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第十六話・「死にたくない」

 俺が教室から廊下に飛び出すと、様子を見に来た生徒会長たちと遭遇した。

 上の階から来たことを見ると、生徒会室にいたらしい。

 俺と同じく懐中電灯を持った生徒会長が、俺の顔を照らす。


「生きていたのか」


 喜びも何もない言葉。


「光をどけろ、鬱陶しい」


 俺は生徒会長に直射していた懐中電灯を下ろす。生徒会長の横には和輝がいた。


「……和輝」


 和輝の姿を見て、俺は心に痛みが走る。

 和輝は気まずそうに俺から視線をそらして、バリケードに向き直った。


「何の音なんですか……これは。誰か、誰か知ってますか?」


 佐藤がおろおろと周囲の人間を見回す。


「知るわけがないだろう」


 佐藤は生徒会長の背中に、ぴったりとついている。腰巾着という言葉が、頭に浮かんだ。


「泣き寝入りしているかと思えば。髪の毛切ったのが原因? だいぶ甘えてすっきりしたの?」


 馬鹿にするように投げかける睦月さん。


「それとも、卑猥なほうのすっきり? 偽善者さん」


 腕を組んで見下してくる。尊大な態度は相変わらずだ。

 俺は言い返してやろうと思ったが、止めた。相手にすれば、割り切ることができなくなる。


「無視? 弱い人間がよくやる手段ね」

「黙れと言ってるのが分からないのか!」


 生徒会長の大声に、近くにいた佐藤が肩を震わせる。


「よく言えるわね、臆病者の癖に」


 生徒会長の眉毛がぴくりと動く。


「睦月、貴様……上級生に逆らうのか?」

「貴様? 漫画でしか聞かないわね、その台詞」


 止まるところを知らない睦月さんの悪態に、生徒会長は手を振り上げた。暗くてよく見えていないのか、睦月さんはよけることもできずに、頬に平手打ちを受けた。

 乾いた音が闇に溶けていく。


「フン。手を挙げれば服従するとでも? これだから男は」


 睦月さんは健在だった。

 折れた様子も、衝撃を受けた様子もない。一体どんな精神力をしているのだろうか。

 こんな時、夏美だったら、泣きながら二人止めるだろう。

 ……だが、夏美はいない。よって、止める者もいない。

 俺は首を横に振った。考えるな、割り切れ。そう念じた。

 一触即発の雰囲気は、和輝の一言で破られた。


「やめてくれ。今はそんなことをしている時じゃない」

「そ……そうですよ。やめてください」


 和輝の後ろに隠れるように、佐藤も声を出す。ただし、声量は虫のようだった。

 言い争っている間にも、謎の物音は大きくなっていく。

 そして、次の瞬間、バリケードの一部だった机が、こちらに向かって飛んでくる。

 俺と生徒会長の中間を飛んでいく机。

 よける必要がなかったのが、救いだった。

 どんな膂力を込めて投擲されたものなのか。階下の踊り場から投げられた机は、一直線に廊下の天井にぶつかって、転がった。

 机の行方を追っていた俺。

 落ちた机の脇には、非常ベルの不気味な赤い光が揺らめいている。

 暗闇に浮かぶ赤は、さながら人魂のようだった。


「……お……カア、さん……」


 男の声。

 漆黒の闇に包まれた踊り場から、声が聞こえた。バリケードが破壊されたと考えていいだろう。机を軽々と投げるほどの力を持った何か。それが、今、俺たちの目の前にいる。


「……か、あ? ……サン」


 俺は恐る恐る懐中電灯を向けた。光は階段を照らし、そして、踊り場にたたずむそれを照らし出した。


「ひぃ」


 佐藤の悲鳴。尻餅をついて、あとずさる。

 異様な姿をした男子生徒。

 上半身には数え切れないほどの蜘蛛を張り付けている。あまりの数に制服など確認もできない。男子生徒だと分かるのは、スカートの有無だ。

 張り付いた蜘蛛、その全てが激しく蠢き、膨大な数の触手を口から伸ばしていた。蜘蛛の足同士が触れ合う不気味な音。それが、あの金属音の正体だ。


「……か……アサ……?」


 うつろな右目だけが、びっしりと張り付いた蜘蛛の隙間から、かろうじて確認できる。その目が、恐怖を口走った佐藤を捕らえる。


「……い、いやだ……死にたくない……」


 異常なほどに膨れ上がった腕。それに似合わない普通の足。膨大な蜘蛛を携えたその生徒は、もはや人間ではない。

 蜘蛛が持つ三つの目玉が、真紅に光りだす。暗闇でもはっきりと輝く何百という目玉は、さながら死神のようだった。


「……さン? ……かア……」


 重い上体を揺らしながら、階段を登ってくる。真っ赤な光点が揺れる方向に尾を引いた。


「なによ……これ」


 豪胆な睦月さんも、例外ではなかった。

 尻餅をつくことはなかったが、顔が青ざめている。

 生徒会長は眼鏡がずれ落ちているのも気がつかず、腰を抜かしていた。

 立っていられたのは、階段の手すりのおかげだ。


「逃げるぞ……」

「……賛成」


 睦月さんが和輝に賛同した。俺は香奈を背中に隠すように移動した。


「ありがと、正臣」


 この最悪の状況で嬉しそうに笑うことのできる香奈。

 そういう無神経さが、俺には理解できない。


「逃げるのには、賛成。でも、その前に……試してみないと分からないじゃない」

「馬鹿か! 勝てるわけないだろ!」


 戦闘行動を取ろうとする睦月さんに、和輝が、信じられない、といったように叫んだ。


「……死にたくない……死にたくない……」


 佐藤は廊下の端に身を寄せて念仏を唱えている。もはや立つこともできないようだった。それでも、何とか逃げだそうともがき始める。はいはいをする赤ん坊のように、敵に背を向けて反対側の廊下へ這っていく。


「おい! 私を助けろ!」


 腰を抜かして立てない生徒会長が叫んだ。眼鏡を落としかけて、あわててキャッチし、改めてかけなおす。

 眼鏡がないと何も見えないのだろう。

 眼鏡が落ちたときの慌てようは、すさまじかった。そこに、普段の怜悧な生徒会長の面影はない。

 懐中電灯すら取り落とし、それは怪物のほうに転がっていく。怪物はそれを踏み潰して、階段を上ってくる。

 周囲を照らす光が減少した。


「滑稽ね」


 口の端を吊り上げて嘲笑する睦月さん。


「貴様ああああぁ!」


 血管が切れるのではないかというほどの怒号。口からつばを飛ばし、睦月さんを殺すように睨んだ。それでも、睦月さんは生徒会長の怒号など、どこ吹く風だ。和輝が舌打ちをして、生徒会長を立ち上がらせる。

 直後、化け物の大木のような腕が動いた。

 自らの体に張り付いている蜘蛛を掴み取る。つかまれた蜘蛛は、その体を丸めて、動きを止めた。

 化け物にも、蜘蛛を取り除こうという意思が存在するのだろうか。


 ……だが、そうではなかった。


 両手に持った蜘蛛を、あろうことか俺たちに投げつけてきたのだ。この場にいた誰もが、化け物の予想外の行動に、反応できない。化け物の右手から放たれた蜘蛛は弾丸と化し、睦月さんの右足を直撃する。

 続いての二投目。

 睦月さんは持ち前の運動神経で身を捌く。投擲された蜘蛛は、そのままのスピードで廊下のガラスを突き破り、外の暗闇に飲まれていった。


「……殺してやるわ、絶対に」


 硬質の皮に覆われた蜘蛛の威力。それは、廊下に足を着く睦月さんが証明している。

 睦月さんを襲った一投目の蜘蛛は、地面に着地すると同時に足を広げ、個別に俺たちを襲いだした。

 間髪入れない第二波。よけられることを見越しての二次攻撃。

 投げられることを想定していたとしか思えない行動。その知能が、この化け物にあるというのか。あるいは身についたのか。

 睦月さんを襲う一投目の蜘蛛。

 一直線ではなく、壁を利用して死角から取り付こうとする。光源のない暗闇の状況。蜘蛛の赤い目玉だけが、煌々と不気味に輝いている。赤い光は、三角形の軌道を描いた。

 跳躍、天井、睦月さんの背後。

 膝をつき、蜘蛛を見失ってしまう睦月さん。


 ――駄目だ。襲われる。


「後ろだ!」


 睦月さんは、声と同時に振り向いた。蜘蛛が自らの腹を向けて飛びつく。

 そのほんの僅かな時間。迷わず睦月さんは体を旋回させた。

 ダメージを受けた膝を軸にして、左足を振りぬく。蜘蛛には予想外だったろう。空中では回避動作もままならない。よって避けることは不可能。

 なすすべもなく回し蹴りを受けた蜘蛛は、腹から臓物をばら撒いて、壁に直撃した。

 壊れた足が廊下に転がる。

 投げて、つぶれたトマト。

 体液を飛び散らせる様は、まさにそれだった。


「……なめるからよ」


 痛む膝を抱えて、勝利の美酒を味わう。だが、とても酔うことなどできない。俺は睦月さんにライトを向ける。痛めた右足は赤く腫れ上がっている。それでも立ち上がる睦月さんの胆力には、感服するばかりだ。


「正臣……割り切ってって……言ったのに……」


 睦月さんに蜘蛛の位置を伝えたのは俺だ。とっさに出た大声に、俺はしまったと思った。

 しかし、声を出してからではもう遅い。


「香奈、それは!」

「何でかな。愛が足りないのかな」


 なぜ、笑っていられるのか。

 なぜ、そんなに楽観的でいられるのか。


「永沢! 屋上だ! 屋上に連れて行け!」


 生徒会長が和輝に命令する。


「何をしてる! 早くしろ! うすのろが!」


 和輝は、肩を貸してしまったことを後悔するように、唇を引き結ぶ。


「早くしろと言ってるのが分からないのか!」

「鍵は……」


 三階は生徒会室、その上の階は屋上だ。頑丈な扉があり、通常は施錠されている。


「鍵なら私が持っている! 助かりたかったら私を運べ! これは生徒会長としての命令だ!」


 生徒会長には鍵を持つ権限がある。確かに八方塞の今、それしか方法はなさそうだった。


「分かりました」


 和輝は感情のない声でつぶやくと、階段を上り始める。


「そうだ……それでいい」


 生徒会長は満足そうに唇を歪ませた。


「生徒会長であることを今持ち出すなんて……愚かね」


 睦月さんが、和輝とともに階段を上り始めた生徒会長に、怨嗟をこめる。


「睦月……覚えていろ」


 不気味に微笑む生徒会長。


「忘れるわよ。アンタのことなんか」

「売女が……」


 二人は階段を上っていく。


「……アサ、ん。オか……」


 化け物が階段を上りきった。ビクビクと体を痙攣させてこちらに近づいてくる。素足で歩く怪物の足音が、耳に張り付くようだ。


 ひたひたひたひた。


 その巨体からは、おおよそ似つかわしくない。


「お母さん、お母さん。よっぽどマザコンなのね」


 額に大量の汗をにじませながらも、睦月さんは睦月さんだった。自分のペースを崩そうとしない。


「正臣、私たちも行こう?」


 香奈が笑いかけてくる。張り付いたような笑顔に、俺は疑問を感じる。


「ああ……行こう」


 この疑問や苛立ちは、今の状況が生み出したものだ。

 俺はそう思い込むことにした。

 ライトを向けると、怪物がいまだに痙攣を続けている。襲う意思は見られないようだが、油断はできない。大量の蜘蛛は相変わらず足を鳴らして蠢いており、怪物の筋肉は、そこかしこで膨張を繰り返している。上半身から放出される血液が、注射針から漏れる液体のように見えた。片方しか見えない怪物の目は、黒目が消えたり現れたりで、忙しく動き回っている。

 怪物を大きく迂回して、階段を上りだす俺と香奈。

 俺は、階段の途中で睦月さんを振り返る。睦月さんが階段を上ってくる様子はない。俺が立ち止まって睦月さんに視線をくれているのを発見した香奈は、恋人同士がそうするように、後ろから俺の目を手で隠した。


「駄目だよ、正臣。言ったでしょ、いざというとき、正臣自身を滅ぼすことになる、って」


 俺は香奈の手をはがして振り向く。香奈は、やはり笑顔だった。


「今がそのとき。割り切るんだよ」


 俺は香奈と睦月さんを、交互に見比べる。


「行こう、正臣」


 優しい声。女神のように思えた声。今それが、頭の中で反響する。俺は激しい葛藤の中、ライトの光で睦月さんを照らす。


「屋上に行くなら、それ頂戴。私、もう少し頑張るから」


 腕を組んで軽く言ってのける。余裕の表情だ。


「くれれば、勝てるかもね」


 俺は懐中電灯を投げ渡す。受け取った睦月さんが、わずらわしそうに額の汗を拭った。運動しているわけでもないのに、汗が噴き出している。

 俺はこの光景に見覚えがあった。

 そう、あれは、夏美をおんぶした時。俺が恐怖のあまり逃げ出して、和輝に止められて、夏美が無理をして……。


「正臣。ほら、大丈夫だって言ってるよ」


 香奈が俺の腕を引く。


「行きなさいよ。偽善者の助けなんて、こっちから願い下げ」


 指先をこちらに向けて言い放つ。


「同情で立ち止まるぐらいなら、さっさと屋上行けば? 観戦されると目障りなのよ」


 苛立ちと、葛藤と。俺は俺自身に翻弄されている。

 屋上に行けば、俺と香奈は助かる。だが、睦月さんはどうなる。

 本人は大丈夫だと言っている。

 しかし、相手は未知の化け物だ。いくら睦月さんとはいえ、危険すぎる。


「正臣、早く行こう。割り切るんだよ」


 割り切る。

 俺は、和輝と仲違いしてまで手に入れた決心を思い出す。ここでその意志を曲げてしまえば、俺自身が駄目になる気がする。失ってきた全てが、無意味になる気がする。

 割り切れ。割り切るんだ。そのために俺は、俺を取り巻くものを捨ててきたのではないか。

 迷うことは許されない。


「……行くぞ、香奈」


 香奈はいっそう嬉しそうに笑顔を浮かべ、後ろを歩く俺の手を引いて、階段を上る。


「置いていかないで!」


 それは睦月さんの悲鳴ではない。廊下の隅に体を寄せた佐藤だった。もはや這って逃げることは不可能だと悟ったのか、俺に手を伸ばしてくる。


「お願いです、置いていかないで……!」


 涙交じりの悲痛な声は、再び俺の心を震わせた。封印したはずの心の奥が、産声を上げる。

 涙を流し、鼻水を垂らし、すがるように俺に手を伸ばす佐藤。


「正臣」

「分かってる!」


 張り上げた声。


「悪い……。佐藤……睦月さんも」

「別に。期待してないし。契約も破棄してるし。行けば? 彼女が怒るわよ」


 手でごみを払うように、人払いをする。彼女は割り切ることを望んでいるのだ。罪悪感を抱くだけ無駄ではないのか。

 心の震えが沈静化する。


「そんな! それでも人間ですか!」


 佐藤の叫喚が、背中を向ける俺に突き刺さる。

 日和見で、誰かの後ろにしかいられない人間。あるときは生徒会長の腰巾着。あるときは真っ先に逃げ出す臆病者。

 自分勝手すぎる。

 俺は佐藤を振り返ることすらせずに、階段を上っていった。この階段を上る一歩一歩が、割り切るということ。足が、重い。


「助けて! おい、聞こえないのかよ! 助けろよ! 偽善者!」


 佐藤が、夢中になって俺を呼び止めようとする。床に両手を叩きつけるアピールをしながら。

 割り切れ。

 でなければ、また大事なものを失うことになる。

 もう失いたくない。俺は、割り切ることができるはずだ。


「正臣。守ってね」


 香奈の声が、俺の背中を押した。

 そう、俺には守らなければならない、たった一つのものがある。全てを捨てても、守らなければいけない人がいる。俺は、香奈を守ると決めたんだ。それが、割り切ること。

 それが正しいことのはずなんだ。


「分かってる。分かってるさ……」


 睦月さんと佐藤の姿が見えなくなった。


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