第6話
「何だ、それ」
アンリ少年の声に、マリユスは手を止めました。
風に当てていた公爵様の衣装を二人で取り込み、形が崩れないようチェストの大きさに合わせてたたんで、しまっている時でした。
「薫衣草です」
晴天が続いていて風入れによい具合だから数日の内にと言われてから、マリユス少年は召使たちに頼んで薫衣草を分けてもらい、仕事の終わった夜の内にせっせと 香袋にしておいたのです。
「母がよくやっているので。これを衣装チェストに入れておくとよい香りが衣に移るのです。それに虫除けになるのですよ」
アンリはさっきマリユスが置いた一つをつまみ上げ、素早く鼻に近づけ、笑いました。
「なんかこれ、田舎の小娘の匂いって感じじゃん? 公爵様にふさわしいかな」
マリユスは衣の上に 香袋を置こうとのばしかけていた手を止めました。それは一つ一つが一握りくらいの大きさで、端布を集めて一つずつを手で縫ったものでした。
数がたくさんあるのは、いくつも重ねた衣装の間あいだにはさんで、どの衣装にも同じように香りが移るようにと考えてのことでした。
それは公爵様のためにとマリユスが気を働かせてのことで、公爵様に命じられてのことではありません。もしかしたらアンリの言うとおり、これは公爵様のお好きな香りではないかもしれないのです。
「ああー、そういう恨めしそうな顔するなよ。俺、ひどいこと言ったみたいじゃん。滅入るなぁ。だったら入れておけよ。後で公爵様になんか言われたらとりなしといてやるから。一日入れておいたくらいなら、匂いもたいしてつかないだろ。また風に当てて飛ばせばいいしな」
その時は、マリユスが一人で、全部の 香袋を取り出してもう一度衣装に風を当てればいいことなのです。だってこれはマリユスの失敗なのですから。
「……はい」
もし公爵様も田舎の小娘の匂いだと思われたなら残念だけれど、父や兄は好きだと言っていたし、衣装に虫除けはやっぱり必要だと思う。気落ちするのは、公爵様のお気に召さなかったとわかった後でいいじゃない。
マリユスは自分を励まし、残りの 香袋を一つ一つ最後まで置いていきました。
その夕刻、アンリ少年が着替えを手伝っていると、公爵様はすぐに気づかれました。
「いい香りだね」
アンリはぱっと顔を上げ、
「わかりました?」
「薫衣草だ。母もお好きだった」
「公爵様の母上も?」
アンリは意外に思いました。
公爵様はそれを軽く一瞥され、
「母は結婚される以前、事情があって三年ほど修道院で過ごされたそうだ。だからこういう古い知恵にもよく通じていらした」
「へえ、そうでしたか。薫衣草は、えー、確か、虫除け? そうそう、虫除けになるそうですね。いい香りもあるから、今日風に当てたついでに入れてみたんですよ」
「気が利くね。初めてやってくれたみたいだが?」
アンリは肩をすくめ、答えました。
「この前、田舎の母に教えてもらったばっかりなんです。で、今回思いついて試してみたんです」
公爵様はうっすらと目を細めてアンリを見やりました。
公爵様の小姓はその視線に気づくとふっと口をつぐみ、なんとなく身を縮めました。
公爵様は軽々とその視線を和らげ、
「そうか。母上の助言は大事にするといい」
言いながら襟元の具合をなおし、アンリの行うべき仕事をいくつか部屋に残して、ご自身は公務のため表へ向かわれたのでした。
俺、自分の母親に聞いたなんて言ってないもんな。残されたアンリはちらりと変な顔をしましたが、
「へへ」
公爵様の評価を上げた自分の手柄に満足し、衣装をたたみ始めました。
若い公爵様は書斎の扉を開けました。
ゆっくりと部屋を横切り、壁際の椅子に歩み寄って、深々と腰掛けました。
何かをよくよく吟味しなければならない時、あるいは一人でただ物思いに耽りたい時、公爵様はよくここに座るのです。
その椅子の隣に小さなテーブルがあります。
そこに、父の形見の小箱が置いてありました。公爵様がマリユスの手を避けてここへ移動させた時のまま。
木画と呼ばれる見事な装飾の小箱です。
その脇に花がありました。
花びんに活けられた一束の可愛らしい花でした。
それが窓から差し込む黄昏のやわらかい光の中になよやかにありました。
そっと指先で可憐な花弁を持ち上げてやると、花容が暮れゆく名残の光を受けてこちらを見上げます。
薄日の差す椅子の中で、公爵様の胸の奥に一つの思いが巡りだしました。
突然それまで心許なくかすませていた瞳に強い光を灯すと、公爵様はさっと立ち上がりました。
そしてシーズンの到来を長く待ちわび、いよいよ迎える狩りの初日の楽しい闘志にも似た表情でまっすぐ執務室へ向かい、ただちに宮宰のカヴァルカンティ氏を呼びつけられたのでした。
*木画=木材の表面を刻み、そこに他の材質の木片や貝殻、金属、宝石などを平らに嵌め込んで文様を表す技法。




