第十五話・「正しいのかな?」
夢を見た。
子供の頃の夢だ。
俺がまだ、小学校の低学年だった頃の夢。
空を飛んだとか、人魚に会ったとか、そんな奇想天外な夢ではなく、過ぎし日のリフレインだった。
当時は誰よりもやんちゃで、何をするにも率先して行動していた。発言もし放題だったし、悪戯盛りでもあったから、俺はよく先生を困らせていた。我慢するということを知らず、おもちゃ屋の前で駄々をこねて両親を困らせる、なんてことは日常茶飯事だった。
そんな俺でも、両親は飽くことなく愛情を注いでくれ、結局は必ず欲しかったおもちゃを買ってくれた。だから俺は、自分の思い通りにならないことなんてないと思っていた。
わがままを言えば、駄々をこねれば、すべて自分の望み通りになると。
そんな自分主義の俺なのに、周囲から嫌われなかったのが、今でも不思議でならない。持ち前の明るさと、指導方針を間違わなかった両親の賜物だろう。
――正しいことをしなさい。
おもちゃを買い与えるとき、両親は必ずそう言った。小さなときから、ずっとそう言われて育ってきた。成長するにつれて、それがいかに難しいかということに気がついたが、それでも善悪の判断だけは敏感だった。
人はどうして、当たり前のことをできないのだろう。
悪いと分かっていることを平気でするのだろう。
声には出さないまでも、念じるだけで怒りがこみ上げてきた。
上級生にタバコを勧められたとき、俺は未成年者だから、ということで、断固拒否した。両親が泣くのが分かっていたし、自分の主義に反したからだ。上級生からは、いい子ぶりやがって、と嫌味を言われたが、俺には重要ではなかった。
正しいことをした、という自負があったから、胸を張って生きてこれた。
俺は両親に寵愛され、不自由なく、自分の思い通りに生きてきた。正しいことが好きだったから、規則に忠実で、模範生徒だった。
当然だ。当たり前だ。俺は間違っていないはずなのに……。
――臆病で、何もできない、口だけの偽善者。
睦月さんにそう言われたところで夢が覚めた。
涙が固まって目を開けることができなかった。目をこすって何とか涙の欠片を取り除くと、抱きしめていたはずの香奈がいないことに気がつく。横になったまま教室をぼんやり眺めると、香奈はすぐに見つかった。
転がっていた自分の携帯電話のディスプレイを、真剣に見つめていたのだ。
普段から笑顔の香奈にしては、貴重な真顔だった。
「正臣、起きたの?」
夕焼けを通り過ぎた教室は、もはや薄暗い。香奈の笑顔がかろうじて見えるぐらいだった。
「起こしてくれても、よかったのに」
頬が痛んだ。口を動かさなければ痛くなかったので、気がつかなかった。
和輝との殴り合いが、現実であることを再認識させられる。
「正臣は疲れてるから。休んでおかないと」
香奈は微笑みながら、制服のポケットに携帯電話を入れる。
「いまさら俺のメールでも確認してたのか?」
「うん。確かに受け取ったよ」
「でも、もう必要ないだろ。連絡できないんだし」
「そうだけど、正臣の思い出も詰まってるから」
香奈は満面に笑みをたたえた。それが疲れた心を癒してくれた。
「もう薄暗いな」
俺はストレッチをしながら、蛍光灯のスイッチに近づく。思った以上に痛みが引いていることに驚く。若いということ自体が武器である、と誰かが言っていたのを思い出した。
「あれ……」
「どうしたの?」
「いや、電気がつかないんだ」
オン、オフを幾度となく繰り返すが、蛍光灯はうんともすんとも言わない。
「他の教室は……」
俺は教室を出て行こうとするが、香奈に止められた。
「他の教室も同じだよ。それに、ほら」
左手に持った懐中電灯を見せる。
「お、準備がいいな」
「もっと褒めて」
香奈が猫のように擦り寄ってくる。俺はそんな香奈が愛しく思えて、抱きしめる。
「俺が、香奈を守るから」
「うん」
香奈の手が、俺の背中に回る。俺の胸に顔をうずめる香奈。
残り少ない太陽の光が、教室をほんのりと照らす。窓から侵入した光は、教室全体を照らすことはなく、床をわずかに切り取るだけだ。
夜が近い。
「そうだ正臣、これ見て。何だと思う?」
思い出したように俺の胸から脱出して、香奈は床に落ちていた袋を取る。その袋には見覚えがある。
「備品入れる袋だろ。ホチキスとか、パンチとか、ハサミとか入れる」
「うんうん、まさにその通り」
香奈は嬉しそうに頷くと、その中をまさぐって、ハサミだけを取り出した。
「これから、正臣の髪の毛を切ろうと思います」
「今から?」
「うん」
「ここで?」
「うん」
「こんなときに?」
「うん」
香奈がいちいち丁寧にうなづく様子が、とても微笑ましい。
「はい、よだれかけ」
「よだれかけって……。もっと別の言い方があるだろ。それじゃ俺が赤ん坊みたいだ」
「男はいつまでも赤ん坊だよ」
意味深な発言だ。
「それに正臣だって、赤ん坊でもないのに泣いていたでしょ」
「お前、それは……」
遠慮もなく笑顔で言われてむっとする。
俺にとってあれだけ悲劇的だった出来事が、香奈の中では赤ん坊のそれと同様に思われているのだろうか。
ふいに出そうになる反感を抑える。
「それより、座ってよ」
「……分かった。床でいいか?」
「いいよ」
俺は床にあぐらをかくと、香奈に渡されたよだれかけを首に巻く。このよだれかけは、ジャージを裁断して広げ、適当につなぎ合わせたものだ。つなぎ目がホチキスの針というのも、多少無理がある。
しかし、落ちてくる髪の毛を受け止めるには、十分な大きさだった。
「短くなりすぎないように、頼むぞ」
朝の会話が思い出された。香奈が玄関前に座っていた朝を。
思い返してみると、朝から日常から逸脱していたように感じられる。
遅刻して、香奈がいて、予告のない集会があって……。
「それじゃ、切るよ」
香奈がハサミを動かして、嬉しそうな声を出す。
膝を床に着いた香奈は、俺の髪をある程度つかんで、勢いよく断髪していった。俺の長く伸びた髪の毛が、目の前を雪のように落ちていく。ジャージに降り積もったそれをつまんで、親指と人差し指ですりつぶすと、まとまっていた髪の毛が、一本一本になって落ちていく。
香奈の鼻歌が聞こえる。
一昔前に流行った曲で、カラオケでよく歌った覚えがある。音痴な和輝には、笑わされてばかりだった。
思い出が、また俺の涙腺を緩ませようとする。
割り切ったのだから、もう思い出す必要などないのに。
あいつはもう、俺の親友だった和輝ではない。今は、ただの他人だ。
「正臣、和輝のことを考えているでしょ?」
心臓が破裂するかと思った。
「駄目だよ。割り切ったんだから。いざというとき、正臣自身を滅ぼすことになるよ」
「あ、ああ……分かってる」
「加藤さんのことも、水野さんのことも、睦月さんのことも、私以外みんな他人。考えるだけ無駄だよ。過去なんていらない。私との今と、未来だけあればいいんだよ」
「……それが、割り切るってことなのか」
「うん。正臣は割り切れたんだよ。そうでしょ?」
「……ああ」
すっきりとしない肯定。
「できることだけをする。それを妨げるだけの過去なんて、いらないんだよ」
「……できることだけ、か。……香奈、それって――」
俺は短くなった前髪を確認する。
「正しいのかな?」
香奈のハサミの動きが止まる。
俺はそんな大層なことを聞いたと思えなかったので、動きが止まったことに驚いた。
「割り切ったはずだよ、正臣。正しいとかそういうことは、もう意味がないよ」
正しいことが意味を成さない。心の奥が震えた。
「それより、少し短くなりすぎたけど、このくらいでどう?」
「……俺の言ったこと、理解してないだろ。むつ……」
睦月さんに俺のことを尋ねた件もそうだった。
そう言おうとした口を止めていた。割り切ったのだから、過去を持ち出してはいけない。決めたはずだ。割り切ると……。
「ま、まあ、いいんじゃないか。頭が寒いけど」
上手く誤魔化せただろうか。
俺は髪の毛の感触を確かめながら立ち上がる。
「かっこいいよ、正臣」
自分の思い描いた俺にすることができて、満足げな香奈。どうやら何とか誤魔化せたようだった。
「そ、そうか?」
俺は手鏡を香奈から渡され、自分の姿を確かめる。
すでに周囲は日が没していて、懐中電灯片手での確認だった。
見慣れない自分に多少の戸惑いがあるが、慣れるまでの辛抱だ。
「それにしても、暗いな」
教室を見渡す。窓の外はすでに闇の中だ。虫の声一つ聞こえない、完全なる闇の空間が広がる。その中で、バリケードを叩く音、引っかく音が継続して聞こえ続けている。知能が低く、バリケードを取り除くことができない、ということが分かってからは、ただ耳障りなだけで、恐怖感は薄れ始めている。
俺は、懐中電灯を何気なく窓の外に向けてみた。
「なんだよ……これ」
懐中電灯の光が、校庭を輪郭の乏しい楕円形に切り取る。
校庭には、一般人が歩いていた。一人ではない、十数人、いや、何十人だろう。
そこから予想できることは、すでに学校外にも被害は広がっているということ。学校に閉じ込められた俺たちに気がついて助けに来てくれる、ということも、すでに望みが薄いということ。
「外に逃げても、これじゃ……」
悪態をつく。
食料もないこの現状では、飢え死にが関の山だろう。
短髪になった頭をかきむしると、完全には払拭できなかった髪の毛がぱらぱらと落ちた。
「正臣は大丈夫だよ」
香奈が、俺の背中に触れたときだった。
地響きのような音に続いて、鼓膜を引き裂くような金属音が、バリケードのある方向から聞こえてきた。