第二十五話・「来る!」
雫の見ている廊下の先は突き当たりで、左右に廊下が分岐している。
左は職員玄関で、右は第一棟につながる廊下、という構図だ。
その第一棟につながっている廊下から、足音が聞こえてくる。
「一人……違う、三人……この場合、三匹と言ったほうがいいのかもね」
足音は、こちらに向かってだんだんと大きくなる。すぐにでも突き当たりに飛び出してくるだろう。
「来る!」
俺の口をふさいでいた手を戻して、雫が身構えるのと同時に、それは姿を現した。
廊下の突き当たりに手をついて、息を荒げている。
背後を執拗に気にしながら、もつれるように再び走り出す。廊下の先にいる俺と雫を発見したとき、まるで藁をもつかむような勢いで、それはすがり付いてきた。
「た、助けて!」
雫の制服の袖にすがりつく佐藤。雫はそれを鬱陶しそうに振り払うと、大きく鼻で笑う。
「見捨てた人間に、助けを求められるとは思わなかったわ」
紫電の瞳が、佐藤を恐怖でのけぞらせる。助けを求めようとする佐藤の手が、引っ込んだ。
「そんなこと言ったら、こいつだってそうじゃないか!」
佐藤は雫に訴えるように、俺を指差す。懇願するような媚びた目で、雫を見ている。
一方で、ちらりと俺に向けられた目は、明らかに敵に対して向けるものだった。
「ま、それもそうね。でも、私はあの後、正臣に助けられてるのよ。残念ながら」
手を振ってため息を漏らす。
「でも、こいつは助けを求めてる僕たちを見捨てたんだ!」
「私を一緒にしないで。私は助けなんて求めてないわよ」
雫のぶっきらぼうな言葉に、拳を震わせる佐藤。
「おい、お前! 今僕を馬鹿にしただろ!」
佐藤の怒りの矛先が俺に向いた。
みっともないほどに顔を紅潮させ、なおかつ、こめかみには青筋が浮き出ていた。
俺はそんな佐藤の激情に驚いて、声も出せない。
「僕を笑っただろって、言ってるんだよ!」
「笑ってなんかない。ただ、驚いただけで」
息も絶え絶えになっているのに、怒鳴ってくるものだから、佐藤は咳き込んでしまう。
呼吸困難にでも陥ってしまいそうな佐藤は、確実に冷静さを失っている。目をきょろきょろさせて落ち着きもない。
「それより、アンタ一人?」
雫より背が低い佐藤を、見下して問いかける。雫は、誰かの上に立って物を申すのが好きなようだった。もちろん、身長ではなく、態度の意味で。
佐藤は、雫の言葉で我に返り、自分が走ってきた廊下に目を向ける。
「追われてるんだ!」
大声を上げた佐藤が、再び雫の袖にすがり付こうとしたとき、佐藤を追跡していたそれが、廊下を曲がって姿を現した。ただし、廊下を曲がったといっても、廊下にはいない。
「バリエーションが豊かなのは、飽きられないための大事な要素だってことは認めるわよ。でも、こういうのは嫌」
佐藤と俺は、声を出すことも出来ない。
「トビラ……を……あけ…テ」
人間という生き物は、見た目で判断すると、どこまでが人間なのだろう。
「ヲヲヲ……アケ……て?」
天井に背中をこすり付けるようにしながら、こちらに正気を失った目を向けてくる。
背中からは、蜘蛛の足が飛び出していて、がっちりと天井をつかんで体重を支えている。腹と胸、足、顔には相変わらず蜘蛛の大群が取り付いており、手だけが廊下に向かって垂れ下がっていて、人間であった証拠を残している。
「何かで見たわ、こういうの」
「エクソシスト、だろ」
「あったわね、そんな映画」
鎧のように蜘蛛をまとった化け物を見てきた耐性か、俺は自分でも驚くくらい冷静に、記憶の引き出しを開けることが出来ていた。
「シニ……たくな……イイ」
一匹目と同じ経路をたどるように、二匹目が姿を現した。天井を這ってくる二匹の化け物は、全身にまとった蜘蛛の赤い光で、不気味に輝いている。
どうやら、完全に標的にされたようだった。
雫はポケットに手を入れて、ナイフを握り締める。
「逃げよう。いくら三人でも、これは」
「……場所を変えるわよ」
雫は徐々に後ずさりを始めている。
「……嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だあああぁ!」
佐藤は背中を向けて、真っ先に逃げ出した。転びそうになりながらも、何とか這いつくばるようにして駆け出す。
それが、号砲だった。
瞳を輝かせた化け物が、天井から落ちてくる。
背中から飛び出した足のほうを、地面に向けて着地したということは、人間の背中が、蜘蛛にとっては腹側ということなのだろうか。
人間の頭が、廊下にぶつかる鈍い音がこだまする。
俺は、佐藤に続いて走り出した雫の後を追う。ぎりぎりのところで振り向きながら、俺は化け物との距離を測った。
蜘蛛と一体化した人間が、ブリッジをしながら駆けてくるさまは、映画さながらだった。
ただし、人間である部分はごくわずか。
地面を蹴っているのは蜘蛛の足であり、正確にはブリッジなどはしていない。手、足、頭は引きずられて、その度に赤い波線が廊下に描かれる。
紛れもなく、それは血液だ。
俺たちは階段を一段飛ばしで上る。このまま延々と廊下を走る体力勝負では、分が悪いと踏んだからだ。
……体力の差だろうか。三人の逃げる順番が入れ替わっていた。
先頭が雫、次に俺、そして最後尾が佐藤だ。
佐藤は走って逃げてきた上に、さらに走らされている。きついのは当たり前だ。
「ま……待って! ……僕を置いて……行かないで!」
佐藤が俺の袖をつかんでくる。俺はバランスを崩して階段に倒れてしまった。転がり落ちなかったことが不幸中の幸いだった。
階段に座るように倒れた俺は、化け物が上ってくる様子をしっかりと視認した。
化け物は階段を上ってきてはいない。
階段の壁側に張り付いたまま追いかけてきている。
二匹は互いの距離を保ったまま、俺との距離を詰めてきた。
順番が入れ替わった俺と佐藤。
佐藤は、転んだ俺をこれ幸いに、助け起こそうともせず階段を上っていく。俺は口から吐き出したい怒りの衝動を押さえ込んで、二人を追いかけた。
体力も限界に差し掛かる三階。
ここからは屋上に続く階段のみだ。第一棟とまったく同じ構造の第二棟。窓の外を眺めれば、月明かりに照らされた生徒会室が同じ高さにある。
雫は廊下をトップスピードで走り抜けている。怪我が全快したとは思えないが、それにしても軽快な走りだ。
雫は走りながら俺たちを振り返る。
「死に物狂いで走りなさいよ!」
俺たち二人は返事すら出来ない。疲労で衰えるスピード。背後から迫る化け物。差は詰まるばかりだ。
走ろうとする意思に、体がついていかない。
途中、佐藤のせいで転んでしまった俺は、佐藤よりも離れた地点を走っている。佐藤と化け物、どちらが近いかといえば、それは残念ながら化け物だ。
雫が物々しい扉の前で立ち止まる。どうやら図書室に逃げ込もうという算段らしい。
「正臣! 鍵よこしなさい!」
背筋が凍るような思いだった。マスターキーは俺が持っている。俺が到着してから鍵を開けるとなると、背後に迫る化け物との距離からして、三人は完全に化け物に殺されてしまう。
蜘蛛に全身を覆われた事を思い出して、身の毛がよだつ。
「鍵を投げてよこせよ!」
佐藤は図書室に着くやいなや、疲れなどどこ吹く風で発狂した。
俺は化け物の足音に精神と体力を削られながらも、ポケットから鍵を取り出し、佐藤に向かって放り投げた。
廊下を一直線に走る銀色の弾丸。
俺の投擲力などたかが知れたもので、投げた鍵はすぐに重力に負けて、廊下を滑っていく。
滑っていった鍵は、佐藤の上履きにぶつかって止まる。佐藤は大急ぎでそれを拾い上げると、焦慮と汗をみなぎらせた顔で、鍵穴に差し込もうとする。
「ああ……入れよ! この、入れって!」
震える手のせいで、鍵を上手く差し込むことが出来ないようだった。
ミスをすればミスをするほど、焦れば焦るほど、次の成功が遠のいていく。ミスは体をさらに硬くさせ、焦りは更なる焦りを呼ぶ。
迫る化け物との距離は、絶望までのカウントダウンだ。
「アンタ、とろいのよ! 貸しなさい!」
佐藤を押しのけて、雫が鍵を奪い取る。
俺は、廊下の半分まで来たところで、足元がもつれて転んでしまう。
疲れか、焦りか、恐怖か。
いずれにせよ、転んだことは命取りになる。
突然、月明かりがあるのにもかかわらず、俺の周囲が黒く染まった。
風を切る嫌な音がする。化け物の足音が聞こえない。
転んで手を着いたまま、俺は肩越しに背後を振り返る。
見えたのは、化け物の腹。
同化した人間で言うところの背中部分。顔面を血で染める生徒の顔が逆さまになって俺に迫る。
俺は廊下を横に転がるしかなかった。
俺がいた場所には、蜘蛛の太い足が突き立っている。全身に巣食う蜘蛛の赤い目が、一斉に俺を見た気がした。
みっともない格好のまま、俺は走り出す。四本足で走る動物のように、手を使いながら。
「開いた!」
雫の歓声が聞こえた。佐藤は開いた扉にいち早く体を滑り込ませていく。押しのけられる形になった雫は、怒りで廊下を踏み鳴らしていた。
飛び掛った化け物に代わり、ニ匹目の化け物が先頭を切る。
俺に飛び掛った一匹目の化け物は、男子生徒を取り込んだ化け物。
二匹目は、女子生徒を取り込んだ化け物だ。長い髪が、まるで化け物のひげのように、ゆらゆらと揺れている。
俺と化け物との距離は、五メートルもない。時間に換算したら一秒もないのではないか。
「正臣!」
雫が観音開きの片側を開けて待っている。普段の雫ならば閉めかねない扉だった。身の安全を最優先に考えそうな雫だからこそ、俺はそんな雫の行動が嬉しかった。元気付けられた。
足に力が戻ってくるようだった。
「閉めるわよ!」
次第に扉の間隔が狭くなる。時間制限がある扉ということなのだろうか。なんとも雫らしい。
「も、もう閉めたほうがいい! 間に合わない! あいつのせいで僕たちまで殺される!」
雫が持つ扉の取っ手を握り、閉めようとする佐藤。
先ほど抑えた怒りを、雫は忘れていなかったのだろう。そんな佐藤を右腕の一閃で、振り払った。
鼻柱に裏拳を見舞われた佐藤は、鼻を両手で押さえて尻餅をつく。
鼻からは、大量の血が流れ出していた。
俺はラストスパートをかける。
体内の酸素を全て燃やす。肺は悲鳴を上げていて、視界もどこかぼやけている。
ランナーズハイ。
周囲の景色は消え去り、扉と雫しか見えなくなる。化け物の恐怖は、どこかへ消えた。ただ図書室に飛び込むためだけに、俺は最高速度で走り続けた。
ゴールテープを切るように扉の中に入ると、俺は走るスピードそのままに、図書室の床に無様に転がった。
雫が体中の力を使って扉を閉める。女子生徒の化け物が、飛び上がるのが見えた。体を滑り込ませようとしている。
雫が早いか、化け物が早いか。
――勝負は、雫の勝利で終わった。
化け物の足が、閉じられた扉に挟まって千切れる。太い足が雫の前に転がった。
化け物が扉にぶつかる轟音。千切れた足から漏れる、血液に似た赤色の体液。
雫はすぐさま扉に鍵をかけ、俺たち同様、床に尻餅をついた。
「これで何とか乗り切ったわね……」
肺に大量の空気を送り込みながら、安堵の一息。
俺も何か声をかけようかと思ったが、限界まで酷使した体は、言うことを聞いてはくれなかった。
佐藤は、止まらない鼻血に悪戦苦闘している。持っていたハンカチは、すでにぐっしょりと赤で濡れていた。
恨めしそうに雫を見てはいるが、当の本人は気がついていない。
俺は床に大の字になる。ひんやりと冷たい床が、火照った体に気持ちいい。
さすがの化け物も、分厚い図書室の扉からは侵入できないようだった。扉に体当たりしたり、足で削るような音が繰り返されたりしていたが、やがて無駄だと分かったのか、化け物の音は彼方へ去っていった。
この地域でも有数の蔵書数を誇る、我が高校自慢の図書室。
普段は、生徒に混じって一般客も訪れているほどだ。貴重な本も多々あるので、扉はもちろん厳重にしてある。
今このときだけは、学校の設備に感謝するしかなかった。