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第十四話・「この痛みがなくなったら」

「正臣、お前……!」

「俺は、香奈が好きだ。香奈は俺が守る。和輝は自分だけ守ればいい。簡単だろ?」


 自分が自分でなくなる。

 冷静に、客観的に、俺は自分が何を言っているか分かっていた。

 この言葉を言うことで失うものが何かも。

 香奈を好きだ、と口に出すことで、俺は自分の気持ちを押し通そうとした。決して後戻りができないように、退路をふさいだ。

 もう進むしかない。それがたとえ、茨の道でも、間違った道でも。


「香奈、ずっと一緒だ。これからも」

「うん!」


 和輝の手がわななく。

 憎しみを込めた拳が繰り出された。ロッカーに寄りかかるようにして立っていた俺は、体重を沈めることで和輝の拳を間一髪でかわす。よけると思っていなかった和輝は、拳をロッカーに打ちつけた。

 ロッカーを叩く乾いた音が、教室に響く。

 俺は和輝の横に回りこむように移動し、上体を低く構えた。

 ロッカーを凹ませるほどの力が込められている、和輝の徒手空拳。

 その憎しみ、怒りの大きさは計り知れない。


「正臣……心底、お前には」

「悪かったな。こんな奴で」


 和輝の右手指から血が滴る。赤みが差し、震えている。


「いまなら、まだ」


 和輝がかすかな望みにすがるように、握力を緩めようとする。だが、俺はそれを許さなかった。


「戻る気はない。もう戻れない。それに……お前が言ったんだぞ、和輝」

「ああ……そうだ。俺が言ったんだったな」

「俺は、割り切ったんだ」


 和輝に突進する。低い体勢で和輝にタックルし、腰をとらえた。和輝は、教科書やプリントの散らばる床に腰を打ち付ける。俺はそのまま和輝の腰にまたがり、マウントポジションから、和輝にこぶしを振り上げた。


「俺は!」


 和輝の頬にこぶしをめり込ませる。

 至近距離からの打撃は、確実に和輝にダメージを与える。人を殴ることの痛み。殴られた側も、そして、殴った側もそれ相応の痛みを伴う。

 俺の拳は悲鳴を上げた。

 硬質と硬質、骨と骨、心と心。

 俺と和輝は互いの心と体を削りあっている。


「お前に!」


 ……憧れていた。

 誰よりも身近だった。誰よりもわかりあえた。これからもずっと親友だと思っていた。

 歳を重ねても、離れ離れになっても、ずっと、ずっと。



 ――親友だと思った。



「ふざけるなよ……」


 目を腫らした和輝が、自由になっていた足で俺の背中を蹴り上げる。後頭部に痛打を受けた俺は、和輝に覆いかぶさるように体勢を崩す。

 それを和輝は見逃さなかった。

 素早く身を翻すと、今度は逆に俺の上にまたがろうとする。俺はそれが分かっていたので、前のめりの体に更に加速をつけて前転し、和輝と距離をとる。

 だが、距離をとるという油断が、その後の展開を大きく変えた。

 床に膝をついたまま振り向いた俺は、油断から、目前まで接近した和輝に気がつくことができなかった。腰に受けた机のダメージも未だ抜けてはいない。

 俺は、立ち上がるのにさえ手間取ってしまう。

 結果、和輝の膝をこめかみに受けてしまった。

 脳漿が破裂したかのようだ。右の頭蓋に入り込んだ衝撃が、左の頭蓋から飛び出す。

 視界が二重三重に分裂し、意識が体から抜け出ていきそうになる。

 手をつくこともできずに、床に落ちていく。

 追撃は、すぐに来た。

 和輝が、床に横向きに倒れた俺の腹部を蹴り上げようとする。

 その様がスローモーションように見えた。サッカーボールを蹴るかのように足を振り上げる。

 ゆっくりと動く時間の隙間に、和輝の顔が見えた。

 


 ――和輝は、何でこんなに悲しそうな顔をしているんだろう。



 憎悪をこめるべき相手なのに。想い人を最悪の形で奪われたのに。何で、こんなに悲しそうな顔をして、俺を痛めつけようとするのだろう。

 そうか……そうだった。俺は分かってた。和輝が……。


「――止めて!」


 ――和輝君が……本当は、人が良いことぐらい。


 夏美の涙交じりの声が、聞こえた気がした。


「止めて。正臣が痛いのは、私も痛いんだよ」


 俺をかばった香奈が、和輝の足蹴りを受け止めた。和輝の足を抱きしめるように、つかんで放さない。バックスイングを得た足蹴りは、相当重かったはずだ。

 女の子なら泣き出し、立ち上がれないくらい強烈なはずだ。


「止めて、和輝」


 香奈は笑顔だった。痛いなんて表情には出さない。多少咳き込んではいるものの、笑顔を崩そうとはしない。

 和輝は愕然としているようだった。香奈の腕から足を引き抜くと、そのまま何も言わずに教室を出て行ってしまう。

 しばらくして、遠くからガラスの割れる音が聞こえた。

 和輝の悲痛な咆哮が、廊下に響く。


「正臣、大丈夫?」


 頭痛がひどく、香奈の声が遠くに聞こえる。幽体離脱でもして、自分で自分を見下ろしている気分だ。現実感が薄れていく。


「正臣?」


 波のように寄せては返す痛み。痛みにまぶたが閉じそうになるのをこらえて、瞬きをする。



 そこに広がる教室の風景。



 遅刻者が慌てて教室に入ってきて、友人に舌を出しておどける。女子生徒は、リーダー的役割の女子の席に集まって、隣の高校の美男子の話で盛り上がっている。

 夏美は、加藤さんと次の授業の準備。

 どうやら加藤さんが宿題をやってこなかったらしく、夏美のノートを丸写しにしているようだ。

 香奈は相変わらずの笑顔で、自分の席に置物のように座っている。香奈の視線の先には俺と和輝。お互いに肩を叩き合って、涙を流し、腹を抱えながら笑いあっている。

 担任の先生が入ってくると、慌てて自分の席に戻り、全員が教卓に目を向ける。先生が大きな声で朝の挨拶をすると、生徒全員が、それぞれの声量で挨拶を返す。

 みんなの笑顔がまぶしい。

 

 ……瞬きをする。



 そこに広がる教室の風景。



 机も、椅子も、教卓もない代わりに、机から放り出されたノートや教科書、プリントの残骸が、乱雑に散らばっている。壊れた筆箱の中身が散乱し、プラスチックの下敷きには、蜘蛛の巣状のひびが入っている。

 俺が持ってきた香奈の携帯も、捨てられたように床に転がっていた。

 そして、教室の中心には夏美が横たわり、顔にはハンカチ。生涯切れるはずないと思われた俺と和輝の絆も、あっけなく切れてしまった。

 そこには、誰の笑顔も、声も、姿もない。


「正臣?」


 涙がとめどなく流れる。

 戻すことのできない、大切な時間。大切なもの、大切な人。

 もう、何も残っていない。


「正臣、痛いの?」

「俺は……失ってはいけないものを……たくさん失ってしまった……もう二度と取り戻すことのできないものを……」


 いつまでも続くと思った学校生活。いつまでも続くと思った楽しい時間。


「割り切ることは、そういうことだよ。楽になれたでしょ? 正臣がずっと背負ってきた重荷を、下ろすことができたでしょ?」


 自分も痛いはずなのに、笑顔で俺を抱きしめる。二人横になって、抱きしめあう。


「これで、もう苦しまなくていいんだよ。自由になったんだよ、正臣」


 枯渇することのない涙腺。滂沱として流れていく雫。


「この痛みがなくなったら、きっと正臣は強くなれるよ。だって、割り切れたんだもん」


 香奈を強く抱きしめ、俺は泣き続ける。

 涙でこの教室が見えなくなるまで……。


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