第二十一話・「……勝手にすれば」
「包帯と、消毒液、それとガーゼ、それから……」
保健室のベッドに腰掛ける睦月さんが、俺に次々と注文する。
俺は保健室内を物色して回り、注文の品を次々とそろえていく。
「制服も交換したいところだけど、さすがにそれは無理か……」
俺は救急箱の中身を確認して、睦月さんを振り向いた。
「……な」
睦月さんは、あろうことか堂々と制服を脱ぎだしていた。
上着を脱いだ睦月さんの上半身は、窓から差し込む月の光で、青白く光り輝く。
まるで、御伽話で言うところのかぐや姫のようだ。
俺は生唾を飲み込む。
鎖骨から胸元に降りていくラインは、絹のようにきめ細やかで、水滴などはあまりの滑らかさに高速で滑り落ちていきそうだ。胸の主張は理性を狂わせんばかりで、ブラジャーの上からでも形のよさをうかがわせる。腹筋、くびれの腰周りも完璧だ。腹筋はうっすらと割れていて、常日頃の鍛錬を思わせた。何より、豊満な体つきにもかかわらず、体脂肪など微塵も感じさせないのが不思議だった。
だが、それがよけいに悲しい。
美しすぎるはずのその体は、見れば見るほど化け物との死闘で傷ついてしまっている。
十指で数え切れないほどの青痣が、上半身に分布していた。裂傷が手足のいたるところに見え、直撃を受けた右足と右腕は、もはや腫れ上がっていて、見るに耐えない。
「後ろ向け、とか言わないから、早くそれ持ってきて」
それでも、俺の心臓は、破裂しそうなほど高鳴る。
胸の高鳴りが化け物に襲われているときよりも大きく感じられるのは、気のせいだろうか。気のせいであって欲しい。
「背中のほう、お願い。切り傷とかはないと思うから、湿布だけでいいわ」
睦月さんの背中に回る。傷ついた睦月さんの体を痛々しく思う反面、高揚していく心がある。
明らかな矛盾だ。
性欲と、理性が存在している時点で、俺はもう矛盾しているのかもしれない。
「分かっていたけど、結構冷たいものね」
睦月さんの背中に湿布を貼っていく。直接ではないにしろ、俺の手は睦月さんの体に触れている。
筋肉の張りとともに、女らしい体の柔らかさが、存分に伝わってきた。
「その、ホックの上に重なるけど、かまわない?」
「邪魔なら、外して」
ブラジャーのホックの上に湿布を貼ろうとすると、睦月さんは自分の腕を治療しながら、何気なく言ってきた。
俺は幻聴かと思って、耳を引っ張る。
残念ながら二度と幻聴は聞こえてこなかったので、俺は恐る恐る睦月さんに問い返した。
「……外すって?」
「ブラに決まってるじゃない。まさか、外したことないの?」
「……ないよ」
自分の経験のなさを悔やんでしまうのは、男の性だろうか。
「初めてなんだ。それで、さっきからぎこちないわけ? ……それもそうか、初めてじゃね」
馬鹿にするような口調だ。
「私ですら、初めてのときは少し緊張したし。男でもそれは一緒なのね」
睦月さんの言っていることは分かる。いくら鈍感な俺でも。
俺の中で何かが傷つけられたような気がした。
睦月さんの噂は聞いている。
男遊びがひどいとか、体で稼いでいるとか。
でも、どこかで俺はそれを否定していた。
睦月さんは、そんな人ではないと。
本当は純情で、真面目な人なのだと。
「ちょっと、手が止まってるわよ」
でも、それは俺が作り上げた幻想でしかない。
勝手に幻想を抱いて、神格化して、いざ真実が分かったとたん、俺は傷ついている。認めることを拒んでいる。
自分勝手に盛り上がって、自分勝手に傷ついて、自分勝手にフォローして……。
救いようがない滑稽さ。
本当の睦月さんは、目の前にいる睦月さんだ。それを認めなかったら、俺は誰に恋心を抱いていたのだろうか。
幻滅して、それで終わる恋心だったのだろうか。
だとすれば、なんて愚かで、なんて自分勝手なんだろう。
「正臣、アンタさ」
気がつくと、睦月さんは俺を正面から見据えて怒っていた。
「私の体が気になることは認めるけど、そんな顔するのはやめてくれる?」
「そんな……顔?」
俺は自分の顔を確かめることが出来ずにうろたえる。
「そうよ。デレデレするのは分かる。鼻息を荒くするのも分かる。でも、何でそんなに苦しそうな顔してるのよ。見ているこっちが嫌になる」
俺の頬をつまんで引き伸ばす。
「男なら、黙って欲望と理性の板ばさみにでもあってればいいのよ」
「睦月さん! 分かった、分かったから!」
どんな握力をしているのか。頬が千切れそうだ。
「それにアンタさ、私のこと睦月さんとか、睦月とか、雫とか。いい加減はっきりしなさいよ。聞いてるこっちが恥ずかしいんだから。どんな風に呼んだらいいのか迷うあまり、探りを入れている新入生みたいよ」
頬をつかんでいた指を離すと、腰に手を当てる。
「微妙なたとえだな……」
「微妙で悪かったわね……」
手を閉じたり開いたりして、感触を確かめている。なんとも不気味だ。
だが、あっけなく睦月さんの怒りが消える。
「で、何を考えてたの?」
背中を向けて、治療を再開する睦月さん。
「別に、何も」
言えるわけがない。睦月さんに幻滅したとは、口が裂けても。
「どうせ幻滅したとか、そんな類じゃない?」
手に持った湿布を取り落とす。
「まったく、どいつもこいつも幻滅幻滅。本当に嫌になる」
睦月さんの右腕に包帯が巻かれていく。口と左手を器用に使って、腫れた右腕を白い布が包んでいく。
「芸能活動なんかしてると、大概そういうことになるのよね。写真には性格は写らないし。テレビでは本性は見えないし。いい加減うんざり」
包帯をハサミで切って結ぶ。
「この際だから言うけど。そういう経験なら、私、もう数えられないほどしてるから。男がどうすれば喜ぶかも分かってるつもり。文字通り、身についたとでも言うべきかな」
世間話でもするかのような、軽い言葉の連続。
「……聞きたくない」
幻想は壊れた。俺は傷ついた。
でも、それでも、心が痛む。
「初めては、小学校の高学年のときに無理矢理。金額、いくらもらったか忘れたわ」
「もう、いい」
睦月さんは言葉をつむぐのを止めてはくれない。楽しそうに語り続ける。
「男三人でまわされて、数百万単位のお金もらったときはすごかった。あごが外れるかと思ったわ。事実、次の日に医者に行ったけどね」
俺の頭は、しなくてもいい想像をしてしまう。
目の前にある睦月さんの美しい肌を、薄汚い男の舌が這いずり回っていた。
そう考えただけで、胸が燃え上がるように熱くなってくる。
知らない男が、いとも簡単にホックをはずして、その先にあるものを貪り尽くす光景が、俺の中で上映される。
快楽に顔をだらしなく弛緩させる睦月さん。
男たちに貫かれ、征服される睦月さん。
自分から男たちに懇願する睦月さん。
「止めてくれ!」
俺は叫んでいた。叫んだ俺を蔑むような声が、睦月さんの背中から聞こえた。
「私に幻想を抱くのは勝手だけど、本当の私がきちんと存在しているってこと」
睦月さんがブラジャーのホックを外す。
「仕方がなかったのよ。自分ひとりで、小さな頃から生きていくためには。それが現実。利用できるものは利用して、いろいろなものを犠牲にして、踏み台にして、私の今がある。本当の私を見て、なんてかわいいことは言わない。幻想を抱きたいなら、抱けばいい。でも、私は私。誰にも踏み込ませない。幻想に媚びたりしない」
胸を隠すように腕を組んだ睦月さんが、肩越しに嘲笑する。
「偽善者のアンタには、到底理解できないでしょうけど」
俺は身に着けるもののなくなった背中に、湿布を貼った。それを確認してから、湿布の上からブラジャーを身につける睦月さん。
「覚悟はしていたけど、幻想が壊れるのはつらいな……」
俺は余った湿布を救急箱にしまう。
「それでも……なぜか嫌いになれないんだ。雫が」
俺は雫と呼ぶことに決めた。
雫、いい名前だと思う。
「……勝手にすれば」
雫は、俺の微笑から顔を背けた。
いまだに幻想を引きずろうとする心が痛んでいたが、その痛みもほんの少しだけ治まってきている。俺は、心の痛みを、幻滅の痛みを、ゆっくりと時間をかけて治そうと思った。
「次は足のほうお願い」
少しだけ楽しそうな雫が、足を揺らしていた。