第2話
執事のドゥリヴォー氏も同席しての使用人一同との夕飯をすませると、マリユス少年は今日から勤めることになった公爵様のお屋敷をもう一度見て回っていました。
昼間は働いている人たちとの顔合わせや仕事の手順や、とにかく一度に多くのことを教えられ、憶えなければならないこと、気をつけなければならないことがたくさんありすぎて、頭も気持ちもごちゃごちゃになってしまったのです。
疲れているのに興奮もしていて、眠れそうにもありません。
少し歩いてみよう。
マリユス少年はそう思いついて、一人で部屋を出てきたのでした。
といってもどこを歩こうという明らかな場所はなくて、主人の主翼の建物を見上げたり庭を見てみたりと、そんな風になんとなくさまよっているだけでした。
もう夕闇が広がっていて、星明かりが建物の影の上で輝き、あとは誰かがまだ仕事をしているのか、いくつかの窓に灯がともっているのがわかるだけでした。
召使棟そばの裏庭には噴水がありました。水盤が水を流し続けています。マリユスは庭に降りてみました。
水をたたえる噴水のある泉の縁に腰掛けてみます。清やかな水音がほてった気持ちを鎮めてくれるような、そんな気持ちになった時でした。
マリユスははっと顔を上げました。
首を巡らせても庭の奥は闇ばかりで、よくわかりません。けれども闇ばかりだからこそ耳に届く響きは、たとえかすかでも、差し込んだ真昼の光のように鮮やかでした。
石敷きを、それとも石壁を、強く踏み込むようなじりじりという音、それが間隔をおいて聞こえ、急に動きが起こった気配の後に、
たんっ
と意外なほどそばに強い音が落ちました。
それから続いたのは、慎重に音を消す努力をしていながらどこか軽快な、それは人の歩む音でした。
その音が、どんどんとマリユスに近づいてくるのです。
ここは住む人の目を楽しませるための内庭になっていて、つまり外との行き来は出来ないはずなのです。
もうすぐそこに音は迫ってきました。
「どなたです?」
マリユスは立ち上がって、きっぱりと誰何の声を上げました。
足音が止みました。
姿は闇の奥で静まりかえっていましたが、気配はあります。
こんな遅い時間、塀を乗り越えて公爵家の屋敷に踏み込んだからには、何かの悪意ある人物と思っていいでしょう。
盗人か、それとも暗殺者か。
教皇派か皇帝派かでおだやかに世の中が二分され始めた時代。時に貴族の争いは、裏では堂々と暗殺者を雇うことすらあるのです。狙われるとしたら、それはここの主人しかいません。
「今すぐ立ち去りなさい。さもなければ……」
言いかけたマリユスの目の前に、ぬっと白い物がのびてきました。
声を上げかけたところで、生暖かく柔らかいものがぐっとマリユスの口をふさいだのです。
手でした。
それがマリユスの顔を覆うようにして、漏れようとした声を止めました。
「しっ」
と耳元で声がしました。若い声でした。
自分の身こそが、今一番危険なのです。声を出せず体をしっかり掴まれてしまっているではありませんか。
逃げなければ。
マリユスは懸命に身をよじりました。
もがいた足に何かが激しく当たりバランスを崩した時、一緒に口をふさいでいた力が弛み、マリユスを捕らえていた何者かの気配が遠のき、
バッシャーン!
思いがけない大きな音がして、マリユスの上に冷たい星屑が降ってきたのでした。
「おかえりなさいませ」
宮宰のアンブロワーズ・カヴァルカンティ氏がうやうやしく頭を下げました。
「ただいま」
その人は泉の縁の石に座って、びしょぬれの服をどうする努力もあきらめて、返答しました。
「表からちゃんとお帰りになればよろしいものを」
「宮宰殿を起こしては悪いかな、と思ったのですよ」
「どちらにしろ起こされました」
がっくりとその方の肩が落ちました。
「あの……」
言葉がとぎれたタイミングをとらえて、マリユスは布を差し出しました。さっき、なんとか場所を憶えていたリネン室から急いで取ってきたのです。
「これでお体を拭いてくださいませ。風邪を引いてしまいます」
その方は濡れた前髪をかき上げ、
「ああ、……ありがとうございます。あなたは濡れませんでしたか?」
「はい」
マリユスは感謝を込めて、うなずきました。
倒れ込みながら突き飛ばされて、マリユスは水に落ちるのはまぬがれていたのです。逃げたい一心で繰り出した足を噴水の縁に取られ、バランスを崩したのはマリユスだったのですが。
少年から布を受け取って、その方が宮宰に顔を戻しました。
「見かけない顔ですね」
「新しいあなたの小姓です。マリユスとお呼びつけください」
宮宰はたった今この場で大惨事が展開したことにはまったく動じていない様子で、いっそう淡々と、折り目正しくマリユスを紹介しました。
その人はもう一度、新しい小姓をよく確認するように見やりました。
「マリユスです。よろしくお願いします」
マリユスが暗殺者かもしれないと思いこんで噴水に突き落とすことになってしまった人物は、この屋敷の主、そう、公爵様ご本人だったのです。
まさか公爵様が塀を乗り越えて帰ってこられるなんて思いもしなかったとはいえ、初日からとんでもない失敗でした。
「マリユス……」
公爵様は髪の毛を拭きながら何かを考えているようでした。
いぶかしんでいるような、少年が自分の小姓にふさわしいかどうか見定めようとされているような。
「新しい小姓、ですか」
「これも貴族の慣例です」
宮宰が静かに答えました。
貴族たちには家々のつながりがあり、多くの貴族たちはその息子を主家や縁者の屋敷へ一定期間、小姓として仕えさせ、見習いとして社会で生きていく術を学ばせるしきたりがありました。マリユスもそんな少年の一人なのだと、宮宰のカヴァルカンティ氏はほのめかしたのです。
結局、公爵様は新しい小姓のことをどう結論されたのか、ゆっくりと立ち上がり、
「では、マリユス。着替えを手伝ってもらえますか?」
「は、はい、あの……」
とっさにマリユスはカヴァルカンティ氏の顔をうかがってしまいました。
カヴァルカンティ氏は表情でも口でも、何も伝えてきませんでした。この場の裁量は主人のもの。ただそう言っているようでした。
夜中であろうがなんであろうが、主人の着替えを手伝うのは小姓の仕事。マリユスは公爵様の意に従います、とうなずきました。
「宮宰殿、おやすみなさい。夜中に騒々しく帰宅して、申し訳ありませんでしたね」
それからどこかおもしろがっているような笑みを少年にちらりと投げて、公爵様は先に歩き出しました。




