第二十三話・「スクール・オブ・ザ・デッド」
思い返すと、職員室を訪れたときには、すでに事件は始まっていたのかもしれない。
遅刻手続きをするために職員室を訪れた。そこは無人で、プリントが散らばっているだけだった。そもそも職員室が無人なんてことはありえないのだ。
俺がそのことに気がついていれば、こんな事件に巻き込まれることもなかったのかもしれない。
「こう沢山机があると、どこから探していいものか迷うわね」
雫が腰に手を当てて職員室を見回す。月のおかげで光源に困らないのが、せめてもの救いだ。
「正臣、アンタ遅刻してきたのよね」
職員室の入り口に立つ俺を振り向いて、指を突きつけてくる。
「ああ、そうだけど」
「だったら、職員室に入ったとき、不自然なことなかった?」
「不自然なこと?」
俺は腕組をして朝の光景を思い出す。
「香奈と一緒に職員室に入って……誰もいなくて……プリントが散らばっていて……」
巻き戻した記憶を、スローで再生していく。細かい見落としがないか、しっかり確認するためだ。
「香奈がプリントを片付けるって言い出して、俺は先に教室に戻った」
「……ふうん、あの女がね」
雫は教務主任の机に腰掛けている。足を組み、あごに手を当てて思案にふけるさまは、さながらロダンの彫刻、考える人だ。
「他には?」
「他か……特に不思議なことはなかったかな。職員室には誰もいなかったし、ましてや、怪しい人間がいたわけでもないしな……」
「そう」
教務主任の机から降りると、机の引き出しを開けて、中に詰まった書類を引っ張り出していく。
「あ、これ私の携帯電話! 没収されたの忘れてたわ」
「……まさか、それを探しに来たなんて言わないよな」
「使えないなら、意味がないじゃない」
興味がなくなった玩具を放り投げる子供だ。雫の携帯電話が放物線を描いて飛んでいく。
「捨てることはないだろ。思い出とか詰まってたりしないのかよ」
香奈がポケットにしまっていた携帯電話を思い出す。
「思い出なんて、無駄な記憶よ。思い出して悲しむくらいなら、初めから無かったほうがいいわ」
机の引き出しを勢いよく閉める雫。八つ当たりをしているように見えた。
「なんで、思い出が悲しいものだなんて決め付けるんだ?」
「甘やかされて育ったアンタなんかには、分からないわよ。親の愛をまったく受けられないで育った、私の気持ちなんか」
背筋をピンと伸ばした雫の背中が、孤高を思わせる。
群を抜いているが故の、孤高。誰も寄せ付けることなく、交わることなく、ただ己の道を進んでいくだけ。
足をくじいても、心が折れても、脇で支えてくれる人はいない。
それは、とても悲しいことなのではないか。
「雫……」
無意識のうちに言葉が口から出てしまう。
「なによ?」
「あ、い、いや……なんでもない」
俺は何を言おうとした。何をしようとした。
「呼ぶ必要もないのに呼ばないで。鬱陶しいから」
胸の奥が締め付けられて、やるせなくなった。
雫の中に、俺の中にある何かを注ぎたくなった。
締め付けられた胸の奥で、溢れ出てくる何か。それは俺の体を勝手に動かした。
痛みはない。でも、苦しい。
破裂しそうなほどに。
心臓が二つあるように感じられる。もう一つの心臓から供給される何かは、俺の全身から出たがっている。何かに向かって注ぎたくて、仕方がなくなっている。
俺は自分の手のひらを見た。
……そうだ。
これは俺が一方的に受け取ってきただけのもの。生まれてからずっと、受け取ってばかりいたもの。
温かくて、泣きたくなる、液体のようなもの。
受け皿である俺の中で一杯になって、ついにこぼれようとしている。
これはなんだ。
絶え間なく、注がれてきた、何か。
生まれてから今まで、ずっと俺に注がれてきたもの。
「雫……」
「だから、何よ? さっきから」
あきれたように振り向く雫。
「アンタ、大丈夫? 真剣な顔して、具合でも悪いわけ?」
「雫」
俺は雫ににじり寄る。
「……平手打ちしてくれないか」
「かまわないわよ」
言うが早いか、雫の拳が俺の頬を襲う。予告なしの行動に、歯を食いしばる暇もなかった。倒れなかったのは、雫の手加減のおかげだろう。助走も何もないパンチは、それでもあごの骨が砕けたのではないかと錯覚するほど、強烈だった。
「人の話を聞いてないだろ! 俺は平手打ちって言ったぞ! 確かに!」
「こっちのほうがすっきりしたでしょ?」
右の拳をさすりながら、朗らかに言ってのける。
「調子はだいぶ良くなったみたいね」
右腕をぐるぐると回す。どうやら、化け物にやられた怪我はだいぶ癒えているようだった。
俺は、ちょうどいい実験台というわけだ。
「にしても、急に何よ?」
「……ん、おかしくなりそうだったから」
「それは元からでしょ。偽善者なんだから」
俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「それより、探しているもの、教えてなかったわね。私が探しているのは、証拠よ、証拠」
机に勢いよく手をついてアピールする。机の上のホチキスが、おびえるように飛び上がる。今時ドラマでも見ないような光景。やはり、雫はいちいち大袈裟だ。
「生徒会室で話したときのこと、覚えてる?」
「大体は」
「後藤が言ってたでしょ? 体育館が締め切られる理由を先生に聞いても、答えてくれなかったって」
「後藤? 誰?」
「生徒会長よ」
生徒会長とばかり頭にあったので、咄嗟に分からなかった。
俺のクラスの学級長も、確か同様の立場にあったのを思い出した。役職名で呼ばれて、本名を覚えてもらえないという……。
「とにかく、それを今から確かめるわけ」
「そうか、先生が知っていたのなら、それについて何かあるかもしれない……」
「ザッツ、ライト!」
発音がいまいち日本語的だ。
「正臣は反対側から。私はここから探すから」
各自作業に取り掛かる。机という机の引き出しをひっくり返して、中の書類やら、プリントやらを速読していく。
テストの答案、没収したエッチな本、家族の写真、教科書、参考書……先生の顔を脳裏に浮かべながら、机を物色していく。
今はもう、生きているのか、それすら分からない先生方……。
俺は過去を懐かしむ心を振り払うように、頭を振る。そして、頬をたたいて景気をつけると、証拠探しに没頭していく。
……しばらくして、雫の大きな声が聞こえた。
「何か見つかった?」
俺は書類に釘付けになっている雫を、背中から覗き込む。座り込んでプリントを読みふける雫の手が、震えていた。怒りなのか、恐れなのかは分からない。
「雫……?」
十数枚のプリントの束。明らかに他の紙と材質が異なっていた。表紙はすでにめくられているので、何の書類かは分からない。蟻のように微細な文字で書かれ、日時が詳細に指定されている。
どうやら、何かの予定表のようだ。
猛スピードでめくられていくプリントの束。俺は雫の速読についていくことが出来ず、内容が読み取れない。
やがて、読み終えた雫は、肩を落としたように俺にプリントの束をよこす。
「読んでみなさい。分かるわよ、この事件の真相が」
力を失った雫の目が、俺を見上げてきた。学年主任の机の中から出てきたそのプリント群を、俺は恐る恐る受け取った。雫は、学年主任の机の脚に背中を預けて、力なく座り込んでいる。
「やってくれるわね……!」
手のひらで目を覆って、大きなため息を吐く雫。
俺は、雫に落としていた視線を、ゆっくりとプリントの表紙に移していく。機密文書、とも、極秘、とも書かれていないその表紙に、俺は何の違和感も抱かない。
しかし。
「……なんだこれ」
中央に配された、機械的な明朝体で書かれた一文。
「スクール・オブ・ザ・デッド?」
何かの冗談かと思った。