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第十九話・「戦っては駄目だ!」

 死は、風を切って俺に振り下ろされる。


 けれど、俺は生きていた。怪物の凶悪な右腕は床にめり込んでいて、床の欠片がぱらぱらと俺の頭に降りかかってきた。


「度胸は認めてあげるわ」


 睦月さんがすんでのところで、俺の制服を強引に引き寄せていた。


「でも、私は逃げるつもりはないから」


 引き寄せた俺に顔を突きつけて、睨みをきかせる。


「逃げないなら、そこで見てるのね」


 細く描かれた眉を吊り上げた。


「戦っては駄目だ!」


 実験室の背もたれのない椅子を持ち上げた睦月さんは、床に手を突っ込んだままの化け物に接近する。


「睦月さん!」


 震えが止まらない足に鞭を入れる。

 化け物に命を握られていた先ほどの恐怖がいつまでも尾を引いていて、両足にうまく力が入らない。

 睦月さんの接近を感知したのか、化け物は床から腕を抜く。

 巨体が、蜘蛛の百を超える目で赤く輝いた。

 睦月さんは、まぶしさに一瞬目を細めるが、かまわず椅子を化け物に振り下ろした。木製の椅子は、金属バットをへし折った化け物の頭部には無力だ。無残にも砕け散って、木片が散らばった。


「石頭が……!」


 睦月さんの舌打ちが聞こえた。化け物は、目の前に着地した睦月さんに、左腕を振り下ろす。睦月さんは膝をついた状態から、横に回転して逃れる。転がっていたバットを手に取りながら立ち上がると、下段に構えた。

 転がる動作に、バットを拾い上げるという動作を組み込む、とっさの機転はさすがだ。

 一撃は強大だが、愚鈍な化け物には、まさに天敵といえるだろう。

 しかし、それも攻撃が通用しないとあっては意味がない。


「オオ、かアあア……」


 蜘蛛の動きが活発化する。

 化け物に張り付いて、足を鳴らすだけだった蜘蛛が、いっせいに激しく動き出したのだ。


「また何かあるわけ?」


 俺は、健在するもう一つの実験テーブルの手を借りて立ち上がると、化け物の動向に気を配る。


「ササ……さ、ンン」


 化け物に張り付いていた蜘蛛が、剥がれ落ちた。

 一匹、二匹……その数が増加していく。実験テーブルを排除して出来たスペースが、真っ赤な目を光らせる蜘蛛で満ち溢れていく。

 化け物が、化け物を生んでいる。


「まさか、こんな……」

「上等じゃない」


 バットのグリップを握りなおす。

 すでに数十匹の蜘蛛が、化け物から剥がれ落ちていた。剥がれ落ちた箇所からは、人間だったものの皮膚が見え隠れする。浅黒く、太い血管が膨れ上がっている。中を流れているのは血ではない。重油のように薄汚い何かだ。

 蜘蛛は、落ちた順から移動を開始する。

 蜘蛛の群れは二方向に分かれ、俺と睦月さんに殺到した。ある程度の距離になると、跳躍して飛びついてくる。俺は恐怖を携えて、窓際を駆け抜けた。

 窓を次々に突き破っていく蜘蛛の群れ。

 耳元で風を切る音が聞こえる。蜘蛛の足が俺の制服を切り裂く。

 一方、睦月さんは、飛びついてくる蜘蛛を、片っ端からバットで弾き返していた。正面の蜘蛛は、下段からの振り上げで天井に叩きつけ、横方向からの蜘蛛には、体を捌いての叩き落とし、下方向からは、バットを使わずに左足で蹴り飛ばす。

 見事な殺陣さばきだった。

 だが、そんな睦月さんでも、体力は確実に消費する。加えて、右足の痛み。蓄積されたダメージ。

 俺が実験室に入った直後の睦月さんとは、明らかに動きが別人のようだ。

 弾き返した蜘蛛が活動を再開できるのが、その証拠だ。

 一撃で粉砕してきたはずの攻撃に、力が見られない。余裕を持って回避してきた蜘蛛の足も、今では紙一重。さらには、死角への対処もおろそかになっている。有視界を最大限に動かすことで死角をなくし、蜘蛛の攻撃を見切ってきた睦月さん。

 その睦月さんが、死角を作ってしまっている。

 天井と、背後。

 睦月さんは、その二箇所の蜘蛛の動きに気がついていない。

 三つの赤い目は、攻撃の合図。睦月さんの視界にいる蜘蛛は、皆一様に目を爛々と輝かせているのに、死角にいる蜘蛛は目を光らせていない。


 陽動。


 俺の頭にその二文字が浮かんだ。

 だが、その浮かんだ二文字を消し去るかのように、俺の頭を蜘蛛がかすめていく。窓から飛び出さずに柱に取り付いた蜘蛛は、更に俺へ跳躍する。睦月さんの戦闘に気を取られていた俺は、柱から飛んでくる蜘蛛に気がつくことが出来なかった。

 視界の端に映った瞬間、あわてて身をよじったが、時すでに遅し。


 蜘蛛は俺の背中に張り付いていた。


 バックパックを背負うような感覚がしたかと思うと、すぐさまバックパックは、俺の頭部目指して這い上がってくる。連続で針を刺されるような痛みが、恐怖とともに背中を駆け上ってきた。

 八本の足が俺を捕らえて放さない。

 走ろうが、飛び上がろうが、決して剥がれない。

 俺はジャンプしたまま、意識的に背中から床に倒れこむ。

 蜘蛛は、背中と床の間で板ばさみとなり、卵の割れるような音を響かせた。

 背中に蜘蛛の体液が染み込んでいく。

 俺はすばやく立ち上がると、椅子をつかむ。恐れを振り払うかのように、連続して向かってきた蜘蛛を叩き落とした。そして、持っていた椅子を追いかけてくる蜘蛛に投げつけると、睦月さんに向かって駆け出す。

 天井から睦月さんを見下ろす蜘蛛。背後から舌なめずりする蜘蛛。

 その二匹の蜘蛛の合計六つの目が、強烈な赤い光を放った。


「上!」


 その俺の言葉だけで、睦月さんは理解したようだった。

 白い首筋があらわになる。睦月さんは、折れ曲がったバットの先端で、落ちてきた蜘蛛の腹を突いた。腹をつき抜かれた蜘蛛が、バッドの先端に突き刺さって、もがいている。


「油断も隙も――」


 睦月さんの頬が緩むのが見えた。

 まだだ。まだ安心していい時じゃない。

 睦月さんの背後で控えていた蜘蛛が、天井から落ちた蜘蛛がやられるのと同時に、睦月さんへ飛び掛った。俺は、息継ぎのタイミングで声を出せない。

 睦月さんの流れるような髪の毛に、蜘蛛が張り付く。


「睦月!」


 呼び捨てにしたことは、もはや気にならなかった。

 睦月さんが、バットを投げ捨てて、蜘蛛をはがそうとする。


「こいつ……!」


 焦りの色が見えた。

 美しい顔が初めて恐怖にゆがむ。懐に入り込まれたことで生まれる恐怖、というのは想像を絶するものがある。蜘蛛がつかんでいるのは、睦月さんの髪ではない。睦月さんの命を鷲づかみにしているのだ。

 睦月さんが仰向けになる。俺と同じ行動をしようというのか、後頭部をがっしりとつかんだ蜘蛛を床に打ちつけようとする。だが、頭部ということもあって、思うようにいかない。万一、気絶してしまうようなことがあれば、当然命取りになるし、脳震盪を誘発させても、思考力の低下は免れられない。

 どちらにせよ、睦月さんの命は、蜘蛛によって蹂躙されてしまうだろう。

 俺は、背中に飛びついてきた蜘蛛を払いもせずに、睦月さんのそばにしゃがみこんだ。睦月さんの後頭部をつかむ蜘蛛に、手をかける。


「く……そ!」


 蜘蛛の爪が、睦月さんの頭部に食い込んでいく。流れるような髪の毛が、睦月さんの血で濡れる。髪の毛を伝った血は、筆で描いた文字のような跡を、床に残した。

 怪物は、そんな俺たちを見下ろしたままだ。体からは次々に蜘蛛が剥がれ落ちていて、もはや数えることすら不可能だ。大挙して俺と睦月さんに牙を剥いてくる。

 俺の背中に張り付いた蜘蛛も、俺の胸に回り込み、マスクのように俺の口をふさいだ。


「逃げなさいよ! 偽善者でしょ!」

「睦月さんを……助けるまでは」

「アンタ、馬鹿じゃないの?」


 二人の人間に殺到する、蜘蛛の大群。集中豪雨を思わせる一斉跳躍。

 俺の背中は、瞬く間に蜘蛛で覆われた。蜘蛛の爪先が体中に突き刺さる。全身を針で刺されたかのようだ。

 発狂したくなる激痛。


「なんで!」


 背中が重い。

 この重さと痛みは、全て蜘蛛がもたらすものだ。もう自分の力ではどうしようもない。剥がすことも出来ない。睦月さんに覆いかぶさるようにしているから、睦月さんに取り付いている蜘蛛は、後頭部の一匹だけ。

 それだけが救いだった。


「俺は助けたいんだ!」


 これなら、睦月さんだけは助けることが出来る。


「意味ないじゃない!」


 俺の全身は、もはや蜘蛛だらけだ。

 腕も、腰も、背中も、腹も、顔も、全てが蜘蛛の支配下だ。

 もう、蜘蛛しか見えない。

 視界ですら蜘蛛の腹で邪魔されて、満足に睦月さんを見ていられない。蜘蛛の眼帯をしたかのようだ。


「それでも!」


 恐怖がないと言ったら嘘になる。腹の底から怖い。足だって震えている、体中が震えている。

俺の口をがっちりと固定しようとする蜘蛛。入り込むつもりらしい。

 ……体中が重い。悶えることすら出来ない。それでも。


「逃げなさいよ!」


 睦月さんが、俺を睨み付けて叫んだ。目には光るものが浮かんでいる。


「私のことなんかいいから! アンタは自分のことだけ考えてればいいのよ!」


 俺を覆いつくした蜘蛛が、俺だけでは飽き足らず、睦月さんにも取り付こうとしていた。俺は気力だけで、その蜘蛛を振り払う。まだ、睦月さんに取り付いた蜘蛛は一匹だけだ。

 俺は、睦月さんを守り続ける。

 顔に取り付こうとした蜘蛛を腕で払いのけ、足をつかもうとする蜘蛛を蹴り飛ばした。

 睦月さんに触れさせるわけにはいかなかった。


 それだけは、絶対に。


「なんで分からないの!」


 鼻をつく臭いが漂ってくる。化け物が引っこ抜いた実験テーブルのほうからだ。視界のすみに、ガスバーナーのホースが転がっているのが見えた。

 睦月さんは雄叫びとともに、髪の毛に張り付いた蜘蛛を引き剥がした。蜘蛛の足に引っかかったせいで、髪の毛が大量に引き抜かれる。

 赤く染まった髪の毛が、蜘蛛とともに床を転がった。


「……それでも俺は」


 睦月さんのポケットから、懐中電灯が転がる。屋上に行くかどうかの選択が迫られたとき、俺が睦月さんに投げ渡したものだ。


「偽善者のくせに……偽善者のくせに!」


 一筋の雫が、睦月さんの頬を流れ落ちた。

 それは、今まで見たどんな涙よりも美しく、そして、儚かった。


「それでも、俺は!」


 膨大な数の蜘蛛に取り付かれて身動きも出来ない。耐える力も残されていない。意識すら遥か彼方に飛んでいきそうだ。

 それでも、俺は気力を奮い立たせて腕を伸ばし、なんとか懐中電灯を掴み取る。


「雫を助けたいんだ!」


 スイッチを入れると、無我夢中で、蜘蛛を供給する化け物に投げつけた。

 回転しながら蜘蛛に向かっていく。次々に跳躍する蜘蛛に危なくぶつかりそうになりながらも、目標に向かって飛んでいく。


「……馬鹿な偽善者」


 睦月さんのささやきと、化け物に当たった懐中電灯のガラスが割れたのは、同時だった。

 電熱線があらわになった瞬間、火花が散ったのが見えた。

 刹那、閃光が周囲を包み込んだ。

 炎の渦が、俺と睦月さんを飲み込んでいく。

 化け物が炎に包まれ見えなくなり、床を覆いつくしていた蜘蛛も、俺と睦月さんのほうに吹き飛ばされてくる。

 体中を蜘蛛に覆われた俺は、睦月さんをかばうために、体を盾にする。

 灼熱の業火が、俺と睦月さんを覆いつくした。


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