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十二夜  作者: 朝霧露風
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第10話

 「おはようございます。公爵様」

「おはよう、マリユス。早いですね」


 翌朝マリユス少年が馬屋に着くと、ほどなく公爵様もやってこられました。


 サン=ジュスト家の屋敷ではすでに召使たちが働いているようでしたが、ここにはまだ誰もおらず、馬屋は木立から差し込むまばゆい朝日を浴びて、静かに浮かび上がっていました。


「気分はいかがですか?」

「もう大丈夫です。公爵様のお茶のおかげです」


 公爵様はにこやかにうなずくと、馬屋に入り、ご自分の馬に歩み寄りました。

 手をさしのべると、馬も主人に鼻面をこすりつけてきます。隣の馬が気づいて身震いしました。


 公爵様はご自分で馬にブラシをかけ、親しげに馬に話しかけながら鞍を置きました。マリユスが自分がやりますと申し出たのですが、公爵様はやんわりと却下したのです。


 馬を外に連れ出すと、公爵様はマリユスを振り返りました。


「行きましょうか」


 マリユスは公爵様が馬に乗り、自分は(くつわ)を持つのだと思っていました。ところがマリユスが馬のそばに来ると、公爵様がそこに膝をついたのです。


「公爵様?」


「どうぞ」


 それはあり得ないことでした。


 公爵様は両の手を組んで、マリユスのために足乗せを作ってくれたのです。そしてマリユスを見上げ、馬に乗るよううながしているのです。


「誰も見ていませんよ。さあ」

「でも、公爵様!」

「朝食の前に戻らなければ。急ぎましょう」


 さあ、ともう一度うながされ、マリユスはおそるおそる公爵様の手に自分の足をのせました。ポンと跳ぶとタイミングよく公爵様の手が動いてふわりとマリユスの体が浮き上がり、馬の背に届きました。


 マリユスが馬にまたがると、公爵様もその後ろにまたがりました。


「ちゃんとつかまりましたね?」


 マリユスがうなずくと、公爵様が拍車をかけ、馬が歩き出しました。


 朝鳥が鳴き交わす林を公爵様と馬で進む間、マリユスは恐れ多くてずっと身を固くしていました。


 ちょっとした下りでは馬の背がずいぶん傾いて、公爵様がマリユスの体を抱えるようにして転げ落ちないよう支えてくれました。


 長い指をそろえたきれいな、けれども時には剣を持つしっかりとした公爵様の手が、やんわりとマリユスの体に巻き付いて、傾斜地を過ぎても公爵様は腕をそのまま馬を進めるのです。


 だから湖にたどり着いて公爵様が馬を止めた時には、マリユスはほっとして急いで馬から降りたのでした。


「ありがとうございました」


 ご自分も馬から降りた公爵様にお辞儀をすると、公爵様はどこか楽しげに「どういたしまして」と、マリユスと同じくらい丁寧にお辞儀を返してきました。


「公爵様、ここは?」


 木立のほとりに広がる湖は、かすかに残る朝靄を浮かべて静かに横たわっています。清新な空気がそこから立ち登ってくるようでした。


「ふたりきりの時はフレデリクと呼んでいいですよと、言っていませんでしたか?」


「まさか。お呼びできるわけがないじゃありませんか」


 あまりのことにマリユスが大きく目を開いてしまうと、公爵様はマリユスのそんな様子を実に楽しそうに眺めて、平然とおっしゃいました。


「それでは、呼ぶ練習をしますか?」


 端正な顔がにっこりと、真綿にくるんだような柔らかな口調で命じるのです。


「呼んでみてください」


「こ、公爵様! か、からかわないでください」


「からかう?」

 公爵様は軽く首を振りました。

「からかわれているのはわたしかと思っていましたが」


 公爵様の様子が、少し真面目なものに変わりました。


宮宰(きゅうさい)はあなたを小領主の子息だと言っていましたが、わたしの封土(ほうど)の小領主の屋敷はこれでだいたい回りました。さて、あなたはどちらの小領主のご子息だったのでしょう」


「あ……」

 マリユスはうろたえて顔色を失いました。


「どなたもあなたを自分の息子だとはおっしゃらなかったようですが」


 まさかそれを確認するために突然視察だなんて言い出されたの、この方は?


 何か言わなければと思うほどマリユスは息をつめてしまい、公爵様はじっくりとお返事をききましょう、とばかりににこやかに人のことをのぞき込むのです。


 マリユスはあわてました。こんな風にあばかれていい手はずではなかったのです。これまで上手く振る舞ってきていたつもりだったのに。


「そ、そんなことをお知りになって、どうするのですか」


「これは重要なことだと思いますが」


 マリユスが口をつぐんでしまったので、公爵様は馬の手綱を引いて、そばの木に結びました。


「最初はね、何かの陰謀があるのかと思っていました。わたしも立場上、敵がいないわけではありませんから。だが、あなたは小姓としての仕事にもわたしにも、誠実だった」


 公爵様はマリユスのことを、はじめは暗殺者か秘密を探りに来た回し者かとも思っていたのです。教皇派ともめた皇帝陛下の援助をした直後だったこともあったので。


 しかしすぐにその疑念は消え去りました。


 たとえばふっと顔を上げた瞬間、引き寄せられるように目が合う。するとマリユスはまごついて顔を伏せるのです。


 気遣いを示した時も、マリユスはすぐに赤くなって我を失いかけました。


 大事な物に触れるなと言った時、マリユスは触れてみたいと思わなかったはずはないその誘惑に勝って、それよりも主人の亡き人への思いに花を添えたのです。


 何がそういう態度をとらせるのか、わからないほど公爵様は野暮ではありません。


 まして、どういうツテを使ったのか、自分を小領主の子息と偽って近づいてきたのです。


「語りたくなければ語らなくてもかまいませんよ。しかし、憶えておいてください。わたしはわかっている。ということを」


 マリユスはもうほとんどこの場から逃げてしまいそうでした。


 けれども。


 小姓のままならば訊ける。


 そう気がついて、駆け去りたがる足をなんとか踏みとどまらせました。


「公爵様には、どなたか、許嫁の方や……心に決めた方はいらっしゃらないのですか?」


「なるほど。それを探りに来たのですか? ではお答えしましょう。いませんよ」


「だって、こ、公爵ともなれば……。アンリが言っていました。誰もが公爵様を狙っているのだって。だから今回の旅の間も、どこのお屋敷でもお嬢様方が公爵様に近づいてくるのだって」


「ああ。あの方々はね、万に一つの可能性にかけて親がけしかけてきているだけです。普通に考えれば、彼女たちにはわたしとの婚姻は考えられない。家格が違いすぎますから。けれどもわたしは若い。だから、もしかしたらこのわたしがうっかり立場を忘れ去るほどあのお嬢さん方を気に入るかもしれない。浮かれてすべてを差し出してもかまわないから連れ帰るとでも言い出す、かもしれない。そうすればわたしを操って公爵家の絶大な力を自分たちのものに出来るだろう。彼らが考えているのはそういうことです。もちろん、お見合いのような話もありました」


「その方はどうされるのですか」


「話をうかがった時にすぐにお断りしました」


「な、なぜです?」


「あれは親が仕組んだあきらかな政略だったのですよ」


「だから、一度も会わずに、断ったのですか?」


「顔を見てから断っては、女性に対してもっと失礼ではありませんか。翻す気はありません」


 いつの間にか公爵様はマリユスのすぐそばに立っていました。


 どこまでも穏やかなくせに有無を言わさない表情にその場にとどめられて、マリユスは完全に逃げそこなっていたのです。


「わたしは自分が我を失うほど誰かを気に入るような人間だとは、今まで思っていませんでした。もう少し、計算高い、というと冷たく響きますか? そうですね、公爵という身分にふさわしく自分の気持ちを(ぎょ)せると自負していたという意味で受け取ってください。しかし、あなたに会ったあの晩からずっと、その自負が揺らいでいます」


「あ、あの……」


 逃げなければ。マリユスの心で警鐘が鳴り響きました。これ以上踏み込んではいけない。


「マリユス」


「わ、わたしはあなたの小姓です」


 マリユスは精一杯に答えました。


「それが?」


 公爵様は楽しくてたまらないのを寸前でこらえたような笑みを浮かべ、あっさりと言いました。


「あなたがたまたま可愛らしい男の子だったというだけでしょう? 違いますか?」


 のぞき込まれて、マリユスは驚ききった表情をすぐさまきっと引き締め、突然緑の色味を濃くした瞳で公爵様を睨みあげ、



 ぼくっ!



 公爵様の予想は平手の方でした。あらかじめ心で準備していたのはそちらだったのです。


 だから拳骨がお腹に食い込んだのは、これはかなり効いたようでした。


 なにしろ公爵様は思い切り顔をしかめてお腹を押さえ、その場に膝をついてしまったほどでしたから。


「マ、マリユス!」


 呼んでも戻ってくれまいとは思いましたが、やはりマリユスは野ウサギのようにあっという間に駆け去ってしまったのでした。




 以来マリユスはむすくれ、無視を決め込みました。それはもう、アンリ少年もはらはらするほど、徹底的に。


 サン=ジュスト家を後にした公爵様は馬の背に揺られながら、かみしめるように思いました。


 あまりにも素直な反応に浮かれすぎた。わたしとしたことが、たいした失態だ。

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