第3話
「着替えを出してもらえますか?」
上着を脱ぎながら言われて、マリユス少年はすぐにつづきの間の衣装棚へ向かいました。
公爵様の部屋の様子は、昼間に執事のドゥリヴォー氏に教えられていました。マリユスもこれは他のことよりもいっそう気持ちを込めておぼえ込みました。だから衣装棚の場所はわかっていました。
マリユスはきれいにたたまれた寝間着を取り上げました。
それからどうしたらよいのでしょう。
マリユスは迷いましたが、ぐずぐずしているわけにはいきません。それを腕に公爵様の元へ戻りました。
「そこへ」
公爵様は濡れた頭をしっかりと拭いているところでした。
マリユスは公爵様の指が示した椅子に、寝間着を丁寧にのせました。
「先ほどはどうしてあんなところにいたのですか?」
公爵様は濡れた髪をかるく整えながら、純粋に不思議そうにマリユスを見ています。
「お一人で夜の散歩でしたか?」
公爵様こそどうしてこんな遅い時間に帰宅を? とマリユスはきいてしまいたくなりましたが、召使からは問いただせません。なのでその問いはもやもやとした気持ちと一緒に飲み込んで、
「今日が初日だったので、落ち着けなかったようなのです。それでふらふらと……、はい、散歩を……」
「なるほど」
うなずくと、公爵様は何かを探すようにまなざしを小さく巡らせて、
「それから、そうですね、熱いお茶が飲みたいですね。用意してもらえますか?」
「はい」
マリユスはお辞儀をして公爵様の自室を出、すこし急ぎ足に厨房へ向かいました。
けれども厨房に到着すると、そこからマリユスは身動きがとれなくなりました。
火はもう小さな種火だけで明かりもとぼしく、厨房はその場所しか案内されていなかったためカップの場所も何もさっぱりわかりません。
けれども公爵様は、濡れて冷えた体を温めるためにお茶をお求めになったのです。早くお届けしなければと思うのに、途方に暮れて焦りばかりがつのります。
と、そこに背後から小さな明かりが投げかけられました。
「どうされました?」
声をかけてくれたのは、執事のドゥリヴォー氏でした。
「ああ、ドゥリヴォーさん」
マリユスはあまりに安堵し、いつの間にやら訳も分からずお玉をつかんでいたと気づいて、それを恥ずかしげに棚に置きました。果たしてそこが戻すべき正しい位置なのかは、もう分かりませんでした。
「部屋を出られたようでしたが、戻られた様子がなく心配しておりました」
「公爵様がお茶をお求めなのです。けれど……」
マリユスは言葉をつまらせましたが、ドゥリヴォー氏はちらりと片方の眉を上げながら落ち着き払ってうなずくと、火掻き棒を壁から取り上げ、火元へ歩み寄りました。
「その小鍋で沸かしましょう」
指さされ、マリユスはそこへ向かいました。
「水はそちらに。汲んでいただけますか?」
教えてくれる人があられて、マリユスは落ち着きを取り戻してきました。さっきまではどこに何があるのかさっぱりわからなかったのに、だんだんと厨房の中が見えてきたのです。水の場所を教えられた時には、彼の「水は」との言葉を聞いたとたん、水甕が目にとまったくらいでした。
小鍋に水を汲みます。それをドゥリヴォー氏に届けると、もう火が熾っていました。
ドゥリヴォー氏に教えられ、マリユスは茶葉やカップも見つけ出しました。
用意がととのうと、ドゥリヴォー氏がトレイをマリユスに渡してくれました。
「お気をつけてお持ちなさい」
「はい。ありがとうございました」
マリユスが戻ってくると、公爵様はすでに一人で着替えをすませていました。
「お待たせしました。フレデリク様」
公爵様はにこやかにマリユスを見やり、
「いいでしょう。ふたりきりの時は、特別にわたしの名を呼んでも」
「あ」
「ご主人様」もしくは「公爵様」とお呼びしなくてはいけなかったのです。
マリウスはとっさに口を押さえ、
「し、失礼しました」
公爵様はかすかに目元に笑みをたたえ、
「今夜はもういいですよ。わたしの勇敢な小姓さん。おやすみなさい」
許されて自室に戻ったマリユスでしたが、公爵様とあんな形で出会った後ではいよいよ寝付けず、落ち着かない気持ちをまぎらわそうと窓にもたれて夜風に当たりました。
「初日から大失敗。あまり目立たないようにと思っていたのに」
ふと公爵様はどうされただろうと建物を見渡しましたが、ここからでは公爵様のお部屋はのぞめないのでした。
きっともうお休みになったでしょう。夜も更けました。
ある日マリユスのいたお屋敷の主人を訪ねてこられた若き公爵様。
その時にちらりとお姿をお見かけしただけで、マリユスにはもちろん言葉を交わす機会はなかったし、間近でお顔を見たのも今夜が初めてでした。
「それがここまで大事になってしまって……」
たった一度お姿をかいま見ただけ。それなのに話がどんどん転がって大きくなって、気がついたらその公爵様の小姓になっていたのです。
「はあ……」
自然とため息がもれてしまいました。
マリユスは気がついていませんでしたが、思い煩わしいのに帰してほしいと言ってみるという考えは浮かんでもこなかったのですから、じゅうぶんにここで頑張る気持ちがあるのです。
「まだ初日じゃないの。これから、これから。……もう寝よう」
マリユスは窓を閉め、自分の簡素なベッドに横たわったのでした。




