第二十二話・「ありがと」
誰よりも大人びて美しい雫が、ベッドに座って足を揺らしている様子は、どこか子供じみていて微笑ましい。
「なんで笑ってるのよ? 気持ち悪い」
いぶかしげに眉を吊り上げる所作も、芝居がかっていて面白い。
足をぶらぶらさせたり、表情を変えたり、見ているだけで楽しくなってくる。
「解せないわね。変態じみてるわよ」
「そ、そうかな……?」
俺は雫の正面に回りこむ。ベッドに腰掛けた雫の足元に座り込んで、救急箱を開けた。
「ねえ、ちょっと」
雫が俺の肩を叩いてくる。
「待ってくれ、今、湿布を」
今度は少し乱暴に肩を叩かれた。
「だから待てって言って……」
顔を上げると、そこには雫の引き締まった白く長い足。
足で人の肩を叩くという暴挙。しかし、そんなことはどうでも良かった。
羞恥心を持ち合わせていないのだろうか、彼女は。
制服のスカートは短い。これでもかというくらい短い。それならまだしも、化け物との戦いで切り裂かれ、スリットまで入ってしまっている。もはや、普通に立っていても下着の色が分かってしまうという、難しく言えば、公然猥褻物陳列罪状態。
「早くしてよ。いつ化け物に襲われるか分からないんだから」
触れた手をはじき返しそうな弾力をたたえる、ふくらはぎ。
「あ、目の前にもいるか。いつ化け物に変わるかもしれない人間が」
雫の挑発するような目。
「人はそれを、狼とか、けだものって言うのよね」
「あのさ……」
俺はなるべく雫に目を向けないように、救急箱から湿布を取り出す。
「羞恥心とか、ないの?」
「慣れてるから、こういうの。いちいち気にしてられないわ」
ベッドに仰向けに倒れこむ。奥の枕にきれいに頭を着地させると、まぶたを閉じた。
ベッドのきしむ音が猥雑に聞こえてしまうのは、ひとえに雫のせいだ。
「慣れてる、ね……」
俺は立ち上がって雫を見下ろすと、腫れ上がった右足に湿布を張り付けた。
次に、消毒液を取り出すと、足のところどころにある傷に塗りつけていく。治療の手順などがあったはずだが、保健の先生ではないので分からない。
とりあえず、俺が正しいと思う手順で治療を施す。
時折、雫が痛みでうめき声を上げる。それがまた欲望の火に油を注ぐようで、俺は鎮火させるのに苦労した。
「正臣、アンタさ……」
「ん?」
俺は治療の手を休めないで、声だけで先を促した。
「香奈って子のことどうしたの?」
黙ったまま、消毒液を湿らせた綿を患部に持っていく。
「好きなんじゃないの?」
綿を少し強めに患部に押し当ててしまう。
「ちょっと! もう少し優しく出来ないの?」
荒療治に、大層ご立腹のようだ。
「……香奈には、和輝がいる」
「何それ。あの子、アンタのこと好きだったように見えたけど。てっきり、二人は両想いなのかと思ったわ」
自分でも分からない。
香奈が俺を想ってくれているのは、火を見るより明らかだ。言葉で、行動で、俺を慰めてくれた。どんなときも、俺の味方でいてくれた。
「……合わなかったんだと思う」
俺も好きだと思った。愛していると思った。
でも、香奈の思いが伝われば伝わるほど、何かが違う、と俺の中で叫ぶ声があった。
割り切ること。
出来ないことを、出来ないとあきらめること。
出来ることだけをすればいいということ。
仕方がなかったことにして、過去を後悔しないこと。
それらは違う気がした。
「そう」
淡白な返事を返す雫。
「雫は、そういうことないの?」
治療の終わった道具を、救急箱に入れる。
「私? そうね……誰かをそういう対象として見たことすらないから、分からないわ」
「見たことないって……?」
ベッドに仰向けになったままの雫を、視界におさめる。
「私、こう見えて年齢、イコール、恋人いない暦なのよ」
「そ、そうなんだ。意外」
過去を保健室の天井に映し出すように、雫はじっと天井を見つめ続ける。
「寄ってくる男は掃いて捨てるほどいるけど、どれも私の幻想に勝手に恋しているから。そういうの、なんか嫌なのよ」
天井に右手をかざして、開いたり閉じたりを繰り返す。怪我した腕の状態を確認しているようだった。
「見てて羨ましいわ。あの香奈って子」
雫を覆っていた外殻が、少しだけ剥がれた気がした。
「といっても、私がそうなることはありえないけど。ましてや、偽善者相手には絶対無いわね。まさに皆無」
俺は、たった今、恋愛予防線をひかれたのだろうか。それとも、単にふられただけなのか。
「そういう意味で、あんたは確かに馬鹿で、臆病で、救いようのない偽善者だけど、救い甲斐のある偽善者でもあるわね。絶滅危惧種。分かる?」
睦月さんはベッドから降りると、ストレッチを始めた。右腕、右足のストレッチは、慎重に入念に行う。
「少なくとも、私が誰かの行為に涙したのは、アンタが初めて。正直、死ぬと思っていたから、あの時は」
完全に蜘蛛に囲まれ、逃げ出すことも出来なくなったあの時。雫の目から、一滴の涙が落ちた。
彼女のように美しい、頬を伝う雫。
「何でもひとりで切り抜けてきた私があきらめたのに、アンタはあきらめなかった。敵ながらあっぱれ」
「……敵?」
「そ、偽善者は私の敵」
人差し指を俺の鼻先に突きつける。
「私を泣かせたんだから、責任は取って欲しいわね」
俺は銃を突きつけられた犯罪者のように、両手を胸の前で広げた。
「最後まで、死ぬまで偽善者でいなさい。どこまで偽善を貫けるのか、この私が見届けてあげる」
「……分かった」
俺は雫からのプレッシャーを跳ね返すように、眉間に力を込める。
「よろしい」
腕を組んで満足そうにうなづく雫。
「じゃ、上着脱ぎなさい。アンタの手当てもしてあげる」
「俺? 俺はいいよ。それほど怪我しているわけではないし」
「私だけしてもらって、アンタはしないじゃ納得いかないのよ。ま、曲がりなりにも私の盾になってくれたんだから、それぐらいさせなさい」
「契約は破棄しただろ。だったら関係ないじゃないか」
「つべこべ言わない。してあげるって言ってるんだから、おとなしく座りなさい。はい、椅子!」
保健の先生が使っているキャスター付の椅子を、俺のほうに蹴ってよこす。俺はそれを慌てて受け止めて、仕方なく腰を下ろした。
上着を脱いでベッドにかけると、雫は思っていたよりも丁寧に手当てをしてくれた。
てっきり乱暴に手当てされると思っていたから、拍子抜けだった。
机の直撃を受けた俺の背中に、雫は顔をしかめていたが、気を取り直すと、なんでもないように湿布を張り付けた。
「言ってなかったわね」
「何を?」
俺は保健室の窓の外を眺める。相変わらずの月の光だ。
「ありがと。助かったわ」
「偽善者だから」
「そうね」
雫が笑ったような気がした。
「よし、こんなものね」
俺は立ち上がって腰を回転させたり、膝を曲げないで床に手をつけたりした。まだ背中に痛みは残っているが、跳ねたり走ったりに支障はない。湿布の貼られた違和感もあるが、それはこの際無視だ。
「正臣、調べたいことがあるんだけど、付き合って」
俺がストレッチをしている間、雫は保健の先生の机を物色していた。引き出しを開け、書類をかき回し、あらかた探し終えたときに、俺に声をかけてきたのだった。
「いいけど、調べたいことって?」
「気になることがあるのよ」
雫は神妙な顔つきで考え込んでいる。
「とにかく、職員室に行くわよ」
きびすを返して保健室を出て行く。
俺は腑に落ちないながらも、それに続くしかなかった。