第十話・「約束だよ」
殴られた頬は、香奈のまじないが効いたのか、ひりひり痛むだけだ。
口の中を切ってもいないし、歯が折れたわけでもない。
思い返せば尻餅をつくほどのパンチだったかどうかも怪しい。
あの時、皆が俺の意見を反対したことで、俺の心が折れてしまっていた。
だから、睦月さんのパンチでも、あれだけのダメージがあったのかもしれなかった。
「正臣君……いい友達を持ってよかったね」
水野さんが足の痛みをこらえて俺の隣に座る。二人で壁に寄りかかる格好だ。
「私、あんなふうに言われたら感動して泣いちゃうよ、きっと」
水野さんの透き通るような声が、生徒会室に響く。耳朶をなめるような優しい声。
「私には、あんな友達いないな……。うらやましいよ、正臣君が」
包帯の巻かれた右足をさすりながら微笑む。
「足がちゃんと動いてくれたら、正臣君の言う通り、私もみんなを助けに行きたかった。本当だよ? でも、私……このままだと、ただの足手まといにしかならないから……。足の怪我だけに、足手まとい。すごい皮肉だね……」
涙声になりながら微笑む水野さん。
「ごめんね」
水野さんの心遣いが、胸に染み渡っていく。鋭く切り裂かれた心の傷を、優しく癒してくれる。
「謝るのは俺のほうだ……ごめん」
俺の謝罪に疑問符を浮かべる水野さん。
「今更だけど、階段でのこと……」
「私も、ごめんね。正臣君が睦月さんのこと楽しそうに話すから……なんか馬鹿みたいに嫉妬しちゃって。それであんなこと言っちゃった」
小さな握り拳で、自分の頭をたたく。
「あれね、実は正臣君の真似なんだ」
「俺の真似?」
「うん、感情的になる真似。正臣君の長所でもあり、短所でもあるところ」
人差し指をピンと立てる。
俺は困惑していた。
「感情の赴くままに、生の感情をぶつけたの。そうしたら、心の中が晴れていった……。後悔も少しあったけど、心の中に隠していたことを全部ばら撒いたって感覚で、すっきりしたんだ」
そう言って、水野さんは天井を見上げる。まるで青空の袂で伸びをするかのように。
俺はその拍子に水野さんの白い首筋が視界に入ってしまって、大きく胸が高鳴る。
落ち込んでいるはずなのに、そういった欲望を露呈してしまう不純な自分が嫌になる。
「普段生活するうえで口に出してはいけないこと。言いたくても言えないこと。私たちはそういうものをひたすら隠して生きてる。私は、人に悪く思われたくなくて、ずっと本当の醜い自分を隠して、猫をかぶって、当たり障りの無いように生きてきた……。それが当たり前だって思ってた」
頭上にかけてある時計の秒針が、微かな音をたてて動いている。
俺と水野さんの時を、確実に刻んでゆく。
「……だから、我慢ばかりするようになって、一歩引いたところで物事を考えていた。でも、正臣君を見て、思ったんだ。あんなに感情を正面に出して、本気で誰かのことを心配したり、非難できることって、実は簡単には出来ないことなんじゃないかって」
見上げていた顔を戻して、俺の瞳をのぞいてくる。まっすぐな瞳で。汚れの無い純粋な瞳で。
俺はそんな水野さんの瞳に吸い込まれそうになる。
「和輝君、本当にうれしかったんだよ。香奈さんを責めちゃったのはいけないことだけど、でも、和輝君はすごく感謝してた。私も睦月さんのことで悪口を言っちゃって、それを正臣君が本気になって叱ってくれて。嫉妬心もあったけど、この人は本気で言ってくれてるんだなって、ぶつかってきてくれてるんだなって思えた」
怪我していない方の膝を立てて、そこに頬を乗せる。さらりと水野さんの髪の毛が流れた。
「感情的になるって、悪いようにしか聞こえないけど、人に正面からぶつかっていけるっていう長所でもあるって、わかった気がする」
薄紅色に頬を染めて微笑む。
「その……正臣のおかげで」
「水野さん、今……」
「あ、あれ? 私、何か言ったかな。あはは……」
とぼけたふりをする水野さんが、手を顔の前でばたつかせる。
恥ずかしいなら無理しなくていいのに。
そんな言葉が頭に浮かんだが、それは勇気を振り絞った彼女に失礼だ。
「……かまわないよ、俺は」
水野さんの動きが止まる。せわしなく動いていた手も、顔の前で停止した。
「呼び捨てでも」
それを聞いて、目の前で止まっていた腕がゆっくりと下りて、水野さんは折りたたんだ膝に顔を隠した。
「……まさおみ」
顔を隠したままの水野さんがそっとつぶやく。
恥ずかしがる水野さんを見ていると、こちらも恥ずかしくなってくるから不思議だ。
「まさおみ」
名前を言われるのがここまで新鮮に思えたことは無い。
和輝や香奈はともかく、水野さんに言われるということが、なぜか恥ずかしい。
「そう何度も呼ばれても」
俺は頬がむず痒くなるのを感じて、指で掻いた。
水野さんは、今度はきちんと顔を上げて、俺の名前を呼ぶ。
「正臣」
伝染した恥ずかしさは、体中に感染したようだ。
自分の名前を呼ばれるたびに、体が熱くなってくる。
「ストップ、もういいよ」
俺は水野さんに手のひらを向けた。水野さんは小悪魔のように笑い、あろう事かこんなことを言い出した。
「役割交換。今度は、私の名前を呼び捨てで、どうぞ」
「……な」
噴火する。
沸騰ではない、噴火だ。
それくらい顔から体まで全てが熱い。
「それは無理」
「香奈さんは、呼び捨てだよね」
「アイツは、そういう奴だから」
「しかも、香奈さんのことよくご存知で。アイツ、だって」
「……あの、水野さん?」
唇を尖らせて、すねるような仕草。俺は困ってしまって、次の言葉が思いつかない。
「……よし」
水野さんの声が聞こえた気がした。
「……水野夏美、いきます」
小さくつぶやいたかと思うと、急に顔を上げて、俺の顔を両手で固定した。
俺が現状を把握できないうちに、水野さんの唇は俺の唇に重なる。
本当に一瞬の出来事だった。
泥棒、そう叫びたくなるほどの、一瞬の早業。
壁に立てかけてあった松葉杖が床に転がった。
数秒後、唇を離し真っ赤な顔で笑う。
「その……元気になるおまじないかな」
人差し指を立てて説明する。
「……香奈さんに、殺されちゃうね」
俺は返す言葉も、行動も無く、ただ呆然とするばかりだった。
「正臣! 水野さん!」
和輝が血相を変えて飛び込んでくる。
「正臣!」
香奈も一緒だった。
「正臣? ねえ、正臣」
香奈が俺の肩を激しく揺さぶる。
「な、なんだよ」
俺は放心状態から回復して、香奈をにらむ。
「正臣、悪いけど説明は後でする。とにかく手伝ってくれ。水野さんは、ここにいて。香奈も、いいな?」
和輝が矢継ぎ早に指示を出す。
「正臣が行くなら、私も行く」
「駄目だ」
和輝の表情が本気だ。
俺は事の重大さを認識し、立ち上がろうとする。
「……正臣」
水野さんが俺を呼ぶ。立ち上がる俺の手を握りながら。
「次までに名前が呼べるように練習しておくよ」
「……うん、約束だよ」
水野さんは安心したように微笑み、手を離す。
俺は和輝のようにピースサインをしてみた。
少しだけ強くなれる気がした。守らなければいけない大切なものを再認識した気がした。
水野さんも、和輝にしたのと同様のピースサインを俺に返す。
和輝はそんな俺と水野さんを見守るように表情を緩めたが、すぐさま引き締める。
「行くぞ」
「正臣、私も行く」
「頼むから、ここにいてくれ」
和輝が懇願する。
香奈は頬を膨らませて抗議するが、香奈のわがままを和輝は許さなかった。