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それは、知らないはずの…


 ――息が、うまく吸えなかった。


 視界が白く滲み、地面の感触が遅れてやってくる。

 冷たい。硬い。生きている証拠。


 ルナリは膝をついたまま、しばらく動けずにいた。


 成功した。

 女神の前で願い、差し出し、そして――戻された。


 けれど。


 (……近すぎる)


 森の匂いが、前よりも濃い。

 風の音が、やけに耳につく。

 世界が“解像度を上げすぎた”みたいに、現実感を主張してくる。


 ――前は、こんな感覚はなかった。


 立ち上がろうとして、足がもつれた。

 身体が、微妙に思い通りにならない。


「……あ?」


 声が、少し低い。

 驚いて喉に触れる。


 同じ身体のはずなのに、完全に同じではない。


 嫌な予感が、背中を這い上がる。


 記憶をなぞる。

 今日の日付。

 場所。

 次に起きるはずの出来事。


 全部、合っている。

 合っているはずなのに――


 遠くで、木の枝が折れる音がした。


 反射的に顔を上げる。


 朝の光は、前の世界と同じ色をしていた。

 少し白っぽく、冷たくて、それでいてどこか優しい。


 セラは小屋の前で、剣の手入れをしていた。

 ぎこちない動き。まだ戦いに慣れていない証拠。

 それも、知っている未来の通りだった。


「今日は街に行こうか」


 そう言うと、セラは顔を上げて小さく笑った。


「うん。……でも、東門は避けたほうがいいよね」


 ルナリの足が、止まった。


「……どうして?」


 問い返す声が、自分でも驚くほど低くなっていた。

 セラは不思議そうに首を傾げる。


「だって、あそこ――」


 言いかけて、セラは口を閉じた。

 一瞬、言葉を探すように視線が揺れる。


「……ごめん。今の、変だったね。忘れて」


 忘れられるはずがなかった。


 東門。

 そこはこの世界で、最初の死が起きる場所だ。


 前の周回では、セラは何も知らずに通り、

 ルナリが庇い、血を流した。

 それが、すべての始まりだった。


「セラ」


 名前を呼ぶと、彼女はちゃんとこちらを見る。

 ――“知っているセラ”と、同じ顔で。


「今、何を言おうとしたの?」


 少しの沈黙。

 それから、セラは曖昧に笑った。


「……わからない。ただ、嫌な感じがしただけ」


 その答えは、嘘ではなかった。

 だからこそ、ルナリは息を詰める。


 嫌な感じ。

 理由のない予感。

 それは――本来、彼女が持つはずのないものだ。


 街へ向かう道すがら、事件は起きなかった。

 盗賊も、事故も、誰の死も。


 すべてが「正しい未来」の通りに進んでいる。

 ……はずだった。


「ねえ、ルナリ」


 市場のざわめきの中で、セラがぽつりと言った。


「“ミレイア”って、人……知ってる?」


 世界が、音を失った。


 ミレイア。

 それは――前の周回で、死んだ名前。


 この世界には、もう存在しないはずの人物。

 セラが知るはずのない、記録から消えた少女。


「……どうして、その名前を」


 問いは、最後まで言えなかった。


 セラは首を振る。


「わからない。ただ、夢で……」


 夢。

 その言葉が、胸に突き刺さる。


 前の世界でも、セラは同じことを言った。

 死ぬ直前に。

 「夢で見た気がする」と。


 女神の声が、脳裏をかすめる。


――「今度こそ、ちゃんと選べるといいね」


 ルナリは、拳を強く握りしめた。


 何かが、確実に混ざっている。


 そしてそれは――

 守るべき存在であるはずの、セラ自身から始まっていた。


 ルナリは、初めて思った。


(……彼女は、本当に“前と同じ彼女”なのか?)


 その疑問は、まだ言葉にならない。

 けれど、確かに芽を出していた。


 静かに。

 取り返しのつかない未来へ向かって。


 

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