偽りの婚約者だった私に、真実の愛を向けないでください。
偽りの婚約者だった私に、真実の愛を向けないでほしかった。
そう願っていたはずなのに。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
私の住むスタンダリア王国は、緑に囲まれた山間の小国だ。
外から見れば、穏やかで豊かな国に映るだろう。
けれど、その内側は、今にも崩れ落ちそうだった。
この国は、魔法鉱石によって成り立ってきた。
南の火山、北の連山──どちらの鉱山からも、他国では滅多に採れない上質な魔法鉱石が産出し、それが長年、国の命綱だった。
けれど、ここ数年で状況は一変した。
掘っても、掘っても、出てくるのは粗雑な鉱石ばかり。
深く掘るほど、魔力の薄い石が増えていく。
王都に届く噂は、どれも暗いものだった。
鉱夫が職を失った話、税が上がった話、城下で不満が溜まっているという話。
男爵家の令嬢である私──スターシアの家にも、その影響は静かに及んでいた。
「このままでは、国は持たぬだろうな」
父がぽつりと漏らした言葉を、私は忘れられない。
◇
王城に呼び出された理由を、私はその時まで知らなかった。
ただ、いつもより廊下が静かで、すれ違う人々の表情が硬いことだけが気になっていた。
謁見の間には、国王陛下と、信頼の厚い重臣が数名。
その空気を感じ取った瞬間、これは軽い話ではないと悟った。
「スターシア」
陛下は私の名を呼び、椅子を勧めた。
それだけで、胸がざわつく。
「隣国の動きについて、どこまで知っている?」
私は正直に首を振った。
「財政援助の話が出ている、と噂で聞いた程度です」
陛下は小さく頷き、言葉を選ぶように口を開いた。
「隣国は、我が国が財政難に陥っていることを把握している。そして──王位継承者が定まっていないこともな」
胸が、ひやりと冷える。
「世継ぎが定まらぬ国は、揺らぎやすい。彼らはそれを“好機”と見ている」
侵攻するつもりなのだと、直感した。
はっきりそう言われたわけではないのに、意味は十分すぎるほど伝わった。
「隣国から資金援助の申し出があった。しかし、善意ではない。時間を稼ぎ、内側から縛り、最終的には奪う──そのための布石だ」
私は思わず、指先を強く握りしめた。
「……では、もう……」
「いや」
陛下は、静かに首を振った。
「希望はある」
そう言って、視線を重臣の一人に向ける。
彼は一歩前に出て、低い声で報告した。
「東の禿げ山の調査が進んでおります。岩盤は固いが……魔力反応は確かです。採掘の目処は、もうすぐ立つでしょう」
思わず息を呑んだ。
あの、木も草も生えない山に──。
「もし東の鉱山が本格稼働すれば、国は持ち直す。隣国に縛られる必要はなくなる」
陛下はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「だが、それまでの時間が足りぬ」
理解してしまった。
だからこそ、隣国は急いでいる。
だからこそ、今この瞬間に、私がここに呼ばれている。
「隣国は、監視の名目で王女をこちらへ送るつもりだ。我が国の王子との婚約という形でな」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「だが、それは受けられぬ」
陛下の声には、父親としての苦悩が滲んでいた。
「だから──偽りの婚約を用意する」
その言葉が落ちた瞬間、私の中で何かが静かに崩れた。
「スターシア。そなたに、その役を頼みたい」
一瞬、言葉が出なかった。
男爵令嬢。
目立たず、派閥もなく、切り捨てやすい存在。
だから──私なのだ。
「東の鉱山の目処が立つまでの、時間稼ぎだ。婚約は形式だけ。いずれ必ず解消する」
陛下は、真っ直ぐに私を見て言った。
「危険な役目だと分かっている。だが、この国を守るために──力を貸してほしい」
私は、しばらく俯いたまま考えた。
怖くないと言えば、嘘になる。
けれど、この国で生まれ、この国で育った。
見て見ぬふりなど、できるはずがなかった。
私は、ゆっくりと顔を上げる。
「……承知いたしました」
声は、思ったよりも震えていなかった。
「この婚約が、国を守る盾になるのであれば。私は、その役を果たします」
陛下は、深く息を吐き、静かに頭を下げた。
「感謝する、スターシア」
こうして私は、隣国の野心と、王国の希望の狭間で──偽りの婚約者になることを引き受けた。
それが、私自身の心まで揺らすことになるとは、この時の私は、まだ知らなかった。
◇
王太子殿下の婚約者として、私が王宮に迎え入れられた日。
それは祝福でも、栄誉でもなかった。
ただの役割だ。
「形式上の婚約だ。君に余計な負担はかけない」
初めて二人きりで言葉を交わしたとき、殿下──レオンハルトは淡々とそう告げた。
感情を交えない、冷静で理性的な声音。
私はそれに安堵した。
「承知しております。お役目は、きちんと果たします」
それでよかった。
期待も、愛情も、未来も必要ない。
私はただ、偽りの婚約者を演じるだけなのだから。
◇
婚約者としての日々は、思った以上に穏やかだった。
夜会では腕を組み、求められれば微笑む。
会話の内容は無難に、距離は一定に保つ。
レオンハルト殿下は常に紳士的で、私に触れることも、過剰に干渉することもなかった。
……最初のうちは。
「寒くないか?」
ある夜会の帰り、馬車に乗り込む前に彼がそう言って、私の肩に外套をかけた。
何気ない仕草。誰にでもする気遣い。
そう理解しているのに、胸が小さく跳ねた。
それから少しずつ、違和感は積み重なっていった。
忙しい政務の合間に、私の好きな紅茶を覚えていたこと。
人前では決して見せない疲れた表情を、私の前でだけ見せること。
名前を呼ぶ声が、いつの間にか柔らかくなっていたこと。
それは、役割に必要な演技ではなかった。
だから私は、気づかないふりを続けた。
◇
「──殿下」
ある日の午後、庭園で二人きりになったとき。
私は意を決して口を開いた。
「どうか……これ以上、私に優しくなさらないでください」
レオンハルト殿下は足を止め、静かにこちらを見た。
「理由を聞いても?」
「この婚約は、偽りです」
当たり前の事実を、改めて口にするのは苦しかった。
「終わりが決まっている関係に、真実の感情は不要です。……いえ、あってはならない」
一瞬、沈黙が落ちる。
「君は、私が本気だと?」
低い声で問われ、私は視線を伏せた。
「そうでなければ……あのような目で見ません」
彼は小さく息を吐き、苦笑した。
「困ったな」
「殿下」
「否定できない」
その言葉が、胸を締めつける。
「だが、君に迷惑をかけるつもりはない」
彼は一歩、距離を取った。
その後退が、なぜかとても痛かった。
「約束しよう。役目が終われば、きちんと解放する」
私は頷くしかなかった。
◇
隣国からの命令が届いたのは、私とレオンハルト殿下が婚約を発表して間もない頃だった。
「本当に婚約したのか、直接確かめたい」
それだけを理由に、私たちは隣国の王城へ来るよう求められた。
──疑われている。
馬車の中で、その事実が重くのしかかる。
「怖いか?」
向かいに座るレオンハルト殿下が、低い声で尋ねた。
「……少しだけ」
正直に答えると、彼は小さく微笑んだ。
「大丈夫だ。君は、何も間違っていない」
偽りの婚約なのに。
そう思いながらも、その言葉に胸が落ち着くのを感じてしまった。
◇
隣国の王城は、重厚で冷たかった。
石造りの謁見の間には、隣国王と王妃、そして鋭い視線を向ける貴族たちが並んでいる。
「スタンダリアの王子と、その婚約者だな」
隣国王は、私たちを値踏みするように眺めた。
「噂では、急な婚約だと聞く。まさか、国難を誤魔化すための方便ではあるまいな?」
場の空気が張り詰める。
レオンハルト殿下は一歩前に出て、堂々と答えた。
「我が婚約に、疑念を抱かれる理由はありません」
「では、確かに婚約した証を見せよ」
その言葉に、胸が凍りついた。
──証?
打ち合わせなど、していない。
「婚約者同士でなければ知りえぬこと。あるいは、絆を示すものでもよい」
無理難題だった。
◆
最初に問われたのは、些細なことだった。
「互いの好きな食べ物は?」
一瞬、言葉に詰まる。
だが、レオンハルト殿下が自然に口を開いた。
「彼女は、甘すぎない焼き菓子を好む。特に、林檎を使ったものだ」
──なぜ、それを……。
驚きながらも、私はすぐに続ける。
「殿下は、香草の効いた料理を召し上がると、必ず笑顔になります」
貴族たちがざわめいた。
次は、より踏み込んだ質問だった。
「喧嘩をしたことは?」
「あります」
二人同時に答えてしまい、思わず視線が絡む。
「彼が無理をなさる時です」
「彼女が我慢をしすぎる時だ」
その答えに、隣国王が目を細めた。
◆
だが、最後の問いは、明らかに悪意があった。
「言葉ではいくらでも誤魔化せる。ならば、形ある証を見せよ」
隣国王は、冷たく言い放つ。
「婚約の証だ」
頭が真っ白になった。
指輪など、用意していない。
沈黙が流れ──その時。
レオンハルト殿下が、私の手を取った。
驚く間もなく、彼は私の指に触れる。
「こちらです」
彼が示したのは、私が常に身につけている、小さな護符(首飾り)だった。
「彼女が身に着けているそれは、私が贈ったものです」
隣国王が眉をひそめる。
「魔除けの護符に見えるが?」
「ええ。彼女が危険に晒されることを、私は何より恐れていますから」
殿下は、迷いなく言った。
「婚約者として、それ以上の証が必要でしょうか」
その言葉に、場が静まり返った。
私は、胸の奥が熱くなるのを必死に抑えた。
──これは演技。
そう分かっているのに。
しばらくの沈黙の後、隣国王は低く笑った。
「……よかろう」
完全に納得した様子ではない。
けれど、否定する材料もない。
「婚約は本物のようだ」
そう告げられた瞬間、ようやく息ができた。
◆
王城を出た後、私は足を止めた。
「殿下……先ほどの護符の話は……」
「事実だ」
彼は、はっきりと言った。
「偽りの婚約でも、君を守る気持ちだけは本物だ」
その言葉に、心が揺れる。
この婚約は、国を守るための偽り。
けれど──。
隣国を欺くために重ねた嘘は、少しずつ、私の心を本当へと近づけていた。
◇
それから数ヶ月後──王城は、かつてないほどの熱気に包まれていた。
最初に耳に入ってきたのは、廊下を駆ける足音と、抑えきれない歓声だった。
「東の山で……!」
「今までとは比べものにならない純度だそうだ!」
半信半疑のまま、私はレオンハルト殿下とともに報告を聞いた。
東の禿げ山。
長年、誰からも見向きもされなかった、岩肌むき出しの山。
そこから掘り出された魔法鉱石は、これまで王国が誇ってきたものを遥かに上回る純度を持っていたという。
「調査の結果、埋蔵量は膨大です」
報告官の声は震えていた。
「何十世代先まで掘り続けても、尽きることはないと……」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
それはつまり──この国の未来が、確かな形で保証されたということだ。
◇
王国は、驚くほどの速さで息を吹き返した。
上質な魔法鉱石は、瞬く間に各国の注目を集め、貿易は活発化した。
失われかけていた国益は、急速に取り戻されていく。
城下では、再び職を得た鉱夫たちの笑顔が見られるようになり、市場には活気が戻った。
増税の話も立ち消えになり、国民の不満は静かに消えていった。
「……本当に、乗り切れたのですね」
城壁の上から街を眺めながら、私はぽつりと呟いた。
「ああ」
レオンハルト殿下は、穏やかに頷いた。
「君が、時間を稼いでくれたおかげだ」
私は首を振る。
「私一人の力ではありません」
偽りの婚約。
それは確かに、国を守るための盾だった。
◇
一方で、隣国の情勢は急速に悪化していた。
皮肉なことに、スタンダリア王国から流れた魔法鉱石を購入し、武力を強化した周辺国が、隣国へと攻め込んだのだ。
もともと敵の多かった国だった。
内政も不安定で、王位継承問題も解決していなかった。
結果は、あまりにも早かった。
「隣国王、失脚との報です」
その知らせが届いた日、謁見の間は静まり返った。
誰も、喜びの声を上げなかった。
ただ、長く続いていた重圧が、ようやく解けたのだと、皆が実感していた。
──もう、脅威はない。
その事実が、胸の奥に静かに染み込んでいく。
◇
その夜、私は一人で庭園を歩いていた。
月明かりに照らされた噴水の音が、穏やかに響く。
「ここにいたか」
背後から聞こえた声に振り返ると、レオンハルト殿下が立っていた。
「すべて、終わりましたね」
私がそう言うと、彼はしばらく黙ってから答えた。
「ああ。国の危機は、もう去った」
少しの沈黙。
「……この婚約も」
その先の言葉を、私は飲み込んだ。
偽りの婚約。
国を守るための、期限付きの関係。
役目は、もう果たされたはずだ。
「スターシア」
彼は、私の名を呼んだ。
「君は、これからどうしたい?」
その問いに、私はすぐに答えられなかった。
国のために選ばれた役目。
偽りから始まった関係。
けれど──
いつの間にか、それは私の心に、確かな重みを持っていた。
王国の脅威は消えた。
けれど、私たちの物語は、まだ終わっていない。
そんな予感だけが、静かに胸に残っていた。
◇
それから十日後、婚約は解消された。
王宮は驚くほど静かで、まるで最初から何事もなかったかのように、淡々と日常を続けている。
人々は忙しなく行き交い、私の役目が終わったことなど、誰の記憶にも残っていないようだった。
私は与えられていた部屋で、静かに荷をまとめる。
持ち込んだものは少ない。だから、片付けはすぐに終わった。
これでいい。
これが、正しい終わり方だ。
偽りの婚約者としての役目は、きちんと果たした。
国は救われ、脅威は去り、私は元の男爵令嬢に戻る。
それ以上を望んではいけない。
誰にも見送られぬよう、私は王城の裏門へと向かった。
そこに用意されていた小さな馬車は、私を静かに日常へと連れ戻すためのものだ。
御者に声をかけ、足を踏み出そうとした──その瞬間だった。
「待ってくれ」
呼び止められた、その声に──心臓が跳ね上がる。
振り向いた先に立っていたのは、見慣れた顔だった。
けれど、今日の彼はいつもとは違っていた。
豪奢な正装に身を包み、背筋を伸ばして立つその人は、紛れもなくスタンダリア王国の王子だった。
「……殿下」
──どうして、ここに。
そう問いかける前に、彼は一歩、私の前へ進み出た。
「偽りの婚約は、終わった」
はっきりと、迷いのない声だった。
分かっている。
分かっているはずなのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「だが」
彼は、私から目を逸らさない。
「君への想いは、偽りじゃない」
その言葉が、胸に落ちる。
ずっと抑え込んできたものが、一気に溢れそうになるのを、私は必死で堪えた。
「……殿下、それは」
「今度は、選択を委ねる」
彼はそう言って、私に手を差し出した。
「何の立場も、義務もない。王国のためでも、誰かの命令でもない」
一瞬、風が吹き抜ける。
「それでも、私と共に歩むか?」
私は、その手を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
偽りの婚約者だった私に、真実の愛を向けないでほしかった。
そう願っていたはずなのに。
それなのに。
「……ずるい方ですね」
思わず、笑みがこぼれた。
逃げ道を、すべて塞いでから問いかけるなんて。
「殿下のお心を受け取ってしまった以上──」
私は、そっと彼の手に触れる。
「責任は、取っていただきます」
一瞬、彼は驚いたように目を見開き──それから、初めて見る、少年のような笑顔を浮かべた。
その手は、温かくて、確かだった。
私は、そっと指を絡める。
偽りから始まった婚約は終わった。
けれど──ここから先は、私自身が選んだ道だ。
静かに動き出した馬車を見送り──私は、彼と共に歩き出した。
それが、私の本当の始まりだった。
〜〜〜fin〜〜〜
貴重なお時間を使ってお読み頂き、本当に有難うございました。
興味を持って頂けたならば光栄です。
作者のモチベのために☆やいいねを残して頂くと幸いです。感想などもお待ちしております。
ブクマ頂けたら……最高です!
シリーズ『異世界恋愛の短編集!』の中の作品も、合わせてお楽しみください。




