第5話
「本がお好きなのですか?」
翌日もマリユス少年が一人、昨日一日では終わらなかった書斎の掃除の続きをやっていると、突然、背後から声をかけられました。
一冊一冊、埃を丁寧に払うことに夢中になっていて、いつの間にか主人である公爵様が室内にいらしているとは、マリユスはまったく気がつきませんでした。
あわててかがめていた腰を上げ、マリユスは振り返りました。
公爵様は扉を一歩入ってきたところに佇んでいらっしゃり、どうやらしばらくマリユスの仕事ぶりを眺めていたようでした。
「マリユス、でしたね。マリユスは本がお好きなのですか?」
公爵様はもう一度たずねられました。
つい先ほどまで、せっかく執事のドゥリヴォー氏がお茶を持ってきてくださったので、手を休め、それをいただきながら少し本のページをめくっていたのをご覧になったのでしょう。
「は、はい、いえ、あの、好きといえば」
あわててしまって答えがちぐはぐになってしまいました。
「気に入ったのがあれば、仕事の合間に読んでかまいませんよ」
「は、はい。いえ、いいえ。そういうわけには」
マリユスは急いで公爵様に会釈をしました。
「何かご用でしょうか、公爵様」
そういって上げた顔の、かすかに緑がかったような薄茶色のその瞳が、明るい場所で見ると金色にも輝いて見えます。
「用事がなければ声をかけてはいけませんか?」
「そんなことは、あ、ありません」
マリユスはどうしたらいいのか、困り果ててしました。
「続けて」
公爵様に命じられ、マリユスは気持ちをまごつかせたまま踏み台に上りました。そして一度脇に置いた本を取り上げて羽バタキを振るい始めました。
それを公爵様がつぶさに見つめているようなのです。
背中に視線を感じて、マリユスはますますそわつき、手元が怪しくて本を取り落としそうなほどでした。
どの本まで埃を払ったのかわからなくなりそうな心地のまま一段終わらせ、踏み台を降りて下の段へ移ります。
そこに小箱がありました。
マリユスがそれを手に取る前に、脇からあらわれた公爵様がご自身で取り上げてテーブルの上に移動させました。
「これは結構です」
「は、はい」
ぺこりとお辞儀をし、マリユスは本棚に戻りました。
「これは父の遺品なのですよ」
公爵様がつぶやきました。
公爵様の父上は、確か二年ほど前にお亡くなりになったばかりでした。それはあまりに突然の、不幸な、不慮の事故で、だから現公爵のフレデリク様は驚くほど若くして爵位を継ぐことになったのです。
「まだ誰にも触らせたくはない」
そう言うと、公爵様はマリユスにほのかにほほえんでみせ、
「君が気にすることではありません。続けなさい」
その時、扉をノックする音が二人の間に響きました。
「公爵様、よろしいでしょうか」
宮宰のカヴァルカンティ氏でした。
「訴訟の件で、お話が」
カヴァルカンティ氏が控え目に言いました。
公爵様はご自分の領地で起こる問題を解決するのも仕事でした。
住人たちは定期的に様々な訴訟を持って屋敷に集まり、公爵様に訴えては良識ある公平な裁きを望むのです。
領土を統治する者の、それは義務でした。
マリユスがほっとしたことに、公爵様はすみやかにその場を立ち去り、カヴァルカンティ氏と共に書斎を出て行きました。
先ほどの小箱が、テーブルの上にのせられていました。
「あの子はどこの子ですか?」
先に廊下を歩きながら、公爵様は宮宰にたずねました。
「封土の小領主のご子息です」
カヴァルカンティ氏はそこで間を置き、
「どちらの小領主でしたかは、にわかには思い出せませんが」
「なるほど」
封土というのは、皇帝陛下より選ばれた有力な臣下が封じられた土地のことです。
その封土では、つまり公爵様が主君なのです。
そして封土内の土着の小領主の子息が行儀見習いとして主君の屋敷で小姓などを勤めるのは、ごく普通の習わしでした。
公爵様はしばし無言でした。
とうとう宮宰が口を開きました。いつものごとく、主人の用件をたずねるように。
「あの子が何か?」
公爵様は廊下を進みながら、にこやかに手を振りました。
「なんでもありません」




