第十七話・「偽善者でいたい」
「正臣、香奈……」
屋上の夜風が、和輝の声をさらう。
「残ったのは、これだけか」
生徒会長は、俺と香奈を見て眼鏡をかけなおした。
「散々だったな、まったく……」
俺の横を通り過ぎた生徒会長は、そう言うと、屋上に続くドアの鍵を閉めた。
俺はその行動に目を見張る。
「これで、いくら強靭な力があろうとも、入っては来れないだろう」
「……それでも、生徒会長なのか?」
和輝が満天の星空を背に、怖い声を出す。
「生徒会長だからこそだ。ここの鍵を持っているのは私なんだから、私が助かるのは当然だ。だが、遅れてくる、または――」
冷たい風が、俺の身を震わせる。
「死んでいく人間まで待つ必要はない。それ以前に、この場にいる人間を救うという選択をした私が、称えられるはずではないか?」
満天の星空を仰ぐように、両手を広げる生徒会長。
「二人の命と、四人の命。どちらが優先されるべきか。言われなくても分かるだろう?」
それが割り切るということ。最小限の犠牲で、最大限の命を救うこと。
「助けに行くというのなら、止めはしない。行くがいい。二度と屋上へは来れないがな」
手に持った鍵を、手の中でくるくる回してもてあそぶ。
一度鍵をかけてしまえば、内側からも外側からも、鍵がないと扉は開かない。
「……俺は」
割り切ること。
過去の自分を捨てる。出来ないことはしない。出来ることだけをする。自分の範囲内で、やれることだけをする。できないことは仕方がない。失敗は過去にして、忘却の彼方へ追いやってしまえばいい。見捨てることも、大切な何かを守るためならば仕方がない。
確かに、それは心地よく聞こえる。体にすぐに浸透してくる。心を落ち着かせてくれる。当然のように聞こえる。
「正臣?」
香奈が俺の正面に立って、両手をつかんでくる。
「まだ迷ってるの? 私たちは助かったんだよ。悩む必要なんてないんだよ」
笑顔を浮かべて、俺の体を揺する。
「香奈……」
「守ったんだよ。私を。愛している人を」
香奈の言う通りだ。俺はやれることをやった。やるべきことをした。できる範囲のことをした。大切な人を守った。
割り切ったんだ。
「俺は、これでいいんだよな……?」
「うん。間違ったことなんて何一つしていないよ。正臣は正しいよ」
正しいこと。両親が俺にずっと教え続けたこと。言い続けてきたこと。
「もう悩まないで、正臣」
加藤さん。俺の隣の席だったクラスメイト。守れなかった命。
「割り切ろう?」
夏美。俺に勇気をくれた人。犠牲にしてしまった命。
「ね?」
睦月さん。俺の憧れの人。立たされている危機。
「正臣?」
和輝。親友だと思っていた人。切れないと思っていた絆。
「俺は……」
たくさんのものを、俺は過去にしようとしている。どれもかけがえのないもの。二度と手に入らないもの。俺の心の中で、輝くべきもの。
割り切れば楽になれる。割り切れば幸せに生きることができる。
心につながって俺の足を引っ張る荷物など、鎖ごと引きちぎってしまえばいい。そうすれば身は軽くなる。
でも、それでは俺は弱いままではないのか。重いものをずっと背負い、引き続けることで、足腰が強くなる。強くなればこそ、引き続けてきた重荷は、次第に軽く感じられるのではないか。
前者と後者の違い。
それは、俺自身の強さ。
「……俺……は……」
割り切れ。
「俺……は」
心の奥底にしまって、蓋をした感情。過去の自分。
それが、蓋を持ち上げて顔を出す。上から押し付けようとするも、力が及ばない。徐々にその姿が見え始める。
「正臣!」
――どうして……。
夏美が襲われたときの顔を思い出す。不思議そうな顔で俺を見つめていた。自分の絶望を悟り、俺に失望した顔。自らの運命を呪う顔。
――どうして……。
睦月さんの右足。蜘蛛の直撃を受けた足。夏美と同じ右足。
「正臣は割り切ったんだよ。そうでしょ?」
夏美と睦月さんが、重なって見えた。
「正臣、正臣!」
立ち上がってから、ちっとも動こうとはしなかった。ただ生意気な言葉を言うばかりで、階段を上ろうともせず、俺を追い払おうとしていた。逃げることに賛成したはずなのに。何度も拭ったあの大量の汗。あの額の汗は、極上の強がりではないのか。
――どうして……助けてくれないの?
夏美は言った。
俺はもう一度思い出す。夏美の口の動き、あのときの俺を見て、彼女は。
――どうして……。
俺はあの言葉の先を、今になって知る。
――どうして……そんなに悲しそうな顔をしているの?
夏美は、俺を思いやっていた。間近に迫った死の感覚に怯えながらも、夏美は他ではない俺を思いやっていた。夏美はずっとそうだった。
右足に不自由しながらも、心は誰よりも自由だった。
逃げ出したい俺のことを気遣って、背に乗るのを遠慮していた。誰かの力になれないことに胸を痛めながらも、元気付けようとしてくれた。蜘蛛に襲われたときもそうだった。俺を心配して来てくれたんだ。
恐怖のあまり動かなかった俺の足。夏美は分かっていた。だから、俺が助けられないのを知って、せめて悲しまないで、と。
自分勝手な思い込みかもしれない。楽になりたいがための方便かもしれない。
でも、最後の最後まで俺のことを考えていてくれた。
「香奈……行かせてくれないか」
「何言ってるの? 私とずっと一緒にいるって」
大切な人がいる。大事なものがある。
「馬鹿なことを言い出すものだな」
生徒会長の冷笑が闇に吸いこまれる。
「割り切ったと思った。割り切れると思った……」
俺を必死につなぎとめようとする香奈の腕を、優しく振りほどく。
「でも、過去は捨てられない。自分が犯した過ちを、仕方がないなんて、そんな風に考えられないんだ」
香奈が、笑顔で俺の頬に手を添えてくる。
「違うよ。正臣は、少し混乱しているだけ。抱きしめてあげる。そうすればきっと落ち着くよ」
「あのとき……確かに俺は、加藤さんを助けようとした。そのせいで夏美が犠牲になって、結局誰も助けられなくて……」
今度は俺が、香奈の肩に手を置く。
「割り切ればよかったのかもしれない。加藤さんをあきらめていればよかったのかもしれない」
「何言ってるの? 正臣」
微笑を浮かべている香奈の声は、表情とは裏腹だ。
「でもね、香奈」
俺は出来るだけ優しく、そして、真剣に言葉を積み重ねていく。
「俺は二人とも助けたかったんだ。本心なんだ。偽善でなく、心から……。出来ないから、出来る範囲のことだけする……分かるよ」
「分かるなら、もう止めよう。割り切れるよ、正臣なら」
微笑んでいる香奈の目が、うっすらと濡れていく。
「それでも……俺は出来ないと分かっていても、二人を、みんなを助けたかったんだ」
「まさ……おみ?」
「だから……割り切ることは出来ない」
「お前って奴は!」
香奈と俺の間に入ってきた和輝が、両手で首元を締め付けた。鼻と鼻がぶつかるくらい接近した顔。烈火のような眼光。俺を焼き尽くそうという意思表示。
「香奈を守るんだろう? 好きなんだろう? なら、どうして一緒にいてやらないんだ!」
和輝が、俺を屋上のコンクリートに引き倒す。
雨と風にさらされ続けた屋上のコンクリートは、砂利が多い。叩きつけられた頭皮に食い込んでくる砂利の痛み。その痛みが、夢でないことを教えてくれる。
「俺は香奈が好きだ。でも、お前ならいいって! 仕方ないって! 憎いけど、お前なら香奈を幸せにしてやれるだろうって!」
「和輝……」
「お前の代わりなんていないんだ!」
コンクリートに倒した俺の胸倉をつかんで叫ぶ。和輝の肩越しに夜空が見えた。和輝の瞳は、夜空に浮かぶ恒星のように、悲しく輝いていた。
「どんなに憎くても! 傷つけられても! お前はたった一人の俺の親友なんだよ!」
俺が憧れた人間。誰よりも人が良い。俺にとってもたった一人の親友。
それが、和輝だ。
「だから、香奈を悲しませないでくれ……頼むから……」
「和輝……俺は……」
雨が俺の頬に落ちた。和輝から降り注いだ雨。
「それでも俺は、偽善者でいたいんだ」
涙を拭わない和輝。いや、拭わないのではない、拭えないのだ。
「臆病で、何もできない、口だけの偽善者で……」
睦月さんの顔が浮かんで、消えた。
「それが俺の――正しいことなんだ」
俺の返答に対する答えか、和輝の拳が振り上げられる。だが、拳はいつまでたっても落ちてこなかった。目を閉じ、歯を食いしばった俺は、やがてゆっくりと星空を目に映す。
「正臣に乱暴しないで……和輝……」
香奈が和輝に抱きついて、動きを封じている。
「いい加減にしてくれ、香奈。何でそんなにされても――」
背中越しに疑問を呈する和輝。
「好きなんだもん……大好きなんだもん……愛してるんだもん!」
俺からは香奈の顔は見えない。苦悶に歪む和輝の顔だけが見ることが出来た。和輝は眉を寄せたまま立ち上がり、座り込んでしまった香奈を抱擁する。
和輝に包まれた香奈。
俺はその和輝の背中を見て立ち上がる。
「放して……和輝」
「放さない」
和輝は香奈をさらに強く抱きしめた。
「正臣?」
和輝の胸に顔を抱かれた香奈は、視界を失っている。
「正臣?」
香奈が俺を呼んでいる。
「過去は、捨てることなんて出来ない。過去があるから、今の俺があるんだ」
香奈の胸に届くだろうか。
「和輝、放して。正臣と話をするの」
「放さない」
和輝の胸を押し返そうとするが、香奈の力ではそれが叶わない。
「加藤さんを救えなかった。夏美を守れなかった。俺が二人を殺したんだ。それを背負っていく」
俺は伝わらないと分かっていても、微笑を浮かべた。涙まで浮かべるつもりはなかったのだが、どうやら涙腺が勝手に反応してしまったようだった。
「失敗しても、傷ついても、俺は偽善者でいたい。誰かを思いやりたいんだ」
誰かを助けたいという心があるから、人は人でいられる。人は優しくなれる。
俺の考える正しさは、誰かを思いやること。
割り切らずに、過去を背負いながら、後悔しながら生きること。苦しむ誰かに、手を差し伸べるということ。
たとえ、恐怖に足がすくんだとしても、俺は手を差し伸べたい。偽善と言われても構わない。
俺は助けたいだけ。自分に正直に生きたいだけ。
それが、俺の正しさ。
「正臣? どこ?」
甘い考えだとは分かっている。
でも、甘やかされて育った俺だから、愛情を多く受けて育ってきた俺だから、誰よりも優しさを知っている。誰よりも優しく出来る。
甘やかされた分、今度は俺が甘やかす番。
誰かに助けられた分、誰かを助ける番なんだ。
「放して、和輝。正臣と話がしたいの」
「和輝、香奈を頼む」
俺は生徒会長に目配せする。生徒会長は、心底わずらわしそうに顔の筋肉を動かすと、屋上の扉を開けた。
俺は生徒会長に一礼する。
「勝手に死ねばいい」
腕を組んで俺を侮蔑する。
「行かないで正臣! 私のそばにいて!」
俺は、開け放たれた暗黒への扉に、第一歩を踏み出す。
「割り切れるよ! 正臣なら出来るよ!」
次第に遠ざかる香奈の声。
「好きだって言ったよね? ずっと一緒だって言ってくれたよね?」
恐怖の蔓延する校舎には、星空は不釣合だ。もちろん、今の俺にも。
「信じてるよ! 私、信じてるから!」
香奈が和輝から抜け出そうと、和輝を叩く。
「ごめん……香奈。助けを待っている人がいるから。危険な目にあっている人がいるから。俺は……行くよ」
香奈が、和輝の中で暴れる。黙して痛みを受け止める和輝。
「放して! 和輝! 正臣が行っちゃう!」
香奈の顔を見なくて済んで、良かったと思う俺がいる。もし、あのいつもの笑顔が消えていたら、俺はきっと、この場から去ることが出来なかっただろう。
泣いている香奈は、想像できない。
「戻ってきて正臣! 愛してるの、一緒にいてくれなきゃ嫌なの!」
止まっては駄目だ。深い沼に、何度も足を取られそうになるのを耐える。
「お願い! 放して! 正臣が!」
扉をくぐるところで、和輝の声が聞こえた。背中越しだから表情が分からない。
「宝物は任せろ」
「任せた」
「お願い……ずっと……一緒にいるって……割り切るって……」
俺が扉を通過すると、生徒会長は乱雑に扉を閉める。投獄されたような感覚。
やがて鍵の閉まる音がした。
後戻りは出来ない。賽は投げられたのだから。
「正臣!」
扉の向こうから聞こえた最後の一声は、まるで別世界からの声のように聞こえた。