ザリガニ
三枝参三郎は死んだ。
八十七年の生涯、世間一般で見れば大往生である。
三枝は錆びて、腰を浮かすたびに甲高く鳴くパイプ椅子に浅く座り、端の方が黒ずんだ白い机に頬杖を付いていた。
パイプ椅子が軋む音だけが、この朧げな控室のような空間に響き渡る。
その音さえも女性の悲鳴のように聞こえられるのは、自分が死者となったからであろうか。
自分の姿は、生きるうえで生まれる垢を、その皺の溝に入念に隠すような八十代以降の姿ではなく、二十代前半の若々しい、和紙のように純白の薄い肌を張り巡らせた姿であったから、三枝はそれを喜んだ。
しかし、彼は一本の筆でひかれたような細い眉を顰めて、日焼けしたように茶色がかった瞳に憂鬱の姿を浮かべた。
それは彼の欠伸によって流れる涙と共に、綺麗さっぱり流れ落ちたかと思えば、瞳に膜を張り直す水分によって、寄せては返す波のように蘇ってくる。
――人が死した時、自己の生涯において育んだ観念、影響を受けた物体の一つは具体的な形をとる。
自身の頭上に浮かぶ透明な球体にそれを封じ込めて、死後の世界では永遠に信仰し続けなければならないのだ。
その嫌がらせじみた洗礼において、自分の信仰の対象となるものは、今この瞬間選択されようとしている。
『僕は立派な人生を生きてきたつもりだ。平凡と言われようと、妻を持ち、子を持ち、盗みの一つも働かず、立派に生きてきたつもりだ。』
人は若さの鬱屈とした感情ゆえ、人生に一度は唾を吐きかけるものだが、彼は人生に対して一切そのような下劣な感情を抱くことはなかった。
道端の花を踏みつけぬよう用心して歩く幼子の優しさを、自分は持ち続けていたという自信がある。
自分に背を向けて、一人用の席に座る男の大きな背中のさらに上、彼の頭上に透明な球体が浮かんだのが見えた。
控室にて神妙な面持ちをする人々は、その男性の広い背中を一瞥したのち、その空白の球体を見つめていた。
『あの男の体つきを見るに、あれにはダンベルやらが浮かぶんじゃないか。』
誠実に生きたという三枝の自負は、あくまで自分可愛さの主観が混じった、自己採点の人生評である。
その男の球体には、血濡れた刀と自身の切断された首、臓物を飛び出させた身体が並んで、高級ブランド製品の広告のように浮かばれた。
控室の人々は、男性は感嘆の叫びを上げて、女性はパイプ椅子によく似た悲鳴の声を上げていた。
彼は割腹自殺を敢行したのだ。
日本人においてそれは最も美徳である。
「あいつ、腹を切ったんだ」
「今の時代にそんな男がいるのか……」
幾つかの男が呟き、忽ち彼は名誉の人となった。
この男達がまだ生きている間にこの事実を知ったのなら、彼等の透明な球体に浮かぶのは、彼のあの大きな背中の姿に違いない。
三枝は歯を食いしばった。
彼が腹を切る際に同じように歯を食いしばったと考えると、敗北感はより強くなった。
そして同時に、自分にやってくる裁判の時間への憂鬱は、さらに瞳に色濃く、瞳孔の黒と遜色なく浮かび上がった。
『あれの腹切りの理由はわからんが、その秘匿さえも、多くを語らぬ潔さの美となってしまう……!』
――とうとうその時はやってきた。
自分の頭上に、泡の球体が弾けるような音がしたのだ。
周囲の人々の視線が自分に集まった。
人の視線は重たい、三枝は伏し目がちとなって、両手を絡めて揉んだ。
その時、その逞しい巨木のような腕を机に付けていた男が、自分へ振り返っていた。
あの男が見ている!
三枝の飲み込む生唾は石の塊のように思われた。
彼の生涯の記憶、その全てが二度目の走馬灯として駆け巡った。
彼の頭上に浮かんだのはザリガニだった。
周囲から溢れんばかりの笑いが投げつけられた。
彼は中世の大罪人が受ける屈辱とこれを重ねた。
彼の白い肌を持つ顔は、ザリガニの爪先のように赤くなっているはずだろう。
『なぜよりによって、ザリガニなんだ!』
彼には思い当たる節は無かった。
しかし、それは彼によって添削された記憶であるから、当然のことである。
彼は十代前半、野生児に憧れていた。
彼は大都会の息苦しいビルに四方を封じられる自分の不幸を嘆いていた。
その嘆きを雄叫びに変える道を彼は選び、その第一歩として汚れた川を泳ぐザリガニを食すこととしたのである。
彼は五匹ほどのザリガニを捕まえて、鍋に一気に茹でておやつとして食すことを繰り返した。
母親は菓子に食いつかない自分を、さんちゃんは大人だねぇと褒めちぎった。
ザリガニを食っていたことをこの女は知らない。
母親の称賛の記憶だけははっきりとしていた。
ザリガニを一心不乱に食した青春の記憶は、綺麗さっぱりと抜け落ちていたが。
『そうか、それでザリガニの怨念が僕にこうも恥をかかせたんだな!そしてその怨念は、自分達を信仰させるまでに肥大したんだ!恨みのなす力は底知れない!』
三枝は暫く投げかけられる嘲笑に堪えた。
目を瞑って眠ったふりをすれば、それは電車の揺れのように慣れ親しんで、やがて心地よいものへと変化していた。
『しかし、ザリガニを信仰することは許せない。何があろうと許せない。これならば、泥団子を信仰することのほうがまだ高尚に思える……』
彼は丸まったザリガニを信仰することも可能だったが、通常のザリガニを信仰することを選んだ。
次に球体が現れたのは、一人の痩せ細った、壁に寄りかかって地面に座り込む少女である。
『なんて色の薄い子だ……』
頭上に浮かぶ甲羅の黒ずんだ赤の後では、さらにその白さは際立って見えた。
一人の卑屈そうに笑う男が、三枝に近寄った。
「酷いな、ザリガニなんてさ」
そう言う男の頭上にはまだ球体はなく、彼の卑屈な笑いには一抹の不安が透けて見える。
「馬鹿を言うな、僕は生前からザリガニを信仰していたんだ」
その男は口元を隠して、貝殻同士を打ち鳴らすような声で笑った。
「笑うなよ、これは冗談じゃないぞ。
思えば天皇を、人を神として信仰する日本がおかしかったんだ。米国国民は何に忠誠を誓う?国旗だろう。大統領なんかじゃない。ならば僕は天皇ではなく、ザリガニに忠誠を誓った日本国民なのさ」
三枝は捲し立てるように早口で言った。
「人を神だなんて、地に足つきすぎだと思わないかい。
信仰の対象は隠し事がなければならない。彼等は我々には秘密の言語で会話をしている。最早音も発さず、僕達を嘲笑うような言語で」
三枝の顔は再び赤くなった。
彼は自身の、電子レンジに投下した急速な加熱方法によって構築された思想の熱に当てられ、のぼせていた。
「君は前衛芸術が人の形をしたみたいだな」
対面していた男は吐き捨てるようにして立ち上った。
彼は自分を示す看板代わりの卑屈、それを超越する三枝に秘められた皮肉を感じて、呆然とした様を見られないために急いでいた。
三枝は段々と自分の人生の採点が、赤ペンによって続々と添削される様を見ているようだった。
『僕はこうやって、未来永劫この馬鹿げた崇拝の理由を、僕に出会う人間全てに説明しなければならない。そう、独りよがりな宣教師のように』
色の薄い少女の球体に映る物体が決まったらしい。
人々は難解な芸術作品を見つめて独自の見解を述べる人間のような、苦虫を噛んだような顔をしていた。
その少女の球体は黒い霧が充満していた。
そこから垣間見えるのは、展示品のように薬が詰められた瓶と幾つかの白い錠剤である。
「君、薬品だなんて羨ましいじゃないか」
人々は理解し難いこの球体の光景を、理解できないからと嘲笑に転じようとしていたので、三枝はその前に少女に冗談を言った。
その少女はこちらに顔を上げた。
まだ若い。
「なんで?」
少女は筋力足らずの表情でなんとか笑って見せた。
その表情と血色のなさは、展示された錠剤が微笑んでいるようにも見える。
「物は自分を投影しやすいじゃないか。信仰というのはだね、自分を謙っているように見せて、実のところその信仰の対象に自分を透かして見ているのさ。自分を崇拝しているのさ。そうでなければ、他人をありがたがる自分なんて許せるかい?」
少女は自分の貧相な腕を見つめていた。
三枝は彼女を座席から見下ろしているから、彼女の身に纏う白いワンピースから、その平らな乳房や肋が覗かれる。
それは白骨死体の標本のようである。
「私はもっと純粋に、助けてほしいってお願いしたものが信仰の対象になっているんだと思う」
その少女は、服からほつれた糸のようにか細い声で言った。
「ははは……僕はザリガニに助けを求めた男か」
「でも天皇は信仰できなかったんでしょう?」
「時代が悪くてね。」
「ならその宙ぶらりんな自分を救ってくれるのはザリガニだったのよ」
三枝は彼女が皮肉を言ってるのではないかと勘ぐった。
「では死んだ今、僕を助けてくれるのはなんだ。僕をこの世界で救ってくれるものはなんだ。僕はまた宙吊りだ。
現世でザリガニへの信心は尽きてしまったよ」
「なら、私のこの薬を信仰して、私が貴方のザリガニを信仰すればいいじゃない?」




