第12話
「マリユスのやつ、あんな強烈な奥様のところに移されて、無事にやってるんでしょうかね」
アンリ少年は休憩のお茶をいただきながら、ふとそう漏らしました。
「もともと公爵様はあいつのこと、すぐに辞めさせるつもりだったみたいですけど。けどまさか奥様のところへやられるとはなぁ」
同じお茶をいただいていた執事のドゥリヴォー氏は、かすかに眉を上げました。
「公爵様がそんなことを?」
「小姓には向いてないし、ここにいるのはしばらくのことだっておっしゃってましたよ。それを置いてやってたのは公爵様のお情けだったんです」
仕事は遅いし頭の回転も鈍い子だったから、辞めさせられるのももっともだとアンリも思っていました。だからそうなったことは不思議でも何でもないと、アンリもわかります。
よくわからないのは、そういう子をあの奥様が気に入ったことや、引き抜かれたことを公爵様が残念に思っている様子でした。
「そういえば公爵様、あれからご機嫌斜めなんですけど、いったいどうしたんでしょうね」
「あれは自己嫌悪というのです」
「公爵様が? そんな人ですかぁ? ああー、でもちょっとそうかも。公爵様って頭よくていつも公平で、なんて言うかな、とにかくすばらしい方だったじゃないですか。俺、ずっと、本当に尊敬してて、こういう人が公爵の理想だよなって思ってたんですよ。なんでこんな人間が貴族なんだよってヤツ、多いじゃないですか。貴族の家に生まれただけっていう、くだらないヤツ。本当はうちの公爵様みたいな優れた人だけが貴族であるべきなんですよ。俺はずっとそう思ってました。けど最近は……。なんかがっかりです」
アンリは幻滅もあらわに口をつぐみました。結局、あの視察旅行では不正もあばけなかったし。
けれどもドゥリヴォー氏は平らな表情のまま、
「あの方もアンリと同じ人の子ということです。公爵を継いで二年。そろそろ地を出してもいい頃でしょう」
「ええー? あんな風に不機嫌で、時々短気だったりするのがいい傾向だっていうんですか? 俺、この前ちょっとしたことでめちゃめちゃ怒られましたよ?」
自分を訪ねてきた親族や知り合いたちに公爵様の物をこっそりお裾分けするくらい、みんなやってることだってのに。公爵様の懐の深さをご本人のかわりに示してやってるのに何で叱られなきゃいけないのさ。
みんな大喜びで、さすがは公爵様の小姓だとアンリを褒めてくれます。だから、とろい小姓が来た話だとか、奥様のお遊びで公爵様が決闘ごっこをやったことなども話して聞かせたのです。アンリの巧みな話しぶりにその場は大いに盛り上がり、みんな楽しんでくれて、アンリもいい気分だし、公爵様のすばらしさがみんなにも知れ渡って、ウィンウィンではありませんか。
もちろん、厨房係や洗濯女みたいな下っ端がそんなことやったらこっぴどく叱られても仕方がないけど、俺は上級召使なんだぞ。それがたまたま見つかったってだけでなんで俺だけが。
アンリは今でもそのことが不満でした。
あの時使用人仲間たちは「自分も日頃やっています」とは告白せず、すました顔で沈黙を守り、罪をアンリ一人に押しつけて公爵様の憤慨から逃れたのです。
公爵様のためならこの身を捧げる覚悟を持って小姓になり、これまで一生懸命、誰よりも公爵様のためにとお世話をしてきたのです。公爵様には従順に従ってきたし、公爵様の思いを読み取るのはこの屋敷の中でも一番、それはもう一心同体と言ってもいいくらいで、本当に見事なお世話ぶりだったというのに、そのことは何も評価されておらず、今やアンリの自尊心はずたずたでした。
だいたい公爵ともあろう人なら、みんなが嘘をついてることくらい見抜けなくてどうするんだ。でないと世の中は不公平だらけだ。そんなことがまかり通らないようにするのが公爵じゃないか。
アンリは公爵様がそのくらいのことも見破れない人だとは思ってもいませんでした。もっと何でもお見通しで、いつも何でも公平に扱う優れた人だと思っていたのです。
それが、アンリにもわかる真実が見えない人だったとは、裏切られたようでくやしいほどに残念でした。
「アンリは純粋ですね。公爵様のご気分をあれこれ言っていないで、自分のことに集中しなさい。心配せずとも、公爵様ならそのうち落ち着くでしょう」
ドゥリヴォー氏はアンリの話題には特に関心のない様子で、お茶を飲んでしまうと、仕事に戻るために立ち上がりました。
純粋って、なんだよ。引っかかる言い方だな。自分は頭がいいと思ってるヤツって、すぐ人のことを見下すんだよ。アンリは口を曲げました。
でも、貴族はみんないい人間でなくちゃいけないって、当然の事だろ。いい貴族がいい統治をしなくちゃいけないんだ。俺たち普通の人間が幸せに暮らせて、毎日みんなが楽しく豊かになれる、貴族たちがそういう世の中にしてくれなきゃいけないんだ。
ですがドゥリヴォー氏は自分の言葉を疑っている様子はまったくありません。アンリはそんな公爵家の執事にもがっかりしました。
なんでそれくらいのことがわからないんだろ、ドゥリヴォーさん。公爵家の人たちって、すごい人たちだけが選ばれているんだって思ってたけど、本当はぜんぜん違ったんだ。
サロン仲間のボワエルデュ侯爵様のお招きに、一番乗りしたのはイヴォンヌ・ベルクール夫人でした。
「しつこいですね、母上も」
同行させられた公爵様は、どこか投げやりな様子でした。もはやこの母親に対しては、笑みを作る気力もないご様子です。
あれから公爵様は即座に母の屋敷を訪問しようとしたのですが、その前に宮宰のカヴァルカンティ氏が視察旅行中にたまっていた公爵の義務、つまり決済書類を、どっさりと渡してきたのです。その合間を縫って母にご機嫌伺いにおじゃましたいと使いを出せば、不在の返事が戻るだけ。
あれ以来何もかもが思い通りに行かないのです。
それでもとにかく目の前の仕事を片付けながらいらだちをなだめていたら、今度はその母から一緒に来いと引っ張り出され、よりによってボワエルデュ侯爵家の屋敷に連れてこられたのです。
「母上のお考えくらいわかっていますよ。こちらの侯爵家と手を結べとおっしゃりたいのでしょう? だが、その方法は政略結婚でなくともいいはずです」
「皇帝陛下から降嫁のお話が来たら、あなたは逃れられなくてよ? それとも、魅力的ではあるけれどそれと同じくらい短慮な陛下と運命を共にするつもり? 東方に不穏な軍団があるとの噂、あなたも聞いたでしょう。あなたはあなたの継いだ家と封土に暮らす人々のすべてを守らなくてはならないのよ?」
「わかっております。わたしはこれまで出来うる限り自分の継いだ義務を全うしようと努めてきたつもりです。これからもその心づもりは変わりません」
それは父を亡くした時に覚悟をしたことで、今さらその困難を嘆いてみせるつもりはありません。
ただ、妻を選ぶのも政略と、簡単に割り切ってしまうことは、公爵様はまだしばらく留保したかったのです。
「まあ、どちらにしろあのお話は前回あなたがきっぱり断ったから確かに破談になりました。今日の侯爵様からのご招待は、純粋におしゃべりを楽しみましょうね、というだけです」
盛装の夫人はいやが上にも華やいで見えます。優雅に持った扇子で自分に軽く風を送りつつ、サロンが始まるのを心待ちに窓辺に立たれ、ご自分で窓を開きました。
「まあ!」
夫人は薄茶色の瞳を大きく輝かせました。
「ねえ、フレデリク。素敵なものが見えるわよ」
いらっしゃいと手招かれ、公爵様は気も重そうにそちらに歩み寄りました。
この母という人は、なぜか人を従わせる魅力を持っていて、息子の公爵様もその力からは逃れられないのです。
「あれ」
ようやくやってきた息子に、夫人がぱちりと閉じた扇子で示した先には……。
公爵様ははっと窓枠に手をつきました。しばらくは自分が何を見つけたのか、まったく信じられない様子でした。瞬きも忘れたかのようです。
公爵様は身を乗り出すようにじっと初夏の花の咲き乱れる庭を見つめ、それからゆっくりと母親を振り返りました。
夫人のすました笑顔がそこにあり、公爵様は顔をゆがめてしまいました。
そういうことか。
「母上。たくらみましたね」
「まあ、人聞きの悪い。わたしは父親にご相談を受けただけよ。その父という人が、とにかく娘に甘いの」
「わかりますよ。あの人がご両親に愛されて育ったということは」
それだけでなく、容姿に似ず思いのほか勇敢だということも。
かなわない。公爵様はがっくりと肩を落としました。
夫人はそんな息子を、扇子の先で軽くたたいて、
「女の子をいつまでも待たせるものじゃないわ」
「言われなくても」
「こちらの侯爵様は、自分で説得しなさいね」
「はい?」
行きかけた公爵様は、思わず夫人を振り返りました。
母のたくらみは、ボワエルデュ侯爵もご承知のことではなかったのかと思ったのです。ところが、
「わたしはあなたを言うこと聞かせるだけで、もう手一杯だったの」
ほとほと手を焼いたとばかりに眉をしかめてみせるではありませんか。
一度はきっぱり断ったお嬢様をやっぱりくださいと、自分で父親に言えというのです。
この人はそういう人なのだ、とばかりにその言い分を振り切って行こうとする公爵様を、確固とした声が追ってきました。
「本気でなければ、ご両親は承知なさらないわよ」
公爵様は母に向き直りました。その時公爵様は、いつもよりさらに強い意志を笑みにのせ、
「必ずうなずいていただきますよ」
宣言して出て行く息子に、夫人はにこやかに手を振って見せました。
新しい小姓が実は女の子だと見破るくらい、できると踏んでいたのです。
夫人は自分の息子を見くびってはいません。できると思っていなければ打てる手でもありません。
そしてあのくらいの年頃の女の子に、自分の気持ちをきっちり隠して相手と向き合うことなどそもそも無理だということも、自分の経験からわかりきっていました。
これだけ可愛らしい女の子が本心を隠しおおせずに自分の屋敷をうろうろしたら。しかもなにやら胸に秘めた甘い香りを漂わせて。
誰しも必ず心を引き寄せられることでしょう。
その後は……。
それは神のみぞ知る。夫人に出来ることは、二人を引き合わせるところまで。互いに惹かれ合うか、その後に横たわる障害を乗り越えられるかは、二人の問題なのです。
「なかなか楽しかったわ。でもこれで終わりって、もうちょっと遊びたかったかしらねぇ」
夫人は最後に小さく、公爵様が聞いたらまた眉をしかめるような物騒なことをつぶやかれたのでした。
「さて、奥様の思われたとおりに話は進んでいるのでしょうか」
たまたま同じ部屋で顔を合わせることになり、執事のドゥリヴォー氏が宮宰のカヴァルカンティ氏に話を向けました。
「さあ。わたしたちはどのような話になっても、公爵家のために働くだけです」
「確かに」
執事のドゥリヴォー氏はおもむろにうなずき、それからふと思いついたように、
「しかし、あのようにいささか世間知らずのお嬢さんに公爵家の奥方が務まりますか」
かすかに危惧を匂わせると、宮宰のカヴァルカンティ氏は柔らかな低い声で小さく笑い、
「心配には及ばないでしょう。わたしはイヴォンヌ様がこの屋敷に嫁していらした日のことをよく憶えています。今は気のお強い奥方も、お若い頃はあのお嬢さんのように実に可愛らしい方でした。あなたの言い方に則せば、いささか世間知らずなほど」
ドゥリヴォー氏は片方の眉を上げて年配の宮宰の満面の笑みを見やり、顔を戻して仕事に戻りました。
その時少女は花を摘んでいたのです。お客様を迎えるために飾る花をと両親に言われて。
花の咲き具合や色合いをよく選んでハサミをいれながら、少女は心弾む様子もなくどこかぼんやりと摘んだそれを腕に抱えていたのです。
どうしても胸を巡るのは公爵様のことばかりでした。
夫人に説き伏せられたとはいえ、男装して公爵様のお屋敷に乗り込むのはちょっとスリリングで、思いがけず楽しいことでもありました。
けれども今は、公爵様とあれほど近づいたことを思うと、失ったものの大きさに悲しい気持ちばかりがあふれてくるのです。
公爵様はわたしが本当は誰なのかをご存じないまま。
いっとき気持ちを傾けてくださったのだとしても、相手は身分違いの召使だったのです。その違いが公爵様の関心を強く引いただけで、お会いできない間に自然と気持ちも離れてしまわれたかもしれない。
もしそうなら、あの方の好意を失った気まずいまなざしを見てしまいたくはありません。もしそうでなくとも……。
政略で結婚相手を選ぶことはしない。その気持ちを翻したりはしない。
公爵様はそうおっしゃいました。公爵様は意志がお強い方だと、今は知っています。
わたしが誰なのかお知りになったとたん、公爵様の恋の魔法は解けてしまわれるかもしれない。
けれどももしかしたら……。という思いも、どうしても打ち消せないのです。
もしかしたら。もうわたしが誰なのかなんて意味もないくらいの確かなお気持ちでいらっしゃるかもしれない。
はじめて公爵様をお見かけした時、それほどの高位の方と知らないまま、少女がそのつかの間だけで恋に落ちたように。
どんな結果が待ち受けていたとしても、なんとか機会をつくり、今度は真実の自分自身として公爵様を訪問してみようか。
奥様にはきちんとした自分として出会いなおすことを最初から約束させられていました。なぜなら公爵様が召使と、それも小姓と恋に落ちたなどと、人に思われてはならないのですから。まだ盤石の地位を確立しているわけではない若い公爵様にそんな隙を作らせるわけにはいきません。
だからもう一度自分からお会いしに行ける素敵な口実を必死に探し、それなのに探しているつもりでいるだけでそれが見つからないことを密かに願ってもしまう。
もう公爵様のお気持ちは離れたのではという気懸かりと、ただお会いしたいという思いと、真実の自分を明らかにした瞬間に本当に恋が終わる予感と、手放せないかすかな期待と。
少女は定まらない思いにもうずっと心を揺らしていました。そしてこの時まだ、少女の心は定まっていなかったのです。
だから何かの気配を感じてふと上げた視線の先に。
午後の庭にとつぜん人影があらわれて。
それが誰なのかを見定めた瞬間、少女は飛び上がるほど驚いて逃げ出しました。とにかくびっくりと焦ってしまい、それが嬉しかったからなのかおののいてしまったからなのか、もうよくわかりませんでした。
あまりにも思いがけなさすぎて、少女にはその場を逃げ出すことしか出来なかったのです。
せっかく摘んだ花をすべて撒いてしまったことなど、気がつきもしませんでした。
「待ってください」
「あ」
庭を横切れる寸前で、少女は公爵様にその腕を取られました。いつかのように今度もバランスを崩しかけたのですが、今度は公爵様がちゃんと受け止めてくれました。
「な、なぜ公爵様がここに」
「あの日の決闘の勝利者の権利です。あなたの本当の名前を教えてくださいませんか?」
駆け去ることを許してくれない公爵様に、少女は背けていた顔をそのまま、
「もうご存知なのでは?」
もちろん、こちらの侯爵家の令嬢だと知った今、公爵様もその名前をすでにわかっています。
「勝利をくださったのはあなたでしょう? あの決闘で得たわたしの権利は、すべて無効なのでしょうか?」
男の子の姿までしてあらわれた人が、今ようやく本当の姿を見せてくれたのです。よく似合うドレスを着て。
どのような姿でも、見間違えようはありません。
体は硬くしたまま、けれども少女から逃げるそぶりがなくなったので、公爵様は彼女の腕をつかんでいた手をゆっくりとすべらせて、そっとその手を取りました。
いつかのように、彼女の手は震えていました。けれども決して強くは取らない公爵様の手から、今は逃れようとはしないのです。
むしろ手を取られることを待ち焦がれていると、公爵様には思えてなりませんでした。だからその細い指先を今度は甘く握り込むと、
「……」
少女が何かをささやきました。
「なんでしょうか?」
「……公爵様、お怪我は?」
やっと振り返って、けれども彼女は公爵様のお顔ではなくもう少し下の左腕を見るのです。服の下のそこには包帯が巻かれています。公爵様も自分の腕を見やり、
「心配していてくださったのですね。でも大丈夫です、これくらい。それより、あなたのお名前は教えていただけないのですか? もう一度剣を取れとおっしゃるなら、自分のことしか考えずにあなたの名誉を傷つけ、あなたがどなたなのかいつまでも気づかなかった償いに、何度でも取りましょう」
その時、庭の梢で小鳥が啼いて飛び立ちました。少女がようやくささやきました。
「……マリエールです……、フレデリク様」
赤く俯せた顔から、おそるおそる、あふれはじめた涙に揺れる薄茶色の瞳をあげて。
Fin
お読みいただき、ありがとうございます。
この物語は、2000年代に個人サイトにアップしていたものを加筆修正し、PCを処分するにあたり個人的な保存も兼ねて、こちらに登録したものです。
『十二夜』のタイトルでピンときた方もいらっしゃると思いますが、ウィリアム・シェイクスピアからタイトルと設定をいただきました。




