第十二話・「……どうして」
「香奈、あれほど言ったのに、お前……」
和輝が廃人のようにつぶやく。
「だって、正臣がいなくて寂しいんだもん」
「あの、違うんです。私が……その……正臣が心配だから、って無理言って」
水野さんが香奈をかばう。
「こんな男のどこがいいのか」
消火器を持つ睦月さんが、敵意を持ってつぶやいた。
「……か、加藤さんなの……?」
水野さんの声で、全員が加藤さんに注視する。
加藤さんの腹が、ありえないほど極端に膨らんだ。そして、膨らんだまま動かなくなると、それは制服の中を蠢き、真っ赤な足を露出させた。
血で染まった、節のある灰色の足。
加藤さんに動きはない。指一本動く気配なく、口も半開きのままだ。
制服から体を完全に露出させたのは、先生の口から出てきたのと同様の蜘蛛だった。形は同じだが、一回り小さい。
蜘蛛は、三つある目玉をぐるぐると回すと、口から出ていた触手をしまって跳躍した。
周囲確認、捕捉、捕食。
まるで一連の動作のような、手馴れた素早さだった。
幸い、避けられないスピードではなかった。俺と和輝は、体をさばいて回避する。捕食に失敗した蜘蛛は、そのまま血塗られた壁に張り付き、また一連の作業を繰り返す。
そして、あろうことか、階段の上にいる三人に狙いを定めた。
俺から見て、左に睦月さんがいる。右には香奈、その後ろに水野さんがいた。
蜘蛛の狙いは右か、左か。
睦月さんが、迎撃しようと消火器を構える。つぶらな瞳が、敵愾心に染まった。
「香奈! 逃げろ!」
和輝の叫喚が、鼓膜を振動させる。
蜘蛛は睦月さんの気迫に押されたのか、右、香奈のほうに飛び掛った。
香奈はそれに反応できない。
「香奈!」
和輝の叫びが、再び鼓膜を揺らす。
その叫びが届いたのか、蜘蛛は香奈に取り付かなかった。狙いが甘かったのか、香奈の首元を掠めただけで、香奈には触れもしなかった。
しかし、俺は戦慄する。
蜘蛛は香奈を素通りしたかわりに、水野さんのスカートに取り付いていた。
恐怖のあまり身動きできない水野さん。
蜘蛛はスカートの生地に足を引っ掛けるようにして、器用に水野さんの顔へ向かっていく。
水野さんの顔が恐怖に歪む。
スカートから、腹、そして胸へ、蹂躙するように上ってくる。その勢いにのまれたのか、水野さんは仰向けに倒れこむ。
松葉杖が廊下に転がった。
「嫌! いやああああああぁっ!」
水野さんの顔をがっちりと六本の足でつかんだ蜘蛛は、器用に残りの二本の足で水野さんの口をこじ開ける。
「水野さん!」
俺は、背中の痛みに耐えて駆け出す。
「いやあああああぁっ! 正臣――!」
蜘蛛を手で引き剥がそうとするが、蜘蛛は離れない。
水野さんの顔の皮膚に食い込む足。
足を固定させている場所からは、水野さんの血が流れる。
俺の鼓動が加速する。
大切な人の血。
俺に笑いかけてくれた人の血。
――助けを求めている。
しかし、階段を登ろうとする足の動きが突然鈍くなり、俺は前のめりに転んでしまう。
……足が震えていた。
蜘蛛は助けようとする俺など気にする様子もなく、こじ開けた口に尻の方から体を押し込んでいく。軟体動物のように関節をあらゆる方向に曲げて、水野さんの口腔に体をうずめる。
俺は震えて動かない足を叱咤するが、やはり思うように動いてはくれなかった。
走り出そうとするが、すぐに転んでしまう。足が走ろうとしていない。
蜘蛛の恐怖におびえるように。
死にたくない、行くな、と俺に語りかけるように。
……蜘蛛が見えなくなった。
水野さんは、蜘蛛が口に入った後、少しの間、俺を不思議そうに見つめて、こう言った。
「……どうして」
――助けてくれないの?
俺の視界が真っ赤に染まった。
水野さんは、その直後、口から血を吐き出して動きを止めた。
数秒後、ゆっくりと立ち上がる。
機械のようなぎこちない動きで、関節を動かしている。歩く水野さんの脚が、転がっていた松葉杖を蹴った。
包帯の巻かれた足で、しっかりと地面を踏みしめている。
右足、左足。
一歩、一歩、確実に歩いている。
本来なら感動する場面のはずなのに。なぜ、こんなにも悲しいのだろう。
「マ……さ、オ……ミ……」
水野さんが涙で見えなくなる。
「サ……オミ、ま……?」
ゆっくりとこちらに手を伸ばし、近づいてくる。口から湧き水のようにこぼれる血で、制服や、スカート、右足の包帯が真っ赤に染まっている。
「……」
睦月さんは無言のまま、手に持った消火器を振り切った。
「やめろおおおおおっ!」
俺はあらん限りの声を振り絞る。
慈悲もなく、消火器が水野さんの後頭部を直撃した。
廊下に倒れこむ水野さんがまだ動いていることを知ると、睦月さんは落ちていた松葉杖を拾い、階段の手すりに叩きつけて壊す。松葉杖の一部だった板を選別すると、先端の鋭利さを確認する。
「残念だけど」
それは俺に言ったようだった。
睦月さんは水野さんの心臓に、板を突き立てていた。
「……ま、おオ、ミ」
俺の名前の一部分を使った断末魔。紅に染まる左胸。
体中に血を供給する場所を突いただけあって、湧き水のように滾々と血が噴き出す。
悪魔に止めを刺す主人公。
映画のワンシーンのように、それは現実味に欠けていた。
それよりも、生徒を殺す生徒という構図が、そもそも現実から剥がれ落ちている。
睦月さんは、微動だにしない水野さんの顔を横に向ける。しばらくすると、そこから蜘蛛が這い出してきた。それを、待ってました、とばかりに踏み潰すと、タバコの火を消すように廊下にこすり付ける。
睦月さんの足のサイズに納まりきらない蜘蛛の足が、土踏まずから飛び出していた。
「何があった?」
生徒会長と佐藤が、バリケード作業を終えたのか、反対側から走ってくる。つぶさに状況を理解したのか、眼鏡を指で持ち上げると、冷たい瞳を水野さんに向けた。
「どうせ足手まといになるのだから、遅かれ早かれ、結果は同じだっただろう」
今すぐ走っていって、生徒会長の胸に、水野さんに突き立っているものを刺してやりたかった。
刺し殺してやりたかった。
「……香奈じゃなくてよかったよ」
俺の横を和輝が通り過ぎる。俺にはまったく目を合わせようとしない。
俺は、這うようにして水野さんに近づいていく。
そっと頬をなでると、加藤さんの時のように、まだかすかに温もりがあった。血のにおいに混じって、水野さんの甘いにおいがする。
「アンタが、彼女を殺したのよ」
言いたいことは分かっていた。
「臆病で、何もできない、口だけの偽善者が、彼女を殺したのよ」
加藤さんは確かに生きていた。ただし、蜘蛛に操られる形で。
「アンタ、いざとなったら私を盾にするんじゃない?」
加藤さんをかばったせいで、結果的に水野さんに被害が及んだ。
生きている人を助ける。
俺は正しいことをしたはずだった。
なのに。
「契約解消。言うまでもないけど」
加え、いざというときに足を動かすことができなかった。
俺は怯え、すくんでいた。
和輝の言った通りだった。
「睦月、反対側のバリケードは完成した。早急にこちらも作成するぞ」
生徒会長は、人の死など気にも留めないで、睦月さんに指示を出す。
「分かってるわよ。いちいち指示しないで」
睦月さんの歩いた後には、蜘蛛の体液で作られた足跡が残る。
困ったようにため息をつき、生徒会長も教室に向かっていった。
「ひ、人殺し」
佐藤が、俺を大きく迂回するように、生徒会長についていった。詳しい事情を知らない佐藤が睦月さんの台詞を聞けば、そう思われても仕方がない。
「正臣」
香奈が俺を背中から抱きしめる。
「私は絶対、正臣を残していなくなったりしないよ」
涙が、頬を伝って水野さんの頬に落ちる。血だらけだった頬を洗い流すように。
「俺……は……俺は……」
どうして助けてくれないの?
「俺は……見殺しに……」
彼女は助けを求めていた。俺を頑なに信じていた。きっと助けてくれると……。
だが、自分が蜘蛛に侵入されたと知ったときの、あの絶望の表情は。俺に向けたあの目は。
そう、彼女は。
信じていた者に裏切られたのだ。
「泣かないで、正臣。泣かないで」
香奈が俺の頭を撫でる。我が子をあやす母親のように。
「……夏美……夏美……」
守ることができなかった大切な人と、最悪の形で守られた約束。
俺は、償うようにずっとその名前を呼び続けるのだった。