第二話・「私、胸、小さいのかな」
「……何をやってるんだ?」
ドアの脇に寄りかかっている少女を発見する。
「あれ、正臣も遅刻? 奇遇だね」
「奇遇だね……って、香奈も遅刻か。珍しいな」
「うん、なんか完全に遅刻って分かったら、あわてるのも億劫になっちゃって」
長く伸びたぼさぼさの頭をなでつけながら、香奈と会話する。
「和輝は?」
香奈が首を横に振る。
「今日は雪でも降るのか? いつも遅刻してる和輝が遅刻しないなんて……」
「同感」
「……にしてもだ。遅刻した人間が、どうして俺の家の前にいる」
「う〜ん、なんでだろ。正臣も遅刻するような気がしたんだよね」
けらけらと笑って見せる。こちらとしては複雑な心境だ。遅刻を予言されるのは、端的に言えば馬鹿にされたような気分になる。
「あ、置いて行かないでよ。つれないなぁ……」
香奈を無視して歩を進める。この微妙な調子が、俺は苦手だ。自由奔放というか、天真爛漫というか……思考回路が人とは違う。
「正臣、髪の毛切ってあげようか?」
無視する。
「私としては、短い髪の毛のほうが好みなんだけどな」
無視。
「そういえば、睦月さんが、正臣のこと……」
思わず足の動きを止めてしまう。
「……なんて言ってた?」
「髪の毛切らせてくれる?」
質問を質問で返される。
しかし、優先順位は俺と香奈の立場上、明らかだった。
「……短すぎないように」
完全に遅刻していると分かっている中での登校風景は、いつもとは違う新鮮な気持ちにさせられる。いつもは朝の通勤などで、にぎやかになっている通学路も、今はまったくの無人だ。遅刻などしたことない俺は、今まさにその新鮮さを味わっているのだった。
「どんな髪型にしようかな……」
香奈は先程から、ずっとこの調子だ。髪の毛を切らせてもいいと俺がしぶしぶ承諾してから、香奈の頭の中ではいくつもの髪形が現れては消えているのだろう。
「……で、その、睦月さんの件。なんて言ってたんだよ」
香奈はすっかり忘れていたと言わんばかりに、手のひらをぽんと叩いた。
「聞きたいの?」
「決まってるだろ!」
思わず声を荒げてしまい、慌てて周囲を見回す。
人影はまったくない。どうやら、誰にも聞かれてはいないようだ。
「そんなに大声出さなくたっていいじゃない」
「悪かったよ……」
頭が痛くなりそうだった。香奈に踊らされてばかりの不甲斐なさに。
「睦月さんは、こう言いましたとさ」
努めて平静を装いながら耳を傾ける。
「東城正臣? 知らないわ」
「……は?」
傾けた耳に飛び込んできた言葉を疑う。
「一言一句、もれなく伝えました。短かったから、忘れようも、間違えようもないけどね」
「本当にそれだけ?」
「本当にそれだけ。『東城正臣? 知らないわ』」
本当に頭が痛くなってきた。
「『東城正臣? 知らないわ』」
心なしか胃もきりきり痛む。
「『東城正臣? 知らないわ』」
「聞こえてる!」
「……あら」
「いや、当然といえば当然の結果だよな。かたや、学校一の優等生にして、スカウトの目にもかかるほどの美女。かたや、ただの男子高校生だもんな……」
心なしか、学校までの道のりがいつも以上に遠く感じる。
「正臣……だいぶ落ち込んでるね。でも、いいじゃない。私がいるんだし。ほら、慰めてあげるよ。この大きな胸に飛び込んできなさいな」
「そんなに胸大きくないだろ」
「あ、セクハラ」
そんなやり取りの一方で、確実に自分が落ち込んでいるのが分かった。
もしかしたら、憧れの睦月雫が、俺のことを知っていて、密かに気にかけているんじゃないか。
そんな根拠もない希望――妄想とも言う――が、今まさに現実の名の下に一刀両断された。
人生はドラマではないと分かってはいるけれども、どうしてもドラマのような展開を期待してしまう。
人間は希望を持つことの出来る動物であるが、現実になるとは限らない希望を抱くのは愚かでもある。
そうすると、愚かなのは、俺なのだろうか、それとも、人間なのだろうか。
「正臣……。私、胸、小さいのかな」
「気にしてたのかよ」
「正臣がそう言うから、気にした」
「じゃあ、例えば俺が、髪の毛の短い子が気になるって言ったら?」
「短くする」
……ため息が出る。考えてみれば、今日は朝からろくなことがない。
寝坊し、完全に遅刻し、香奈には踊らされ、憧れの人には存在すら知られていない。散々だ。
「厄日だな……これは」
近づいてきた威風堂々たる校舎に怨嗟をこめて、俺はつぶやいた。