘いのよ」


 雫は一方の迎撃を怠ってはいなかった。

 床を這うようにして雫を襲った化け物は、雫の強烈な足蹴りを浴びていた。女子生徒の顔面にめり込んだ靴。靴が剥がれ落ちた女子生徒の顔には、靴底の跡がはっきりと見て取れた。

 化け物の挟撃を切り抜けた雫に、休む暇はない。

 我先にと、次の刺客が襲い掛かる。

 棒と足を死に体にしてしまった雫は、それに反応することが出来なかった。

 二匹の蜘蛛が、足に取り付いてしまう。

 右足の太ももと、足首に光る蜘蛛の紅玉。雫は額に汗を浮かべながら、死に体だった棒を引き戻す。そして、太ももに取り付いていた蜘蛛を棒の先端で貫く。

 蜘蛛の体を突き抜けた棒を回転させると、蜘蛛はものの見事に雫の太ももから引き剥がされて、そのまま別の蜘蛛に激突した。

 足首に取り付いた蜘蛛も、回し蹴りで同士討ちにされる。蜘蛛の取り付いた箇所で、飛びかかってくる蜘蛛を蹴ることで、二匹の蜘蛛を相殺することに成功したのだ。


「あと、もう少し……」


 俺は雫の動きに驚愕しながらも、壊れたドアを確認していた。

 書庫に飛び込んでくる蜘蛛の数が、明らかに減ってきている。二匹の化け物の体に寄生していた蜘蛛。そのほとんどが剥がれ落ちていて、今は床をせわしなく動き回っている。

 鎧の剥がれた化け物は、今は八割が生徒の形を残していた。


「ケテ、ケテ……とびラヲ……アケ」


 内臓が存在しない生徒は、それでも小さく声を出している。それは、もはや生きているのではない。かろうじて蜘蛛によって生きながらえているといった感じだ。

 雫にやられた衝撃で吹き飛んだのか、肝臓らしき物体が、本と本の隙間に入り込んでいるのが見える。女子生徒の化け物も、肋骨が完全に露出していて、本来あるはずの五臓六腑が消えてなくなっている。


「な……ナイ……シニた……くナ……」


 脳だろうか。

 蜘蛛は脳を侵食することで、人間を制御しているのだろうか。人間としての生きる機能を失っても、脳だけを生かすことで、化け物は化け物として存在している。宿主を得ることで、自らを進化させているのだろうか。

 だが、今はそんなことはどうでもいい。

 ドアから侵入してくる蜘蛛がいなくなったときが勝負だ。化け物の体から生まれた蜘蛛の大群が、全てこの書庫の集ったとき、俺たちの反撃が始まる。


「もう少し……」


 俺がつぶやいたとき、雫は書庫に足をかけて空中に舞っていた。

 足をかけるときも、あえて蜘蛛が歩いている場所を狙う。それによって、蜘蛛を踏み潰すことが出来、なおかつ空中に身を投げることが出来るというわけだ。

 最低限の行動で、最大限の結果を出そうとしている。

 多少の無理でも通そうとする、雫らしい戦い方だった。

 だが、その戦い方は、それなりのリスクを伴っている。

 体に蜘蛛が取り付くのはこれで何回目だろうか。その度に雫の足は赤みが差し、わずかではあるが血が流れ出していた。最大限の結果を得るために、雫は自らの肉を切らせて、蜘蛛の、化け物の骨を絶とうとしている。

 ただ、明白なのは、何度も肉を切らせ続ければ、やがて雫は膨大な出血と疲労に殺されてしまうということ。

 俺は、飛び出していきたくなる衝動を抑えるのがやっと。

 握り締めた拳、手のひらに食い込む爪。

 切り刻まれていく彼女の体を見ている俺の心の痛みは、俺の体が切り刻まれていくのと同義だ。

 そのとき、ドアから侵入してくる蜘蛛が途切れたのが見えた。


「今だ!」


 雫と視線が重なる。アイコンタクトは、作戦開始の合図。

 俺は、あえて残しておいた書棚の隙間をすり抜けていく。どうやら蜘蛛と化け物は、雫だけに狙いを絞っているようだった。

 雫の大立ち回りが、ここになって生きてくる。

 書庫の隙間から、雫の戦う姿が見えた。

 俺が待機していた場所に、少しずつ後退していく。書棚を回りこんだ俺は、入り口のドアに近い位置に出た。雫に集中しているため、ドア付近には蜘蛛はいない。

 恐ろしいほどの蜘蛛の大群が、雫だけに襲い掛かっている。

 赤い光で埋め尽くされて、雫の姿が確認できない。

 俺は、クランクを握り締める。


「雫!」


 俺は叫び、腕が千切れるのではないかというぐらいにクランクを回した。書棚が、迫り来る壁のように、右の書棚へじりじりと寄っていく。一部の蜘蛛が俺の存在に気がついたようで、三つの赤い瞳を俺に向けた。


「雫!」


 雫の姿が確認できない。雫がいるはずの書棚の奥は、大量の蜘蛛が放つ赤い光で充満している。まぶしいぐらいの光で、雫の姿が確認できない。

 俺は、それでもクランクを回し続けた。

 あきらめたわけでも、割り切ったわけでも、見捨てたわけでもない。

 信じているから。

 赤い光が、勢いよくはじけ飛ぶ。

 そこから飛び出してくるものがあった。

 猛スピードでこちらに向かってくる。

 喜びに満ち溢れそうになる顔を抑え、俺はさらにクランクを回し続ける。


「雫!」


 俺の歓喜に答える声。


「シニ……しに……たクな……イ」


 それは、化け物だった。俺は絶望に打ちひしがれる。

 クランクを回す手が止まってしまう。

 雫の姿が見えない。

 奥で蠢いている蜘蛛の群れが、俺に向かってこないのはなぜだ。

 何に夢中になっているんだ。

 蜘蛛が奥に群がっているのは――



 ――雫を貪るのに夢中になっているからではないのか。



 化け物が俺に向かってくる。このままでは間違いなく死ぬだろう。

 ……結局、俺は雫を見捨てたのだ。

 自分の意志を、偽善を貫くことが出来なかった。大切な人を誰一人として守れなかった。何ひとつとして満足に出来なかった。

 最低で最悪だ。

 ……絶望が、俺の体を蝕んでいく。



「あきらめるんじゃないわよ!」



 二度、赤い光がはじけ飛ぶ。


「百二十パーセントを期待しろって言ったでしょう!」


 走りながら、所々に取り付いた蜘蛛を叩き落としていく。

 高速で回転する棒は、まさに竜巻のようだ。周囲を激しくなぎ払う。

 俺は、取り戻した力でクランクを回す。

 涙腺が弱くなっているのではないだろうか。クランクを回す度に、目の前が霞んでいく。


「邪魔なのよ!」


 俺に飛びつこうとする化け物に追いつき、後ろから叩き落した。

 滑り込むように地面に倒れる化け物。その背中、生徒で言うところの腹を踏み台にして、雫は書棚から抜け出す。全身に傷を負いながらも、雫は無事に責務を果たした。最後は足がもつれたのか、勢いあまって入り口のところで転んでしまう。

 その拍子に、ポケットに入っていたナイフが、床に転がった。

 雫は、それでも力強く立ち上がると、俺に力を貸そうとする。

 クランクを回す俺の手を握り、力を込める。

 二人の力が、書棚と書棚の隙間を埋めていく。

 やがて書棚は、圧搾機のように、蜘蛛と化け物を挟み込んだ。

 この世のものとは思えない、おぞましい音が書庫に響く。

 書棚の間からは、おびただしい量の赤い液体が流れ出て、それは滾々と湧き出る温泉のように、床に広がっていった。


「百二十パーセントでしょう?」


 書棚を利用して蜘蛛を一掃しようとは考えていたが、全滅を予想してはいなかった。

 最高の結果だ。


「ああ……さすがだよ」


 かすれてしまう声を、誤魔化すことは出来なかった。


「ま、私にかかればこんなところね」


 腕を組んで、自慢げに鼻を鳴らす。

 蜘蛛と化け物の数がいかに膨大だったかが、密着しない書棚と書棚から理解できる。その隙間からは、雫が足蹴にした化け物が見える。軟体動物のように、体があちこち複雑に曲がっている。生徒の血と、蜘蛛の血が混ざり合って、こちらに広がってきていた。

 ぴくり、と化け物が動いた気がした。


「あ、生きてたんだ。弱虫さん」


 雫の声がしたほうを振り向く。

 そこには、怨念をたぎらせた佐藤が、ナイフを握り締めて立っていた。


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