第11話
「今からですか」
「はい」
と使者は答えました。
公爵様のご旅行の路上で、こぎれいな男が待ちかまえていて一行を止めたのです。
公爵様は自分の屋敷まであと数時間の道のりを見はるかし、肩をすくめて馬首を返しました。
「母のお呼びでは、仕方ありませんね」
公爵様の母上、イヴォンヌ・ベルクール夫人は、ひとり郊外の別荘に悠々自適の生活を送っておられました。別荘はよく人々が集まっては政談や芸術のサロンになり、一人郊外にお住まいのわりには、じゅうぶん楽しく快適な日々だということでした。
そのベルクール夫人が、視察旅行帰りの息子に「久しぶりなのだから、わたしのところにも顔を出しなさい」と、使者をよこしたのです。
「母上、ご機嫌はいかがですか?」
夫人のお住まいは公爵様のお屋敷よりこじんまりとした建物でしたが、気の利いた造りで、心地よさそうな様子です。執事に案内されて客室に通されると、そこで公爵様の母上が召使に午後のお茶の用意をさせながら待っていました。おいしそうな焼き菓子もさまざま並んでいます。
公爵様の母上は、それはそれは美しい人でした。こんな大きな息子がいるとは思えないほど若々しく、その上精神の充実で輝くばかりなのです。
「ご機嫌は、残念だけどそれほどよくないのよ。ほら、息子がなかなかわたしの意見に耳を傾けようとしなくなって。最近、それがどんどんひどくなってきたみたいで」
「いつまでも子供扱いなさるからですよ」
「一人前だと認めたから、家督を譲ってわたしは屋敷を出たのよ?」
夫人の輝くような薄茶色の瞳がすべての用意が美しく調っているのを認めながら巡らされ、ふっと部屋のすみに控えるマリユスのところで留まりました。
「あの子は?」
視線を追った公爵様は、
「わたしの小姓ですよ」
「まあ」
夫人はじっとマリユスを観察し、息子にお茶を差し出しながら、上機嫌で言われました。
「かわいいじゃない。気に入ったわ。あの子をわたしに頂戴」
「はい?」
「わたしに、ちょ・う・だ・い」
「お断りします」
公爵様は即座にきっぱり言いました。
公爵様のすぐ後ろにお世話のために立っていたアンリ少年が、そっとマリユスの様子をうかがいました。マリユスは知らん顔です。
夫人は肘をついた手にのせた顎をつっと突き出し、
「どうして?」
「どうしてって……、こちらの別荘は人手もじゅうぶんでしょう」
「いいじゃない。あなたの小姓のわりにはあの子、ぜんぜんお世話しようとしないし。あなた、嫌われているのではなくて?」
公爵様は顔をしかめました。
それはアンリも思っていたことでした。何があったのか突然マリユスの機嫌が悪くなり、どんなになだめても公爵様のお世話をしようとしなくなったのです。
「みなさんの集まりに、あの子をわたしの隣に侍らせたいわ」
イヴォンヌ・ベルクール夫人はうきうきと自分のアイデアを披露しました。
そういえば最近、ご婦人方が見目のよい召使を集め高価な衣装を着せて侍らせるのを趣味とされているようだと、アンリも噂に聞いた覚えがあります。
そして、なんで俺じゃなくてマリユスみたいなのが選ばれるんだ、と密かに思いました。あんな、なよなよしたヤツより俺の方がずっと仕事が出来るのに。
「ますますお断りです」
「あらまあ」
くるりとまなざしを回して何事か考えを巡らすと、夫人は、ふふ、と笑みを浮かべ、
「じゃあ、本人に決めてもらいましょう」
「本人に?」
それはまずい。本人に直接たずねれば、今は「行く」と言い出しかねない。公爵様はさすがに焦りました。
「母上、家督はわたしに譲られたとおっしゃられるなら、召使の人事に口を出さないでいただきたい」
とめにかかった息子をさっと手で払い、夫人は自分の侍女に何事かを命じました。
そして息子に向き直り、
「この前ね、ボワエルデュ侯爵にいただいたのよ」
夫人が優雅に手で示した先には、
「傭兵、ですか」
革の甲冑に身を固めた男が立っていました。
最近は騒がしい事件が頻繁に起こるようになり、貴族たちの間に、伝統的に優秀な兵士の多いワロキエ地方の男を私兵として雇うのが流行っていたのです。この傭兵も、その細長い顔立ちからワロキエ地方からやってきた者だとすぐにわかりました。
「まさか……」
夫人は極上の笑みでうなずきました。
「おもしろい企画だと思わない?」
先ほどの侍女が戻ってきて差し出したのは、一振の剣です。
「ちょっと待ってください」
公爵様が立ち上がりました。
「まさか、本気で決闘しろと?」
「あの傭兵、ちょっと使ってみたいと思っていたのよ。あの子がわたしの傭兵に勝ったら、あの子の自由意志。負けたら有無を言わさずわたしのもの」
「勝ち目などないではありませんか!」
「どうして? 男の子よ? 剣の扱いくらいできるでしょう?」
公爵様は思わず天を仰ぎました。
「さあ、場所を空けて。これは命令よ」
夫人のほほえみは楽しげで、本気でした。
逆らえる人はここにはいません。
夫人の召使たちがただちに庭へ出る扉を開きます。
いかにも沈痛な面もちで額に手を当てていた公爵様は、深い、深い、ため息をついて、
「わかりました。わたしが受けますよ」
侍女の剣を取り上げました。
「そう? わたしはどちらでもかまわなくてよ?」
夫人は召使が決闘を見物するのに一番よい場所に用意した椅子におさまり、楽しげにほほえみます。お茶とお茶菓子もすぐさま運ばれてきました。
公爵様が剣を取り上着を脱いでは、さすがにマリユスも意地を張り通すわけにはいきません。庭へ下りる公爵様のすらりとした背中を急いで追いかけました。
「こ、公爵様!」
「茶番は終わりにしましょう。文字通り、真剣勝負ですし」
公爵様は握った剣を何度か軽く確かめるように振り、
「わたしも賭をしていいですか?」
マリユスを振り返りました。
「賭?」
「そう。わたしが勝ったら、あなたの本当の名前を教えていただきたい」
「ほ、本当のって、」
「最初からわかっていましたとも。あなたが女性だということくらい」
公爵様はこの時は、からかうようではなく、心から優しげにマリユスにほほえみを向けました。
ご存じだったの? 最初から?
「わ、わたしは……」
「しー」
今こそありのままの自分を語ろうとしたマリユスの唇を、公爵様の人差し指がそっと押さえました。
「報酬は多いほどいいでしょう? 事情は合わせてお聞きします。その事情のおかげで、わたしはあなたに巡り会えたわけですし。わたしの勝利を祈っていてください」
公爵様はマリユスの唇を押さえた指先を自分の唇に一度当てて、決闘相手に向き直りました。
茶番というならば、これは最初から最後まで茶番なのです。
この決闘すらも。
でも、そのことをこの鎧甲を着込んだ傭兵は知っているのでしょうか。
マリユスは夫人を見ました。
夫人はこの決闘を純粋に楽しもうというように、悠然とほほえんでいるのです。
そしてマリユスが心から心配したとおり、決闘は最初から公爵様の劣勢でした。公爵様が一撃をくわえることができても、相手の甲冑が決定的になることを防ぐのです。ひるがえって公爵様の方は、普段着のまま。
「ととっ」
互いに何度か剣をぶつけ合い、突然公爵様が大きく退いて息を整え剣を構えなおしました。
その構えが不自然で、マリユスがよく見ると、公爵様の左腕がだらりと下がっているではありませんか。
「お怪我を?」
どっと傭兵が踏み込むのを見て、マリユスはもう耐えられず、思わず両手で顔を押さえ、強く目を閉じてしまいました。
だからマリユスは何が起こったのか知ることはなかったのですが、踏み込んだ傭兵の剣の下をかいくぐり、公爵様はひらりと身を翻して相手の剣をなぎ払ったのです。
剣が落ちた音がして目を開け、自分の方へ飛んできたそれを傭兵に取らせまいと拾い上げたのはマリユスでした。
傭兵は公爵様との間合いを計り、剣を取り戻すべく小姓に駆け寄ろうとし、そこを公爵様が剣を繰り出し、切っ先を相手の喉元に押し当てました。
傭兵は自分の女主人を見ました。
女主人がうなずき、傭兵が両手をあげて戦意を消したのを確認して、公爵様はマリユスを振り返りました。
剣をその背に隠すマリユスから危なげな抜き身の刃をそっと取り上げて、傭兵に返します。そして、公爵様はマリユスの、震える手をそっと取りました。
ともかく、決着はついたのです。
夫人はにこやかに手をたたいて息子の勝利を称えました。
「素敵な勝負でした」
公爵様は母に向き直りました。
「では、わたしが勝ったのですから、先ほどのお話はなかったことで、よろしいですね」
ところが夫人は機嫌よく椅子から立ち上がると、
「わたしはその子の自由意志と言ったはずよ。それに、その子が助けてくれての勝利だもの。やっぱり本人の意見を聞きたいわ」
夫人はマリユスを手招きました。
公爵様のまなざしが「行くな」と言っているのは感じましたが、この時マリユスは夫人に従うことを選びました。
公爵様がマリユスの手をしっかりととらえようとした寸前、その手はすべらかに離れていきました。
夫人は彼女への深い理解とそれでもご自分の意図を揺るがせにしない強さを表情にたたえ、マリユスにささやきました。
「約束していたでしょう? フレデリクを困らせないと。さあ」
夫人の意思に負けない強さで、マリユスはうなずきました。
「決まりね。この子はわたしの小姓になりたいのですって」
夫人が宣言されました。
「マリユス」
公爵様ははじめて見せる怒りを含んだ表情でマリユスを引き寄せました。
「本気で行くというのですか、わたしの元を去ると」
「はい」
マリユスは重く苦い気持ちで、それでもきっぱりと答えました。
「あなたは野バラかマーガレットのように可愛らしいのに、霜か雪のように冷たいのですね」
「公爵様はわたしのこと、からかってばかりだったではありませんか」
「それは……」
弁解の余地はない。確かにからかいたい気分を押さえられず、それを楽しんでいたのも事実だ。
心中で自分に落胆しながら一度目を閉じ、公爵様はすぐに顔を上げ、
「わたしがかわりに剣を取ったことは、まったくの無駄だったのですね」
「わ、わたしは召使です。これ以上は……ご容赦ください」
「フレデリク?」
これ以上の介入を拒否すると口調に込めて、夫人が言いました。
「遅くなると真夜中に帰宅して屋敷の召使たちをまた煩わせることになるわよ?」
とっとと帰れとおっしゃるのです。
「またうかがいます」
さすがの公爵様もがっかりした様子を隠せず、マリユスを置いて、心を残して帰っていかれたのでした。




