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第二十八話・「……もう少しだけ」

 雫が自分の非を認めるような発言をするのは、初めてだったから。それ以前に、誰かの意見を、悪態なしに素直に受け入れたことが信じられなかった。


「上手く説明できない。アンタが偽善を貫くのは虫唾が走るわ。でも、アンタを死なせるのも気分が悪いのよ」


 俺を振り向かずに、淡々と言葉をつづった。走りながらでも、言葉ひとつ濁さない雫の体力は、もはや常人の域ではない。


「クナ……しに……タく」


 天井から俺たちを追跡する化け物。


「ビらト……びら……ヲアケテ……」


 蜘蛛を押しのけながら、もう一匹の化け物が床を這い回る。

 雫は書庫に続く扉を蹴破った。

 蝶番は何とかその衝撃に耐えたのか、開いた扉は、限界まで開くと、バウンドして再び閉じようとする。

 その少ない時間で、雫はまず俺を書庫の中に荷物のように放り込み、自らもドアの隙間に身を滑り込ませる。

 ドアが閉められるのを見越してか、複数の蜘蛛が赤い放物線を描いた。ドアの隙間に大挙して押し寄せる蜘蛛。

 赤い波を見て、雫は忌々しそうに頬を歪めた。

 体全体を使って、体当たりするようにドアを閉める。ドアの隙間に体をねじ込んだ蜘蛛は二匹。一匹は体をドアにはさんでしまい、胴体と頭部がねじ切れた。

 もう一匹は、足を失う代償ですんだようだ。

 四本の足を失った蜘蛛が、上手く着地できずに書庫を転がる。

 半分の足を失った蜘蛛は、動きにくそうにしながらも、本能のみで雫を襲おうと走り出す。


「下等生物のくせに」


 雫の無慈悲な言葉が、蜘蛛の死刑宣告だった。

 雫の靴底が、蜘蛛の赤く輝く目玉を踏み潰す。

 光る目玉は、踏まれた衝撃で飛び出して、俺の足元にころころと転がってきた。本体を離れてからもしばらく目玉は光り輝いていたが、やがて死を迎えるようにゆっくりと輝きを失っていった。


「正臣! そこにある戸棚をこのドアの前に!」


 背中で扉を押さえる雫の体が跳ね上がる。ドアの向こうでは、信じられないような蜘蛛の大群と二匹の化け物が、ドアを破壊しようと力任せに体当たりをしているに違いない。

 俺は、書庫に関するあらゆる資料の詰まった戸棚を、何とかドアの前に持ってくると、力任せに押し倒した。これでしばらくはもつはずだった。

 だが、木製のドアの耐久力は低い。

 いくら押さえをつくろうとも、ドア自体の耐久力が限界を迎えてしまえば、それでおしまいだ。壊れたドアの隙間から、無限に蜘蛛が侵入してくるだろう。より多くの障害物を作れば、蜘蛛の侵入をふさぐことが出来るかもしれないが、残念ながら書庫にはこれ以上動かせるものはない。

 無駄なものを廃したスペースにあるのは、可動式の書棚と、その中に敷き詰められた貸し出し厳禁の本。加えて、俺が握り締めていた元モップであった棒と、雫の左手にある文学全集。

 窓もあるにはあるが、何せここは三階だ。落ちればただではすまない。遅かれ早かれ、怪我をした俺たちは、化け物に食い殺されるだろう。

 絶体絶命。俺の頭にそんな言葉が浮かんだ。


「考えがあるって言ったわよね」

「……言った」


 絶体絶命の状況を切り抜ける妙案ではないかもしれないが、その案は確かに俺の頭の中にある。


「聞かせてくれる? 参考までに」


 腕を組んで、床に転がっている俺を見下ろす。

 書庫に放り込まれた俺は、立ち上がるのもつらいぐらいに、筋肉が悲鳴を上げている。


「雫の案はないのか?」

「質問を質問で返されるのは嫌い」


 腰に手を当てて、俺の顔を覗き込んでくる。鋭い眼光に、俺は気圧されるばかりだ。


「いい? 私はアンタに賭けてやるって言ってるの。自信を持って話しなさいよ。そんなんじゃ、台無しよ」

「台無し?」

「……別に。深い意味はないわ」


 俺を上から覗き込んでいた雫の顔が、そっぽを向いてしまう。

 髪の毛が、シャンプーのコマーシャルのようにその動きに従った。


「……ごめん。そんなにいい作戦ではないんだ」

「もう! そういう態度止めてくれる? ほら、立ちなさいよ」


 筋肉の酷使で立ち上がれない俺に、雫が手を差し伸べてくる。白くて繊細な手。戦いで傷ついてしまった手。


「ここまで来たら、付き合うしかないでしょ。少し癪だけど、アンタの駒になってあげるから、自由に言ってみなさいよ。ちなみに、百二十パーセントの結果を期待していいわ」


 俺は差し伸べられた雫の手を取る。

 女性に似合わない腕力で、雫が強引に引っ張りあげるものだから、俺は勢いあまって雫の胸に飛び込んでしまう。

 誰も見てはいないだろうが、それは他人から見れば、立ったまま雫に抱きつくような格好だ。


「……アンタが落ち着くなら、少しぐらいこのままでもいいわよ」


 俺は狙って雫を抱きしめたのではない。俺は極限の状況下で、そんな狡猾なことを考えられる人間ではないから。

 雫の身長は俺とほぼ同じだ。俺よりも少しだけ背が小さいくらい。そのせいで、雫の顔がより近くに感じられる。

 息遣い。頬の体温。髪の毛のきめ細やかさ。

 様々な情報が俺の胸を締め付ける。


「……ごめん」

「べ、別に。慣れてるから」


 雫にしては珍しく言葉につまづいた。

 俺の胸の高鳴りは、雫にも伝わっているはずだ。これだけ体を密着させてしまっては、隠すものなど何もない。

 心音も、体温も、緊張も、二人の間を行ったりきたりする。

 ドアが今にも破られそうだった。

 ドアにはひびが入り始め、内側の木の色が見え始める。戸棚の重量も慰め程度にしかならない。

 切迫しているはずなのに、俺の心中は少しずつ落ち着いていく。不思議なくらいに落ち着いていく。ただ、腕の中にいる雫を感じるためだけに、研ぎ澄まされていくようだった。


「もう、いいでしょ。放しなさいよ」


 雫は唇を尖らせて抗議する。どこか子供っぽく、かつ、雫らしい大袈裟なリアクションが、心をくすぐる。

 仮面の奥の素顔をのぞきたくなるような好奇心が、俺を満たしていく。


「……もう少しだけ」


 数分後には死ぬかもしれないというのに、俺は何を言っているのだろう。

 外側では、死をもたらす化け物が蠢動し、俺たちの肉をむさぼろうと舌なめずりをしている。死の気配が迫ってきている。


「変態偽善者ここにありけり、ね」


 だからこそ、俺はこのわずかな時間を感じていたかった。

 俺の思いが伝わったとは思えない。けれど、大きく息を吐いた雫が、俺の背中に手を回してきた。

 気持ちを切り替えたのだろうか。それとも、呆れたのだろうか。

 いずれにせよ、それは雫にしか分からない。


「こういうときでもなかったら、殴り飛ばしているんだから。そこのところ、分かってるんでしょうね」


 とげとげしいはずの台詞なのに、今はその棘がない。

 照れ隠しのように聞こえてしまうのは、俺の自惚れなのだろう。


「このままでいいから、作戦、説明してもらえる?」

「……ありがとう、雫……」


 耳元でささやくように、俺は雫に心からの感謝を伝えた。涙が出そうなほどの感謝。

 真っ暗闇の中で、確かな白い輝きがある。真っ暗闇のトンネルの先に現れた、小さな光。曙光。

 それが雫だった。


「な、慣れてるから」


 俺は、破られそうになるドアの破砕音を聞きながら、雫への感謝を繰り返した。


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