第二十話・「偽善者ってどんな気分なの?」
……爆発と炎が沈静化すると、俺はゆっくりと睦月さんを覆った体を上げた。
背中に張り付いていた蜘蛛の群れが、剥がれ落ちていく。炭になっていたり、焦げていたり、足がなかったり、目がなくなっていたりと、爆発規模のすさまじさを思わせる。
気を失わなかったのは、体中を覆った蜘蛛のおかげだった。
不幸中の幸いとはこのことか。
蜘蛛が俺の体に隙間なく張り付いていなかったら、俺は全身に大火傷を負って、命を失っていたかもしれない。
一方、大量の蜘蛛を生んだ化け物は、実験室の戸棚にめり込んでいた。手足が根元からなくなっている。全身は真っ黒で、張り付いていた蜘蛛にも動きは見られない。
周囲の床には、ばらばらになった蜘蛛の死骸が転がっていて、そのあまりの多さに驚かされる。実験室のガラスというガラスが割れていた。
「睦月さん!」
睦月さんの肩を揺らす。
化け物でもないのに、蜘蛛をまとった俺が生きているとは、皮肉だった。
「睦月さん!」
俺が何度も何度も呼びかけても、返事はなかった。まぶたは下りていて、目を覚ます気配がない。
「まさか……そんな……」
俺は身が凍るような思いだった。
あわてて呼吸を確かめるべく、鼻先に耳を近づける。
「よかった……呼吸はある」
俺は安心するあまり、尻餅をついた。尻の下にひかれた蜘蛛の丸焼きが、枝の折れるような音を立てて壊れた。
「生きてるんだな……俺」
全身が熱い。蜘蛛の鎧をまとっていたとはいえ、高熱で肌を焼かれたのだ。軽い火傷と、火照る体だけで済んだのは奇跡に近い。そんな奇跡にめぐり合えたことが、可笑しく感じられる。
「これでよかったのかな……夏美、加藤さん……」
俺の信じてきた正しさを貫き通すということ。俺は今、それを一つだけ達成することができたんだ。
「いや……違うな」
俺は、上半身に蜘蛛を身につけた化け物を眺める。
戸棚にめり込んで、二度と動くことはない。半身を失っている様は、物言わぬ屍そのものだ。
「俺は、また救えなかったんだ……」
化け物も、元は人間だった。もはや見る影もなくなっているが、この学校の生徒だった。蜘蛛にいいように操られていただけだ。
「……また」
涙腺が刺激された。誰かを助けるために誰かを犠牲にしたのでは、それでは割り切ることと同じだ。
俺の信念は、ただの机上の空論でしかないのかもしれない。
己の無力さが、ただ悔しい。
床に転がる蜘蛛に、拳を叩きつける。乾燥した蜘蛛は、いとも簡単に壊れた。砂山を崩すように簡単に。
「アンタのしたいことって何なの?」
体を横たえたままの睦月さんが、目を開けた。
「気がついたんだ」
「ぶつぶつ独り言を言われれば、そりゃ起きるわよ」
満身創痍の睦月さんが、苦しそうに身を起こして俺を見つめてくる。
「聞かせて。アンタのしたいことって何?」
俺は制服に引っかかった蜘蛛の爪を、一つ一つ丁寧にはがして放り投げる。鋭い爪には、俺の血糊が付着していた。
「助けたいんだ」
俺は、体にそれほど異常がないことに安堵して、立ち上がる。
ところどころ破れた制服の上着を脱ぎ捨て、ズボンのほこりを手で払う。
「……誰かを助けるために、違う誰かを犠牲にしたり、自分のことだけ考えて、誰かを見捨てたり、そういうのはしたくないんだ」
ひとりでは立ち上がれそうにない睦月さんに、手を差し伸べる。
「それで自分が傷ついても? たとえ死ぬことになったとしても?」
差し伸べられた手を取ろうとしないで、下から見つめてくる。
不可解な俺の真意を、見透かそうとするかのようだ。
「これが、その証拠だと思うけど」
俺は少し大袈裟に実験室を見渡した。縁が溶けて黒ずんだガラス片と、蜘蛛の残骸、木片と化した容器棚、実験機器、動かない化け物。
「確かにね。最悪、私も死にそうだったけど」
腕を組もうとしたが、痛みで組むことが出来なかったようだ。眉根を寄せる睦月さん。
「でも、生きてる」
睦月さんがこうして生きていてくれることが、嬉しかった。
「かろうじてよ。馬鹿にしないで」
近くに転がっていたガラス片を手にとって、投げつけてくる。
「確か……正臣だっけ、アンタ」
名前を思い出すのに数秒を費やすところが、睦月さんらしい。
「手当てしたいんだけど、連れて行ってくれる? 保健室」
「かまわないよ」
「正臣、肩を貸して」
俺が上体を起こしていた睦月さんの左隣に座り込むと、睦月さんは俺の左肩に左腕を回してきた。睦月さんの右手右足は、化け物との死闘で深手を負っている。
「偽善者ってどんな気分なの?」
実験室を出て、廊下を歩いていた。月が白く照らす廊下は、幻想的な空間。二人の言葉が、静かに月夜に溶けていく。
「……つらいよ」
「馬鹿でしょ、アンタ」
「馬鹿かもね」
「馬鹿よ」
「でも、俺はそれが正しいと思えるから」
睦月さんが、右足をかばいながら歩くさまは、運動会でいう二人三脚のようだった。
「正しいことなんて人それぞれよ。例えば…」
睦月さんが考え始める。
「正臣がボートに乗っているとする。三人乗りのボート、二人分の空席。で、三人がすぐ近くで溺れているの。二人は助けられるけど、一人は見捨てなければいけない。もし、全員をボートに乗せてしまえば、ボートは沈んでしまって、みんな死んでしまうことになる」
保健室の表札が見えてくる。
「私だったら、迷わず一人を見捨てるわね。全員の犠牲には代えられないもの。誰かを助けようとして、全員が犠牲になるなんて、本末転倒もいいとこ。……これが正しさよ。誰も私を責めないと思うわ。誰にでも分かる、簡単な問題よ」
保健室の扉の前で、俺は立ち止まった。
すぐ近くにある睦月さんの瞳を真摯に見つめる。
少し顔を近づければ、鼻と鼻が触れ合う距離。
「な、なによ? 言いたいことがあるなら、言いなさいよ」
少し頬が赤いのは気のせいだろう。すすで汚れているからそう見えるだけだ。
「俺がボートを降りるよ」
「は?」
「俺がボートを降りれば、みんな助けられる。それが俺の正しさ」
微笑んでみた。
自分の馬鹿さ加減を笑うように。偽善ぶりを嘲笑するように。
「……あきれた偽善者。誰よりも臆病で、真っ先にボートを占領する人間のくせに」
大きなため息をついて、保健室の扉を開ける。
「でも、偽善だと分かっていても、俺の答えは変わらない」
どんなときでも、誰かを思いやること。俺は夏美からそれを学んだ。
「……私が怪我してなかったら、二度と立ち上がれないくらいに殴り飛ばしてあげるのに」
「それはやめて欲しいな……」
「冗談よ。何とか立ち上がれるくらいにするから」
今度は俺がため息をつく番だった。