第二十七話・「やるじゃない」
「シニ……タク……なナ、ナい……」
男子生徒の化け物は、俺の方へ。
「トトト、びらを、アケ……アケテ」
女子生徒の化け物は、雫の方へ。
俺たちは、背中を向け合う形で、化け物と対峙する。
化け物の赤い目が輝きを増した。
俺は重心を低くして、モップの柄を横に構える。男子生徒の背中から生えた足を曲げて、化け物は跳躍する。そして、天井に張り付き、俺の頭上から急降下。
全身に張り付いた蜘蛛の赤い目が光っていなければ、俺は反応すら出来なかっただろう。
俺は体を回転させて、その場をしのぐ。
机の上に着地した蜘蛛は、すぐさま全身に張り付いた蜘蛛の目を動かして、俺の位置を探る。天井に張り出すような男子生徒の腹部からは、小腸が垂れ下がっており、跳躍の衝撃で大腸までもが飛び出していた。それでも声を出している男子生徒は、果たして生きていると言えるのであろうか。
「シニ……シニ……タたタ」
男子生徒の目がぐるぐると回る。
俺は化け物の背後に回りこもうとする。
だが、化け物は一足早く俺を発見すると、再び跳躍した。先ほどと同じく天井に張り付く。
割れた蛍光灯の破片が、ぱらぱらと床に降り注いだ。
「タタ……タタた、クナ……イ」
化け物の体が、痙攣する。ふるい落とすように体にまとった蜘蛛の大群を床にばら撒いていく。さながらそれは、赤い雪だ。真っ赤な目を持った蜘蛛が次々に床に着地していく。
机の上、椅子の上、そして、床の上。
音もなく着地しては、俺の周囲を取り囲むようにして移動していく。赤い包囲網が完成しつつあった。
俺は先手必勝とばかりに、包囲の薄い方向に走り出す。
囲まれたら終わりだ。
俺は飛んでくる赤い光を切り払う。自動車のテールランプのように、赤い尾を引きながら蜘蛛は突進してくる。頭部を襲ってきた蜘蛛は、上段からの切り下ろしで、真っ二つに。
蜘蛛の骨格を潰す、ぐしゃり、という音と、内容物が床に叩きつけられる、べちゃり、という二つの音が、蜘蛛を迎撃するたびに室内に響く。
正直に言えば、俺は震えるほどに怖い。
しかし、今日一日で幾度も経験してきた恐怖や悲しみが、化け物に対する耐性を作り始めていた。つまりは、慣れだ。
俺はなるべく体を回転させ続けるよう意識しながら、死角を補っていく。雫がそうするように、回転の動作の中に攻撃を織り交ぜる。
机の上に乗った蜘蛛が俺の頭部に、床を移動してきた蜘蛛が俺の足に取り付こうと加速した。
頭部を襲った蜘蛛を、回転をかけた一撃でなぎ払い、さらにもう一ひねりを加えて、足元を移動する蜘蛛を蹴り飛ばす。
本棚に激突した蜘蛛は、バウンドして床に落ち、弾き飛ばした蜘蛛は、机の上を滑っていき、壁にぶつかって破裂した。
破裂した蜘蛛を見て、佐藤が悲鳴を上げる。
次々と俺に殺されていくのに業を煮やしたのか、男子生徒の化け物は、天井に張り付いたまま、俺のほうへ移動を始める。男子生徒の首が揺れ、赤いよだれが滴り落ちる。
左右からは蜘蛛の群れ。前方からは天井に張り付いた化け物。
三方向からの敵。
完全に追い詰められた。
化け物の赤い瞳が不適に輝く。それは、俺を殺そうと跳躍する合図だ。
だが、化け物はものの見事に着地に失敗する。
「がら空きなのよ、後ろが」
机の上からの跳躍を利用して、勢いのついたモップを天井の化け物に叩きつけていた。横っ腹に打撃を受けた蜘蛛は、バランスを崩して、床に腹を向けた状態で転がる。それを雫は見逃さない。
モップを縦にして、化け物に突き立てようと走りこむ。
「これで、終わりよ」
腹を見せた蜘蛛を殺そうと、振りかぶる。
女性との化け物がその隙を逃すはずがない。背中を向けた雫に対して、蜘蛛を発射する。発射といっても、射出機構があるわけではない。
体を回転させた遠心力で、蜘蛛を飛ばしたのだ。
下手な鉄砲も、数を撃てばいつかは当たる。
何十という蜘蛛がばら撒かれ、赤い弾幕がはられた。そのうちのひとつが、運悪く雫の背中にクリーンヒット。雫は前のめりの床に突っ伏し、モップを手放してしまう。
床に手をついた雫に、背中を襲った蜘蛛が飛びかかる。
俺は床を蹴って雫に近づき、背中ぎりぎりをなぎ払った。
雫の背中に取り付こうとしていた蜘蛛を打ち返す。
だが、それで終わりではない。
ちょうど円状に飛ばされた蜘蛛の軍隊は、俺たちを包囲する形で着地していたのだ。
まさに、四面楚歌。
「雫!」
俺はモップを雫にパスする。転がっていたもうひとつのモップを拾い上げて、包囲網のひとつに飛び込んでいく。
「やるじゃない」
雫が笑みを浮かべた。右手でモップをがっちりと受け取った雫は、右から飛び込んでくる蜘蛛に視線をくれずに、弾き飛ばした。
倒れていても、周囲の状況は把握していたということか。
もしかしたら、俺の助けなど要らなかったのかもしれない。
包囲網を突破しようとする俺に、赤は殺到する。
数え切れない蜘蛛の大群が、一斉に俺の頭上から降り注いだ。まるで赤い花火。
俺はあえてそれに抵抗しない。
全ての蜘蛛が俺の頭上から急降下しようとしているため、下ががら空きなのだ。腰を落として、足をたたむ。
野球部で言うところのスライディング。
制服が床にこすれる摩擦熱が、俺の膝を焼いた。包囲網を突破した俺は、スライディングの姿勢から素早く立ち上がり、居並ぶ書架の中に飛び込んでいく。
ちらりと雫を見れば、どうやら俺と同じ考えだったようだ。
考え方としては単純だ。
三百六十度が見渡せる読書スペースで戦うことは、数で攻める蜘蛛にとっては絶好の戦域だ。
一方、本棚が整然と並ぶここは、左右を本棚で覆われているから、単純な話、前後だけに気を配ればいい。
少しでも蜘蛛の絶え間ない攻撃を緩慢にさせようという狙いだ。
しかし、それは逆に逃げ場を失うことを意味する。
前後を封じられてしまうのだから、容易には逃げられない。
前門の虎、後門の狼――一難去ってまた一難。
「見通しが甘かったようね」
俺の背中に、雫の背中が触れた。二人で背中を支えあう形だ。
「雫、ひとつ考えがあるんだ」
「発言を許可するわ。言ってみなさいよ」
「奥に、普段はかなり古い本ばかりが置かれている書庫があるだろ」
「貸し出し厳禁のやつね」
雫の背中が離れる。
俺たちのいる書棚をつきとめた化け物が、雫に飛び掛っていた。雫はそれを袈裟切りに打ち払おうとするが、ただでさえ狭い本棚と本棚の間、モップが本棚に引っかかってしまう。
雫の苦渋の選択。
モップを横にして化け物を受け止めようとする。だが、それはあまりにも無謀だった。化け物の重量を受け止めることが出来ずに、床に押し倒されてしまう。
「とと……ビラヲ……」
女子生徒の逆さまに垂れ下がった顔から滴る血が、雫の頬に落ちていく。女子生徒の口からは、大量の触手が吐き出され始める。それは個々に自由意志を持っているようで、全てが別々の動きをしていた。
雫を選別するように全身を嘗め回し、やがて狙いを定めたように、口を狙って直線的に動く。銃弾のように放たれた触手の束を、雫は顔を動かすことによって、何とかかわした。
首元を通過した触手は、床に突き刺さる。
「まさか、女同士でセクハラされるとはね!」
雫の細く、しなやかな足が、化け物の腹部を蹴り上げた。雫から引き剥がされた化け物は、書棚にぶつかって床に落ちる。床に尻をつけたままの雫を放っておくほど、蜘蛛の群れは紳士的ではない。
化け物に代わって獲物を得んとする蜘蛛が、津波のように連続して襲いかかった。
尻餅をついた格好から起き上がる雫。化け物を蹴り飛ばしてから、一秒も経過しないうちの追撃。
舌打ちをする暇もない。
「早く書庫に!」
俺は雫をかばうように正面に立つ。
「自分のことを心配しなさいよ!」
立ち上がった雫は、両手を本棚に伸ばして、文学全集を握り締める。
立ち位置が入れ替わった俺と雫。
俺は雫をかばうように雫の前に出、雫は俺の背中に迫る蜘蛛を持った辞書で叩き落す。
正直なところ、雫は俺に迫った蜘蛛ではなくて、あくまで自分に迫る蜘蛛だけを迎撃しているのかもしれない。
「アンタの尻拭いを――」
それでも、雫の迎撃をかいくぐって、俺の背中に取り付く蜘蛛は存在しない。
「なんで私がしなくちゃいけないのよ!」
俺に助けられていると勘違いしているのか、かんしゃくを起こして、右手に持った文学全集を化け物に投げつけた。俺は蜘蛛を打ち落とすことに神経を傾けていたが、雫の怒声にびくりと肩が跳ね上がってしまった。
雫は、蜘蛛の迎撃で手一杯の俺の手首を取る。
「アンタがいると私の調子が狂うのよ!」
雫の悔しそうな顔。
「各個に応戦するのは分が悪いわ! 実力的にも、アンタは特に!」
右手に俺の手首を握り締めたまま、左手に持った文学全集で、蜘蛛の群れを叩き割って進む。
俺はもつれるようにして雫についていくだけだ。
蜘蛛の群れを押しのけるように、化け物が俺を追跡してくる。
俺はその刹那、ちらりと佐藤のほうに目をやった。
暗くて佐藤の様子はよく分からないが、蜘蛛の群れが佐藤のほうに行った様子はない。陽動には成功しているようだ。雫にすれば、陽動しているつもりはないだろうが……。
本棚という本棚に、蜘蛛の光があふれていた。
赤い洪水が、本棚の隙間を流れてくる。なるべく蜘蛛の少ない本棚の隙間を移動しながら、雫は目的の書庫へ走っていく。
雫に強く握り締められた手首が痛みが走った。
「雫! 痛いって!」
「アンタ、一人で逃げられるとでも思ってるの?」
「そういうわけじゃ……!」
「アンタみたいな偽善者は、結局誰かの助けがないと、自分の意志なんて貫けやしないんだから!」
光り輝く赤の奔流が、天井から、本棚から、床から、俺たちに魔の手を伸ばす。
「言ってることと、していることが矛盾してるぞ!」
「何がよ!」
「だから! 雫は一体何がしたいんだってことだよ!」
雫は黙って走り続ける。
疲れて声が出せないのではなく、思案している間のように感じられた。
学校にあるとは思えない広大な書籍群を駆け抜けながら、俺たちは奥へ奥へと進んでいく。
「確かに、矛盾してるのかもしれないわね」
「……は?」
耳を疑うような発言だった。