第十三話・「仕方がなかった」
階下からは、昨日までこの学校の生徒だった人間の声が聞こえる。
完成したバリケードを引っかく音や、叩く音、それらは止むことなく継続的に耳に入ってくる。
背中の痛みは、いつの間にか消えていた。
身体的な痛みよりも、精神的な痛みのほうが勝っていたから、感じることができなかっただけかもしれない。
あのあと……俺は水野さん――夏美を机と椅子のなくなった自分の教室に運び、胸で手を組ませ、ハンカチを顔の上にかけた。
心臓に突き刺さった板を抜くと、そこからは夏美の中を流れていた血潮があふれ出した。夏美の体から板を引き抜いたときの感触。それは、本当に人間に刺さっていたのか、と疑いたくなるくらいあっさりと抜けた。
俺の手は、夏美の返り血で真っ赤に染まる。
やがて流れ出る量も少なくなると、夏美の体は急激にその色を変え、今では蝋人形のように、教室の中心でぐっすりと眠るばかり。
キスをしたら起きるのかな、なんて馬鹿な想像をした瞬間、また目から涙が落ちた。
俺は教室のロッカーに寄りかかり、膝を抱えている。
「正臣……」
甘えるような声が聞こえた。
香奈は俺の膝にまたがると、ゆっくりと顔を近づけてくる。俺は膝を抱えることができなくなり、手のやり場に困った。
対して香奈は、俺に愛しそうに微笑みかけ、曇りのない瞳を、まぶたの裏に隠す。
……香奈の唇が、俺の思考を奪った。
顔の角度を変え、積極的に舌を俺の舌に絡めていく。
吐息と吐息が混ざり、唾液と唾液が混ざり、俺は混沌の中へ落ちていく。
求め、触れ合えば、確かに悲しみは薄れる。快楽の前では、思考は無力だから。
薄目を開けると、そこには夢中になって舌を絡める香奈の顔。
香奈がこんなに夢中になることなんて、今までにあっただろうか。
誰と接していても、どこか距離を置くようにして、積極的に交わろうとしない。
でも、断ることもしない。誘うこともしない。だから嫌われもしない、好かれもしない。
常に微笑を浮かべているから、人は香奈に悪い先入観など持たなかったし、発言もほとんどしないから嫌味も言われなかった。
でも、俺と和輝には違った。
初めて香奈が俺に話しかけてきたときのことを思い出す。
和輝と他愛無い会話で盛り上がっていたところに、突然香奈が寄ってきた。俺と和輝は会話を 中断し、香奈を振り向く。
――近くにいてもいいですか?
今のように呼び捨てで呼び合うような仲ではなかったから、俺と和輝は耳を疑うばかりだった。お互いに頬をつねったりして、現実を確かめたりもした。特別好かれるようなことをした覚えもなかった。
ただ、一つ思い当たることがあるとすれば。
それは、雰囲気。
俺と和輝の。俺と和輝は、こんなにも気の合う人間がいるのかというほど気が合った。毎日楽しくてたまらなくて、二人でいつも笑ってばかりいた。
太陽のように笑う俺たちの近くに居ることで、自らを照らして欲しかったのかもしれない。闇夜に浮かぶ月のように。
でも、俺は和輝と居るほうがずっと楽しかったから、香奈を避けようとしていた。香奈が混じると色々制約があるし、身動きもとりにくかったから。
俺は香奈を避けていた。
でも、それでも香奈は俺に寄ってきた。
嬉しそうに、愛しそうに……。
香奈が唇を離す。
つぶらな瞳を持った童顔が、俺に甘えたそうに笑う。
「……もっと。正臣も」
駄々をこねるように、香奈はキスを要求した。
俺は何のためらいもなくそれに応じる。
現実とか、助けるとか、守るとか。
そんなもの全て忘れてしまいたかった。
俺を好きでいてくれる人。その好意を受け止めてしまえばいい。慰めてもらえばいい。
楽になれる。苦労せずに。ただ受け取ればいいだけだ。こんなに楽なことはない。
俺は行き場をなくしていた手を、香奈の背中に回した。香奈は嬉しそうに呻き、キスは激しさを増す。
これでいい。
俺は、これでいいんだ。
頑張った。十分頑張ったはずだ。
だから、楽になったっていい……。
――どうして助けてくれないの?
耳元で誰かがつぶやいたような気がして、俺は目を開けた。
そこにはハンカチを取った真っ赤な夏美が立っていて、包帯の巻いてある足を引きずって歩いてくる。
――どうして助けてくれないの?
胸から血を流しながら、俺に手を伸ばしてくる。
――どうして助けてくれないの?
俺は香奈を引き剥がしていた。
「どうしたの? 正臣」
「こんなこと、駄目だ……」
夏美は、やはり教室の中心で眠りについている。ハンカチも顔にかかったままだ。
一方で、胸の辺りで組ませた手が解け、教室の床に片手がついていた。
「……助けたかったんだ」
「正臣?」
「助けたかったんだ。助けようとしたんだ! でも、助けられなかった! ……足が動かなかった。怖くて、怖くてどうしようもなったんだ」
止まったはずの涙が、また流れ出す。
「守りたかったんだ! ……加藤さんも夏美も……みんな、みんな、救いたかったんだ……」
「でも、正臣はできなかった」
俺は香奈に視線を合わせる。
「正臣、無理しないで。できることだけすればいいんだよ」
天使のような微笑を浮かべる。
「正臣ができることを。正臣ができる範囲で、正臣なりにやればいいんだよ」
「香奈……」
「和輝も、それが分かっているから、正臣を救おうとしたんだよ。大事な人だけを」
宝物を守ると言った親友の顔。夏美に謝った親友の顔。
「正臣には守れなかった。加藤さんも、水野さんも。正臣にはできないことだったんだから、仕方がないことなんだよ」
香奈が俺の頭を愛撫する。子供をなでる母親のように。優しく、ゆっくりと。
「仕方がなかった……?」
甘い蜜のような言葉。
「うん、だから、正臣は悪くない。悲しむことなんてないんだよ。正臣にはできないことだったんだから」
香奈の言葉がすんなりと俺の耳に入ってくる。まるでそれが心理であるかのように、俺の心の中に定着していく。
それは、まさに麻薬だった。
「仕方がない……」
「うん。正臣は悪くない」
香奈は笑いかける。悪意の欠片もない、完全なる笑みだ。
「好き。ずっと一緒だよ」
冗談と決め付けて相手にしてこなかった言葉を、俺は心の底から欲しがっている。
誰一人として、俺を信じてくれなかった。
偽善と罵られ、睨みつけられてきた俺。そんな俺をずっと信じ続けてくれた人、香奈。
俺は、彼女を欲している。
それがたとえ甘えから来たものでもいい。
今、この瞬間、俺を受け止めてくれる人がいる。
だから、俺は香奈だけを守る。香奈だけを守ればいい。他に何もいらない。俺にできることはそれだけだから。
仕方がないんだ。仕方がないことなんだ。
俺は自分に言い聞かせる。
心の奥底で悲鳴をあげる過去の自分を押し殺して、俺はその上に新たな自分を刷り込んでいく。
誰に文句を言われようとかまわない。それが自分のできる範囲だ。
俺はもう、香奈以外誰も助けない。誰も助けなくていいんだ。
周囲のものなど切り捨てればいい。それができなければ、香奈でさえ失うかもしれない。加藤さんを見捨てて、夏美を助けていれば、少なくとも夏美は助かっていたのだから。
それが最善。
犠牲を最小限に、効果は最大限に。
それが人間だ。
一人の人間のために、百人が犠牲になることはない。迷わず、一人を見殺しにすればいい。
それが俺にできる範囲だ。俺のなさなければいけないことだ。
……心がきりきりと痛む。
過去の自分を捨てしまえばいい。罪悪感で俺を苦しめる過去の自分なんて、捨ててしまえばいい。そんな過去の精神など、必要ない。
「……俺も」
加藤さんのことも、夏美のことも、仕方がなかったんだ。そう思うしかない。思うしかないんだ……。
「好きだよ、香奈」
俺は、いまだに痛む心に鍵をかけようとした。
「正臣……お前、何してるんだよ」
香奈と口付けようとする俺に割って入る形で、声が飛んだ。
見れば、和輝が教室の入り口に立っている。
「何をしてるかって、聞いてるんだよ」
心が痛い。鍵をかけることはできなかったようだった。でも、確実に奥へと押し込むことはできた。
「正臣は、私と」
「香奈には聞いてない!」
見たこともないような和輝の表情だった。泣いているような声、しかし、面は鬼の形相だった。
「正臣!」
「……悪いな」
和輝が大またで俺に近付き、強引に香奈を押しのける。香奈が尻餅をついて、小さく不平をもらした。
「痛いよ……」
和輝はそんな香奈には目もくれずに、俺の胸倉をつかんで立たせると、そのまま、顔を詰め寄らせる。
「正臣、悪い、って何だよ。何が悪いっていうんだ?」
俺には香奈が必要なんだ。香奈がいなければ、俺は一人だ。和輝でさえ、加藤さんを助けることに反対した。
俺は和輝とともに生徒会室を出たときの事を思い出す。
あのときは、和輝の言葉を理解できなかった。
でも、今なら理解できる。
俺にとって香奈は必要だ。
失う怖さを知ったとき、俺は和輝の気持ちに気がついた。そう、俺の味方だとずっと思っていた和輝でさえ、結局は香奈が目当てだということに。
「香奈を取られて、悔しいんだろ?」
「お前……!」
「俺と香奈を宝物だって言ったこと、覚えてるよな?」
「……覚えてる」
和輝が俺をいぶかしむ。
「結局それって、香奈が俺を好きだから、仕方なく、なんだろ?」
胸倉をつかむ力が強くなっていく。
「俺がいなくなったんじゃ香奈が悲しむから、仕方がなく俺を助けるんだよな?」
和輝の瞳の色が失望に染められていく。
「はっきり言えよ、和輝。香奈が好きなんだよな」
「ああ……だからどうした」
「俺は香奈が、好きだ」
和輝がつかんでいた手を離す。そして、振り上げられた右腕は、唸りをあげて俺の右頬をとらえた。
俺はロッカーに背中をぶつけるが、倒れることだけはこらえなければならなかった。
この痛みをこらえなければ、自分の意思を貫き通すこともできないように感じたからだ。
香奈が、殴られた俺のそばへ駆け寄ってこようとするが、俺はそれを右手で制す。
ロッカーに手をついて体勢を立て直し、和輝の鋭い眼光を受け止める。
「正臣、睦月さんのことはどうでもいいのかよ」
和輝の言葉に、心の奥底に抑えたはずの気持ちが震えだす。
「あんなに好きだって……お前、言ってただろ」
「正臣は、私のことが好きなんだよ、和輝」
「香奈、正臣を見てるなら分かるだろ。こいつは、お前を慰めてもらえる道具としてしかみてない」
香奈の純真な笑顔は、なおも輝く。
「みてないよ。正臣は、私のことが好きなんだよ。ね?」
和輝と香奈が、俺の動向に感覚を傾ける。
「ね、正臣?」
だが、俺は揺れだして止まらない心と、折り合いをつけるのに必死だった。鍵をかけそこねた心の奥。刷り込んだ意識が押し返されそうになる。
「正臣? そうだよね?」
香奈が俺の袖を引いた。
「正臣、ね? 正臣」
引く回数が増すにつれて、その力は強くなっていった。
「正臣!」
「あ、ああ……そうだよ」
慌てていた。声が裏返りそうになるのを押さえるのがやっとだった。