第十一話・「狂ってる」
「ああいうときは、俺が言うよりも、正臣に言ってもらったほうが、香奈はおとなしくなるんだよな」
生徒会室を出た俺と和輝は、廊下を走り出す。
「でも、少しはお前たちの間に入り込みたくてさ。正臣には任せなかった。分かるだろ?」
「あ、ああ」
訳も分からず生返事をしてしまう。
「そういうわけなんだよ」
和輝が俺を鈍感だと言ったが、早急に自覚する必要がありそうだった。
「それはそうと、正臣、落ち着いて聞けよ」
三階の廊下に二人の足音が響く。
「死人が、歩いてる」
俺はそれに問い返すことが出来なかった。
一瞬、往年のゾンビ映画を思い出してしまったからだ。
蜘蛛の化け物に襲われたときから、現実はすでに現実ではなくなっている。しかし、現実ではなくなっているにしても、これはあまりにも突飛過ぎる。映画の撮影でも行われているのではないかと、逆に陽気に考えられてしまうほどだ。
「今、生徒会長たちが、バリケードを作ってる。何とか奴らの進行を防ぐために」
和輝が二階に続く階段を駆け下りずに、踊り場までジャンプする。
ふざけていたとはいえ、不意打ちに近い水野さんの松葉杖の攻撃を回避するだけはある。
俺はもちろんそんなことは出来ず、二段飛ばして駆け下りるのが精一杯だ。
二階まで降りると、そこには机を大量に持ち出した生徒会長と、睦月さん、そして佐藤がいた。
容赦なく一階の踊り場に投げ込まれる机。
踊り場には、机と椅子、教卓が一緒くたになって積まれている。
「ここはもういい! 東城と永沢は反対側だ!」
手伝いに来た俺と和輝を、怒号が出迎える。
生徒会長は、眼鏡がずれるのもかまわずに、机を運び込んでいる。
「さっき、向こう側に移動していくのを見たんです!」
椅子を持った佐藤が、声を裏返して叫ぶ。
額には大量の汗が噴き出しており、制服は机の脚に付着した赤錆で汚れてしまっている。
「分かった。正臣、行くぞ。反対側だ」
俺はきびすを返す。
途中、俺を殴り飛ばした睦月さんとすれ違う。
佐藤よりも椅子を多めに持って、大またでこちらに向かってくる。
女らしい睦月さんのどこにこんな力が隠されているのか、不思議だった。
「しばらく立ち直れないと思ったのに、案外元気ね」
すれ違った俺の背中に聞こえた声に、俺は急停止してしまう。
「こっちはもうすぐ終わるから、手伝いに行くわ」
重労働で乱れてしまった髪を揺らす。俺が立ち止まっているのを分かっているのか、それだけ言うと、バリケード建設現場に戻っていく。
「正臣! 早くしろ!」
俺は、睦月さんのすらりと伸びた背中を目に焼き付けて、和輝に続く。
制服、髪、肌が汚れるのも構わず尽力する睦月さんを見ているだけで、励まされているような気分になる。
それは俺の勝手な妄想に過ぎないのだろう。
だが、確かに励まされた俺がいる。
受身が嫌いで、自分から行動することを厭わない、睦月さんらしい行動。
自分の運命は、自分で切り開くんだ、という強靭な意思が、その背中からは見て取れるような気がした。
「よし、運び出すぞ」
俺は踊り場に手近な教室に飛び込んで、机を持ち上げる。机に入っている教科書やノートは、全部教室にぶちまける。筆箱は音を立てて落ち、ふたが外れた。教室に転がったシャープペンシルを踏み潰しながら運び、ノートには上履きの足跡がつく。
外に出ると、すぐさま踊り場に向かい、階段の上から机を放り投げる。
学校内では考えられない轟音が響き渡った。
普段なら、驚いて教室から生徒が飛び出してきたり、先生が目を丸くして駆けてきたりするだろう。
「正臣、次だ、次!」
同じく机を運んで踊り場に放り投げた和輝に、背中を叩かれる。和輝は腕をぐるぐる回しながら、次の机を求めて教室に入っていった。俺も続いて教室に舞い戻ろうとする。
「……た、す……ケテ」
それはクラスメイトの声だった。
踊り場から声が聞こえてくる。
聞き覚えのある声に、俺は涙が出そうになる。
――生きていたのだ。
「……良かった、本当に良かった……」
俺は机を運ぶのを止めて、階段を下りる。踊り場に転がっている机をどけて、うつぶせになって倒れているクラスメイトに近付いていく。
俺の机の隣に座る女の子だった。
普段からあまり会話する間柄ではなかったが、時々隣から大きな笑い声が聞こえてきてびっくりしたことがある。ソフトボール部に所属していて、少々がさつな印象があった。
俺はそんな平和だった頃の学校生活を思い出しながら、彼女、加藤さんを助け起こす。
手にどろりとした感触。
助け起こした加藤さんの腹部が、真っ赤に染まっていた。
本来の色を失い、赤い制服かと思えるほどの出血。
「加藤さん!」
俺は加藤さんに呼びかける。
「タス……け、て?」
加藤さんの目が俺を捕らえる。口がパクパクと金魚のように動き、体中が痙攣を繰り返している。
「大丈夫、もう大丈夫だから」
俺は加藤さんに言い聞かせるように繰り返した。
言い聞かせるものの、加藤さんの症状は改善されない。
それどころか、痙攣は次第に酷くなっていく。筋肉という筋肉が全て爆発してしまいそうなほどだ。
俺は痙攣で暴れる加藤さんの頭を、腕から落としてしまう。
踊り場に、加藤さんが頭を打つ鈍い音が響き渡る。
すると、加藤さんの痙攣がぴたりと止んだ。
「か、加藤さ――」
俺は信じられなかった。
重症に見えた加藤さんが、次の瞬間、勢いよく立ち上がったのだ。
俺は片膝をついたまま、加藤さんを見上げる。
加藤さんの腹部からは、なおも出血が続いているようで、血液は太ももを伝い、ハイソックスに染み込んでいく。
「タ……ス、タス……タス、け……」
加藤さんの目が、ぎょろりと俺を向く。眼球が飛び出しそうだ。
「……か、加藤さん?」
加藤さんの口元から、よだれのように血が流れ出す。
いや、よだれではない、嘔吐だ。
量が尋常ではない。
加藤さんが言葉を話すたびに、うがいに似た音がする。
腕が俺に伸びた。
両手を俺に伸ばして、つかもうとしてくる。
往年のゾンビ映画で見る前傾姿勢のように。立ち上がったばかりの赤ん坊のように……。
加藤さんの手が、俺の顔に到達した。
――そう思えたとき、加藤さんは飛んできた机の角に頭をぶつけて吹き飛んだ。
机は音を立てて俺の前に転がり、加藤さんは勢いよく窓を突き破って、半身を外に露出させた。
「正臣! そいつから離れろ!」
「そいつ? お前、加藤さんに何をしたか分かってるのか!」
和輝が階段を慌てて下りてくる。
片膝をついたままの俺の腕を強引に引き上げ、壁に押し付ける。
「割り切れよ! 分かるだろ! 俺たちを除いて、もう生きてる奴なんかいない!」
「和輝……」
和輝の息が荒い。
「助けを……求めてるんだ」
「助け? だからか? だから助けたのか? 助けたお前が殺されるとしてもか!」
窓ガラスを突き破った加藤さんが、ゆっくりとガラスから半身を引き抜く。机をぶつけられた頭はくぼみ、血が沸き出している。顔面に滝のように赤が流れ、直視できない。見ても嘔吐感がこみ上げるだけだ。
「加藤さん……」
俺は茫然自失で、名前を呼ぶので精一杯だった。
和輝は、壁に押し付けた俺から手を離し、加藤さんに対峙する。
俺をかばうようにして。
加藤さんが和輝に腕を伸ばす。和輝はその腕を取るなどという生半可なことをせずに、跳躍して加藤さんの顎に蹴りを放つ。加藤さんの首筋があらわになるほどそっくり返り、仰向けに倒れこむ。
顔を染めていた血が、飛び散って踊り場の壁に飛散する。壁に付着した血は、重力に引かれて真っ直ぐな筋を作った。
「た……スケ」
加藤さんのつぶやく声が聞こえる。
俺はいまだに信じられない。
「和輝、お前……!」
肩で息をする和輝の背中。
「正臣、割り切れよ。もう生きている奴なんかいないんだ。惑わされるな。皆死んでる」
和輝が仰向けに倒れた加藤さんに近づいていく。口をパクパクさせて血を噴き出す加藤さんの顔の前に立つと、バリケードに使うはずの机を持ち上げる。
何をするというのか。
「止めろ、和輝。加藤さんは生きてるんだぞ」
和輝が机を高々と持ち上げる。
「和輝、止めろ」
俺は加藤さんがそうしたように、和輝に腕を伸ばす。
かすかな望みにすがりつくように。
「た……ス、け?」
加藤さんが眼球をきょろきょろと動かす。卵から生まれる直前のメダカのように。
和輝の腕に力が入るのが見える。
鉄槌が振り下ろされようとしていた。
俺は、体が思考よりも先に自然に飛び出すことを知る。
「アンタたち、何やってんのよ!」
睦月さんの、叫びにも似た声がほとばしった。
俺はコンマ一秒の速さで、加藤さんに覆いかぶさっていた。
他人が見たら、きっと加藤さんを襲っているように見えただろう。
「正臣……どうしてだ?」
背中に叩きつけられた机の威力は、俺が今まで生きてきた中でも三本の指に入るのではないかという痛みだった。
激痛が背中から広がっていく。
「何で分かってくれない!」
和輝が吼える。
机を投げ出し、頭をかきむしる。広げた両手には、かきむしりすぎて抜けた髪の毛。
「俺はお前を守りたいんだ! 助けたいんだ!」
「……なんなの、これ」
俺と和輝を見比べて、状況を判断できないでいるようだ。しかし、俺がかばっている人間を見て豹変する。
「死ぬわよ、アンタ」
俺を冷酷な瞳で見つめる。
「……スケ……て」
加藤さんが俺に語りかける。背中の痛みで泣きそうになる。でも、俺は加藤さんを守ることができた。その価値に比べれば、この背中の痛みなんかたいした問題ではない。
「助けたいんだ! 分かってくれ! 邪魔をしないでくれ!」
泣きそうな声で狂ったように訴える和輝。和輝のこんな醜態は今まで見たことがない。
「俺だって、助けたいんだ……加藤さんを。まだ生きてるんだ」
「何言ってんの? それ、化け物よ」
「そうじゃない、生きてるさ……ほら……」
加藤さんが小刻みに震えだす。俺は、なだめるように加藤さんの頬を優しくなでる。
まだ温かい。
頬も、頬を伝う血も、確かに暖かいのだ。
「狂ってる」
俺を、まるで化け物でも見つめるような視線で見下す。
「狂ってるのは、どっちだよ……」
俺は、痛む背中と折り合いをつけて立ち上がる。交渉は難航したようで、激痛が俺の表情を歪めさせた。
「何で……そうも簡単に割り切れるんだよ……」
俺は握りこぶしに力を入れる。
「同級生だろ! 学校生活の仲間だろ!」
睦月さんが唇を震わせる。
「昨日まで、昨日まで一緒に生活してきたのに、なんで殺せるんだ!」
和輝が、俺の言葉を聞くたびに、苦しそうに頭を抱え込む。頭痛にもだえ苦しむようだ。
「そんなのおかしいだろ!」
「救いようのない偽善者」
睦月さんの瞳が鋭くなる。
これは敵意だ。蜘蛛の化け物に向けるそれと同じ。
「……ケ、てテテ、て」
加藤さんが再び痙攣を繰り返す。
「化け物のくせに」
睦月さんが、壁に設置してあった消火器を取り出す。
睦月さんの視線は、痙攣を繰り返す加藤さんに注がれている。加藤さんが起き上がる気配はない。腹が膨れたり、へこんだりを繰り返しているだけだ。
「正臣、何騒いでるの〜?」
階段から、身を乗り出すように踊り場をのぞいてくる香奈の声。
場違いな明るい声に、その場にいた全員が我を失う。
香奈は小走りに階段を下りると、階段の手前で何かを手招く。
「ごめんなさい。その……大声が聞こえて、それで……心配になって」
香奈の手招いた先から、松葉杖をついた水野さんが恐る恐る顔を出した。