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第十八話・「何も出来ないくせに!」

 屋上から出てくるのに時間がかかってしまった分、睦月さんと佐藤の安否を気遣う。

 平常の睦月さんならいざ知らず、右足を負傷しているのだ。

 俺は階段を駆け下りて、睦月さんと別れた場所に降り立つ。


「睦月さん! 佐藤!」


 大声を上げて呼びかけてみるが、二人からの返事はない。真っ暗闇が、俺の声を飲み込んでいくだけだ。廊下の先を見ても、非常ベルの赤い光が揺らめいているのみで、俺が睦月さんに渡した懐中電灯の光は見えない。

 上半身蜘蛛だらけの化け物も、どうやらここにはいないようだった。

 俺は、壁に叩きつけられた死んだ蜘蛛の破片に、身震いする。睦月さんが回し蹴りで粉砕した蜘蛛。

 臓物は、いまだに夜のかすかな光を受けて、光沢を放っている。


「足が震えてる……駄目だな、俺」


 もう二度と動くことのない、襲ってくることのない蜘蛛の死骸を見ているだけでも、両足が震えてきた。

 暗闇が少しずつはれていく。

 雲に隠れていた月が、顔を出したようだった。屋上にいたときには、満天の星空を望むことが出来たのだから、月が出ていてもおかしくない。

 廊下の窓から、青白い光が差し込んでくる。俺は光を頼りに廊下を駆け抜ける。

 月の光が照らした廊下には、蜘蛛の死骸がそこかしこに転がっていた。

 ガラスに突き刺さって、赤い体液を飛散させた蜘蛛や、手足がちぎれて胴体だけになっている蜘蛛、逆に胴体がちぎれて真っ二つになっている蜘蛛、原型はそのままだが内臓が染み出している蜘蛛。

 それら無数の蜘蛛が、廊下にバケツの水をぶちまけたかのような体液を散らして、転がっていた。

 その蜘蛛の隙間を縫うように、血が転々と、まるで俺を導くかのように連なっていた。

 睦月さんの血だろうか、それとも佐藤の。

 焦りと不安に胸が高鳴る。

 血は廊下の途中で左折していた。


「こっちか……」


 校舎第二棟へと続く、二階の渡り廊下。

 この学校は、体育館、第一棟校舎、第二棟校舎と、並んで建設されていて、それぞれが渡り廊下でつながっている。一棟二階には、二棟二階へ続く渡り廊下、というように、それぞれの棟、階に、それぞれの棟、階へとつながる渡り廊下がある構造だ。

 渡り廊下から望める中庭の景色は、惨憺たるものだった。

 虫に侵入されているだろう生徒の群れが、月明かりの下でぞろぞろと群れをなしている。行くあてもなく、この世をさ迷うばかり。

 渡り廊下にいる俺を見つけると、高低差があることすら忘れているのか、一階の渡り廊下の外壁に張り付いて俺を見上げてくる。

 俺はちらりと彼らを視界に収めただけで、通り過ぎる。

 二棟の廊下も、似たような惨状だった。

 だが、明らかに雰囲気が違う。大声で二人を呼ぶのも、躊躇してしまうほどに。

 呼吸困難になりそうなほど、濃縮された重い空気が漂う。息をするたびに体中に蓄積されていって、体を鈍重にさせるかのようだ。



 ――突然、化学実験室のガラスが吹き飛ぶ。



 ガラスから飛び出してきたのは、蜘蛛だった。実験室のガラスから、廊下のガラスへ。二枚のガラスを突き破った蜘蛛は、月明かりの照らす中庭へ落ちていった。

 俺は実験室へ足を踏み入れる。


「睦月さん!」


 天秤、はかりなどの、実験器具が詰まった戸棚。そこに寄りかかる睦月さん。右手には野球部持参品のバットが握られていた。

 バットにこびりついた真っ赤な液体は、蜘蛛の体液だろうか。


「……お……カアサ」


 全身に蜘蛛の鎧をまとう化け物が、前進に邪魔な実験テーブルをひっくり返す。ちゃぶ台をひっくり返すように軽々と。

 流し台につながっていた配管が、音をたてて折れる。机に付属しているガスバーナーも、チューブごと引っこ抜かれた。

 ガスの漏れる異様な匂いが、室内に漂う。

 備え付けの実験テーブルを、こうも易々と引っこ抜く化け物の力。屋上の扉を安心だと言った生徒会長がこの光景を見たら、また腰を抜かすだろう。


「アンタ、なんでここにいるのよ!」


 化け物が、上半身に蠢く蜘蛛を身につけたまま、実験テーブルを持ち上げた。重量挙げの選手のように、高々と誇示する。化け物の腕が、以前見たときよりも確実に膨れ上がっている。

 俺は佐藤の姿を探していた。

 月光を頼りに実験室を見回す。実験テーブルの下、戸棚の陰……。

 唐突に俺の視界は反転する。

 俺のいた空間を横切っていく実験テーブル。

 あんな巨大なものが目の前を飛んでいく光景を、俺は見たことがない。実験テーブルが飛ぶと、誰が予想できるだろう。

 実験テーブルは、奥にあった戸棚に直撃した。

 戸棚のガラスが割れ、その身が傾く。ビーカー、試験管、フラスコ……それらが雪崩のように戸棚からこぼれ落ち、破砕音が実験室に響き渡った。


「足手まといなのよ!」


 俺は睦月さんに助けられていた。俺を押し倒して、自らも体勢を低くすることにより、難を逃れたようだ。


「馬鹿なの? それとも、それに気がつけないくらい大馬鹿なの?」

「俺は……」

「何も出来ないくせに! どうして来たのよ!」


 俺の胸の中に顔をうずめていた睦月さんは、一難去って顔を上げると、当然のように激昂した。


「俺は、助けに来たんだ!」


 汗を浮かべる睦月さんに言い返す。


「なら、どうして私がアンタを助けてるのよ!」

「そ、それは……」

「偽善者は偽善者らしく、言うだけ言って、尻尾巻いて逃げていればいいのよ」


 睦月さんは颯爽と立ち上がる。

 化け物に立ち向かうつもりなのだろう。

 細腕は、擦り傷や切り傷だらけ。相変わらず腫れ上がっている右足は、病院に直行すべき怪我だ。制服もところどころ破れている。破れたスカートは、スリットのように切れ込みが入っていた。


「それでも、俺は睦月さんを助けたいんだ」

「だから、アンタには出来ないって言ってるじゃない!」

「盾ぐらいにはなれる!」


 俺は感情的になっていた。

 忘れていた感情の波が、再び押し寄せてきた。

 冷静ではない俺の心が、勝手にその言葉を叫ばせていた。


「盾ぐらいにはなれる? よく言うわね。人を見殺しにした偽善者が」

「……確かに、俺は見殺しにした。それは事実だ。でも!」


 立ち上がって睦月さんと顔を突き合せる。


「睦月さんを助けたいと思う気持ちに、嘘はない。怖くても、震えても……それでも助けたいと思ったから、俺はここに来たんだ」

「どういう心境の変化?」


 睦月さんの問いに答える間もなく、蜘蛛が飛んできた。

 今は、睦月さんの会話だけに意識を傾けていい時ではない。


「いい加減、飽きたわ」


 体を丸めた蜘蛛が、高速で向かってくる。更に太くなった怪物の右腕から放たれた直球は、確実に速度を増していた。もし、目標が睦月さんでなく俺だったら、確実に顔面にクリーンヒットしていたところだ。

 睦月さんは、右手に携えたバットのグリップを強く握り締め、鋭く振りぬいた。

 風を切る音は二つ。

 投擲された蜘蛛と、睦月さんのスイング。

 その二つは瞬き一つの間に激突し、勝敗はすぐに決した。居合い抜きのように解き放たれたバットの軌跡は蜘蛛をとらえ、実験室の天井へと打ち返す。


「少しつまらされたわね。良くて二塁打」


 蜘蛛自身のスピードと、睦月さんのバットの力。

 両方からくる力の激突から生まれた破裂音。

 体を覆った硬質の皮膚は剥がれ飛び、内臓が教室に飛び散った。腸のような長い管は、実験室の黒板に張り付き、内容物を失った蜘蛛は、天井にへばり付いた。

 やがて重力の力に引かれて、化け物の前にぼとりと落ちる。

 軽口を叩く睦月さんの表情は、口調ほど軽くはない。


「……オカア……さ」


 丸太のような太い手が、また両肩にへばりついた蜘蛛をつかむ。右手と左手につかまれた蜘蛛は、口裏を合わせたように動きを止め、体を丸める。


「馬鹿の一つ覚えみたいに……」


 ため息をついて不敵な笑みを浮かべる。汗が頬を伝い、あごに到達する。睦月さんは鬱陶しそうに制服の袖で拭う。


「睦月さん、もう……」


 俺は睦月さんの腕を取る。細くて白い、陶磁器のような肌が、切り傷で赤く痛んでいる。


「気安く触らないで。殺すわよ」


 気が立っているのか、化け物にかける言葉と同じ強さを持っている。

 俺はそれでも、睦月さんの手を放さない。

 睦月さんは舌打ちをする。


「先に謝っておくわ」


 俺を蹴り飛ばすと、蜘蛛を投げようと振りかぶる化け物に突進していく。


「……睦月……さ……」


 強烈な腹部への蹴りで、睦月さんの手を放してしまう。

 床に膝を着いたときには、睦月さんはすでに怪物の右手から投げられた蜘蛛の調理を、終わらせていた。体のひねりを加えた渾身の袈裟切りで、蜘蛛を床に叩き落とす。

 ぐちゃり、と床に体液が広がる。

 ばらばらになった足が、俺のほうに飛ばされてきた。

 左手の二投目は、投げることすら許されなかった。

 化け物の左手側に回りこんだ睦月さんが、袈裟切りの勢いのままに化け物に背中を向ける。

 それは更に勢いを増した一撃を加えるための布石だ。

 まるで、あらかじめ用意されていた演舞を舞うかのように、それは一部の狂いなく実行された。

 回転力を込めた一閃が、化け物の左手に炸裂する。

 バットで叩かれた左手ごと、蜘蛛は粉砕された。内部から破裂するように、左手から蜘蛛の臓物が飛び出す。

 美しくなびく髪の毛が、睦月さんの顔を取り巻いた。

 さらに華麗なステップを踏む睦月さん。回転力を加えたバットは、次に化け物の右手をなぎ払う。

 化け物の右手の指は、あらぬ方向に折れ曲がった。

 睦月さんは、痛む右足をこらえて更に加速を加える。化け物の後方にある実験テーブルに跳躍すると、三角飛びの要領で、化け物の頭上に唐竹割りを叩き込むべく、舞い上がる。剣道で言うところの面だ。

 天から地へ。

 稲妻のように、化け物の頂点へと叩きつけられるバット。化け物の右手と左手を封じた上での、決定的な一撃。俺にはそう思えた。


 だが、演舞は予想した最後には至らない。


 床に転がるバット。無情の金属音。

 化け物の脳天に命中させた金属バットが、折れ曲がっていた。

 振り切ったその手から、バットを取り落としてしまった睦月さん。

 バットが折れ曲がるほどの衝撃で、使用者に負担がかからないはずがない。作用反作用の法則は、誰にでも付きまとう。規格外の睦月さんとて、例外ではない。化け物のすぐ後方に着地した睦月さんは、両腕を震わせて顔を苦痛に歪める。震える手を見つめる睦月さんは、化け物の反撃に気がつかない。

 化け物は、指の折れた右手で、背後の睦月さんに裏拳を見舞う。

 それは、お世辞にも鋭いというほどの攻撃ではなかった。睦月さんなら、十分回避可能なものだ。

 しかし、睦月さんはそれが出来ない。

 酷使した右足のためか、不注意のためか、予想外のためか。

 いずれにせよ、睦月さんは回避することが出来なかった。かろうじて右手で顔をカバーするのが精一杯。裏拳を見舞われた睦月さんは、実験室の椅子を蹴散らしながら床を滑っていき、壁に激突して動きを止める。


「睦月さん!」


 腹部の痛みを忘れて、睦月さんに駆け寄った。


「……怒鳴らないで」


 抱き起こす俺を突き放して立ち上がろうとするが、もつれて俺に身を預ける形になる。


「アンタは……自分の心配だけしてればいいのよ……」


 軽い脳震盪を起こしているのか、言葉がおぼつかない。それでも強がろうとする睦月さんが、悲しく思えてくる。


「私は……逃げない。絶対に逃げない」


 俺を突き放して、転がっていた椅子を手に取る。殴り飛ばされたとき、椅子にぶつけたためか、頭から血が流れている。白い肌には似合わない真っ赤な液体が、額から、眉、目を伝って頬へと落ちていく。

 それは、赤い涙だ。


「絶対に、殺してやる」


 亡霊に取り付かれたように、繰り返す。左目から流れる血涙は、あごに到達し、床にこぼれ落ちた。落下した血涙は、床に一つ二つと斑点を作っていく。

 俺は、化け物へ一歩を踏み出す睦月さんの前に、両手を広げて立ちはだかる。


「化け物をかばうの? それとも殺されたいの?」

「そうじゃない」

「アンタを見ているだけでイライラするのよ。その偽善ぶりには反吐が出る」


 睦月さんの目が鋭くなる。


「それでもいい。俺はこれ以上、睦月さんが傷つくのを見たくないんだ」


 広げた両手の指先にまで力を込める。

 睦月さんには、これ以上戦ってほしくなかった。睦月さんをここまで駆り立てるものを俺は知らない。

 でも、ここで睦月さんを戦わせてしまったら、きっと睦月さんは命尽きるまで戦い続けるに決まっている。

 それだけは、なんとしても止めたかった。


「戦っては駄目だ。逃げるんだ」

「逃げて、何が解決するっていうの? 戦わずして生き残ろうなんて虫のいい話……さすが偽善者ね」


 俺の背後から、恐怖の足音が聞こえてくる。背中を向けている分、背後の音には敏感になる。化け物との距離感が不確かな分、恐怖は倍増する。

 それは、命を投げ出すような行為。


「足が震えてるわよ。怖いんでしょ?」


 化け物の打撃を防御した腕をさすりながら、笑う。


「逃げれば?」


 化け物が俺の背後に迫る。耳のそばで化け物の息遣いが聞こえてくるようだ。


「死ぬわね。そのままだと確実に」


 蜘蛛の足の擦過音が、耳にこだました。耳朶を震わせ、鼓膜に入り込み、勇気を削っていく。

 俺の両足は、自分でも見ていられないほど震えている。


「じゃあね、偽善者さん」


 睦月さんは俺に手をふった。友人との別れ際に交わす挨拶のように。

 化け物の足音が止まる。


「ン……おカア……さ」


 声は頭の上から聞こえた。

 緊張に心臓が止まる。命の鼓動が止まる。

 戦慄が体中を駆け抜けた。頭上に待ち構える圧倒的な暴力。

 化け物が腕を振り下ろすイメージが、俺の脳裏に描かれる。 

 確かなイメージは、俺の予想通りの弧線を描いた。



 その先に待つのは、死、だった。


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